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2009年11月

古代ユダヤと司馬遼太郎 2

 「 いま一度、日本を洗濯致し申し候」・・・。

 これは龍馬の有名な言葉のひとつでありますが、ある方は坂本龍馬を縦糸にし、古代ユダヤを横糸にして紡いでいくと、やがて坂本龍馬の夢見た世界が訪れると、述べられました。

 そして前回、その一部を紹介させていただきました。

 その続きを紹介します。

 『司馬遼太郎自身、「歴史探訪」で次のように述べたことがあった。
  「私は、『竜馬がゆく』という小説を書いて、最後の回を書き終わった時に、はっと気がついたことがあるんです。ああそうか、と思った。それは書かなければわからないことなので、小説というものは不思議なものです。書く時にわかっていないことが、書いてからわかることがあるんです。
 坂本龍馬にとっては明治維新を革命としたなら、革命というものは片手間だったということ -  他の革命家たちは西郷隆盛でも桂小五郎でも、火の粉の中では革命そのものを達成すべくやっているのに、龍馬にとってはそれは片手間な仕事だった、ということがわかった感じなんですね。それは長崎海援隊の視点で考えればわかります。」

 まさに龍馬には大きな夢があった。海援隊として世界に出て行き、そして世界的貿易をすることであった。もし世界の海に1万隻の船を浮かべるならば、日本の領土が1万増えるという考え方だったのである。
 そのためには政治的に無力となった徳川幕府を倒さなければならない・・・これが坂本龍馬が幕末に始動した背景とそのエネルギーの根源だったのである。

 龍馬は浪人の身であったが、薩摩と長州を動かして、いわゆる「薩長秘密同盟」を結ばしめたのである。
 当時、薩摩には米が不足していた。その米を長州から出させる。一方、長州は幕府の敵とされ、軍艦などを外国から買うことができなかった。それゆえに龍馬は海援隊を使って薩摩の名によって長州に外国から軍艦を購入してやったのである。
 お互い敵であった薩摩と長州が、経済的な結びつきによって、まさに奇蹟的な同盟を結んだのである。
 この薩長秘密同盟が成立した時、徳川幕府は崩壊したと考えてもよいであろう。
 やがて龍馬は大政奉還を成し遂げて行く。自らは浪人なるがゆえに、そのアイデアがどれほど素晴らしいものであっても、大政奉還の建白書を提出することはできない。それゆえに土佐藩の家老であった後藤象二郎に託して、土佐藩主を動かしめたのである。
 まさにこの大政奉還もまた幕末における大いなる奇蹟と言っても過言ではないであろう。

 薩長秘密同盟、そして大政奉還・・・新しい時代が目の前に近づいていたのである。その中で先に述べた坂本龍馬暗殺事件が発生した。

 龍馬が暗殺されたわずか2週間後に「王政復古の大号令」が出されたのであった。
 龍馬は海援隊をして世界の貿易を行う・・・その夢は同じ土佐藩の岩崎弥太郎において成就することになった。この岩崎が「三菱財閥」を作ることになったのである。

 来年2010年、NHK大河ドラマ「龍馬伝」は、龍馬とこの岩崎弥太郎を1年間にわたって取り上げるのである。
 ついでながら同じNHKが、まもなく11月29日から約3年間をかけて司馬遼太郎の「坂の上の雲」を放映するのである。
 龍馬の夢を追い、一方においては生まれてまもない日本が、ロシアとの戦いにおいて勝利する夢が描かれていく。
 
 上昇気流に乗るという言葉があるが、いよいよマスコミをして日本において同じような上昇気流が起きることになる。

 さらに龍馬にはもうひとつの夢があった。それは北海道開拓である。ロシアに対する防衛、そして北海道における農業地を切り開くことだったのである。
 龍馬が暗殺され、そして明治維新の後、龍馬の親戚たちは続々として、あたかもその龍馬の言葉に従うかのごとく北海道へと渡って行った。

 
 司馬遼太郎が坂本龍馬以外に、最も力を入れた人物は高田屋嘉兵衛であった。彼は兵庫県淡路島に生まれ、まだ鎖国の時代にあった日本をして、ロシアとの外交政策を実行していったのである。もちろん高田屋嘉兵衛は日本での商人であったが、ある事件をきっかけにしてロシアとの外交交渉に当たらざるを得なかったのである。
 その小説が「菜の花の沖」である。
 司馬遼太郎はこの二つ、「竜馬がゆく」と「菜の花の沖」に持てるすべての力を費やしたのである。
 彼はその他、眠っていた多くの日本の英雄を次々に復活させるかのごとくに小説を書いていった。
 小説であるがゆえに、そこに描かれたのは歴史的事実と異なっているかもしれない。そうであるからこそ、そこに司馬遼太郎の夢とそのエネルギーが表れていたのである。

 彼は結果的に古代ユダヤの復活を多くの日本人に伝えていたのである。
 今日、多くの日本人は本を読まなくなってきている。毎年、本を読む読者層が減ってきているのである。
 その中でも断トツで、最も多くの人々が読み続けているのが司馬遼太郎の著作集である。

 世界は大きな変化を遂げる。その中において日本の最大の秘密は、古代ユダヤの血統が日本に生き続けているということである。
 司馬遼太郎の先祖は播磨の国、三木城の近くに住んだ武士である。三木といえば篭城戦で歴史に名を残した。
 彼の祖父、福田惣八は元々は三木姓だった。そして彼は明治になって大阪に出て来て、餅屋になっていたのである。かつて三木城が落ちてから、司馬遼太郎の先祖たちは兵庫県飾磨郡広という村で逃げ延び、他の城兵と共に湿地帯を開いて部落を造ったのであった。播州ではほとんどの家に落城後、逃げ落ちる時の恐怖噺が伝えられていて、話題の少ない農村では、まるできのうの事件のように語り継がれてきたのである。
 そしておそらく有史以来、播州の住民が体験した最大の事件が三木城落城だったのである。
 徳川中期には赤穂浅野家の騒ぎがあったが、規模の大きさにおいては比べることができないのである。
 
 徳川家康に遣わされた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の軍によって三木城は包囲された。数年間にわたる包囲である。そして三木城城主は別所長治であった。
 その時、長治は21歳の青年であった。戦国武士にしては珍しく古武士のような美意識を持っていた。戦国最後の名門の子であったからに相違ない。例え新興勢力の下風に立つとはいえ、大軍の先鋒を務めるということに武門の名誉を感じ続けたのである。
 一国の運命を単なる美意識にかけたというのも、乱世に類のない話といえるであろう。
 三木城は次第に孤城になっていったが、頼みにしていた毛利方の援軍は遂に来なかった。老獪な毛利は織田軍との大決戦に備えて、兵力の消耗を避けたのであろう。別所家は毛利のために大汗をかき、織田軍と戦いながら毛利の援軍を得ず、先の見込みもなく、何のために戦っているのかわからない状態になったが、それでも戦い続けたのである。
 驚くべきことにこの年は戦いに暮れ、翌年もその翌年も戦いが続いた。
 まさに狂気のごとき戦いであった。兵糧が尽き、草木を食い、壁を食い、遂に軍馬を食ったが、なお怯むことはなかったのである。長治の持つ貴族的な高雅さが、惨烈な篭城戦にあってよく部下を統率したのであった。

 そして遂に落城の時が来た。
 長治は孤城の士卒をことごとく本丸の広間に集め、長い戦いの労をいたわると共に、永訣の辞を述べ、翌日、庭に紅梅の咲く30畳の客殿に白綾の布団を引き、妻、波多野氏、男子2人、女子1人の子、そして実の弟夫妻と共に自害して果てた。
 その辞世は「いまはただうらみもあらじ諸人の命にかはる我身と思へば」であった。
 三木篭城の狂気ともいえる高潮した精神が、江戸期に入ってもなおこの地に息づき、浅野長矩の潔癖な狂気を生むと共に、その家臣団の中から赤穂浪士を生んだ。いずれも自分の美意識に殉ずるために家を捨て、身を滅ぼしていった。現に赤穂浪士の中には、三木城の篭城した者たちの子孫が幾人か混じっていたのである。
 三木の狂気が元禄に入って再び赤穂に現われたと言えなくもなかった。

 この別所氏も長治の妻を送った波多野氏(丹波・篠山)も古代ユダヤの子孫であった。
 まさに波多野氏は中国の秦氏の子孫である。
 当然、三木城において別所長治を支えた多くの人々の中に、古代ユダヤの子孫たちがいたであろう。それが三木城篭城となり、そして破れ、やがて散らされて行った人々の中には、その血液が生き続けていったのである。

 司馬遼太郎の文学は、そしてその血液はかくのごとく保たれ、かくのごとく姿を現わしたのである。

 来るべき2010年、世界は大動乱に入る。そのような時期に、日本においてもまたマスコミや様々なことを通して、古代ユダヤの復活を見ることができるのであろう。』(紹介終わり)

 古代ユダヤ・・・。

 そのような内容に触れたことで、 彼らは次の時代へ向かう時まで、日本の中で温存されたきたかのように感じております。

 そして、これから彼らは復活する。

 そんな予感がしてくるのです。

 司馬氏に対してこんな話を聞きました。  生前、彼をよく知るある人が、「もっと住みやすい場所に移られたらどうですか?」と進言されたことがあったそうなのです。
 
 未開放部落と呼ばれるところ。その地が彼の活動拠点であったそうです。
 
 

 この国で使われる漢字の中に「犠牲」という文字が存在します。

 漢字は中国から伝えられたものでありますが、この意味をよくよく考えてみるならば、これは誠に不思議なことで、中国や日本の文化をたどってもその文字が意味する事柄はどこにも見当たらないのであります。

  牛、羊、そして我。

 牛や羊が我の身代わり。「犠牲」の意味はそれを表した文字だと思われます。
 
 そして旧約聖書レビ記にそれは詳しく書かれていることから、聖書的な影響を受けた文字だと言えるのです。

 最後に坂本龍馬についてはフリーメーソンによって利用された人物、あるいはフリーメーソンだったという説が知られているようです。
 そして、それは説というよりもフリーメーソンとの接触があったことは紛れもない事実だったことが、裏付けられているようです。

 しかし、その事実はたとえ明確であったとしても、龍馬ははたしてフリーメーソンに利用されていたのでしょうか。

 もし、利用されていたのであれば、龍馬は何ゆえ暗殺されて、犯人が今も不明のままなのでしょうか。
 しかし、龍馬が彼らを利用した立場にあったとして、さらにはその事実に彼らが気付いたとしたら、彼らは一体どのような対処をするのでしょうか。

 どちらにしても真意を知ることは難しいことではありますが、別の見方をしたときに、見えない影の存在がぼやけているように感じたのです。

 

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古代ユダヤと司馬遼太郎 1

明日は坂本龍馬の生誕日、そして命日です。

・・・まずは、ある方からいただいたお手紙を紹介させていただきます。

『龍馬は慶応3年(1867年)11月15日に京都河原町通りの近江屋で殺された。それは突然に起きた死であった。

  その日11月15日の夕刻、京都郊外の白川土佐藩邸にいた中岡慎太郎は、河原町土佐藩邸近くの書店「菊屋」を訪れた。そこにかつて慎太郎は下宿していたことがあった。そして菊屋の息子・峰吉を可愛がっていた。

 慎太郎はこの峰吉に書状を渡して、その返事を近江屋に届けるようにと伝えた。近江屋は坂本龍馬の下宿先であった。そこで慎太郎は土佐藩士・宮川助五郎の件を龍馬と相談する予定だったのである。前年の9月、新撰組に捕縛された宮川が、今日にも釈放されようとしていたためである。

 その後、慎太郎は付近に下宿する土佐藩士・谷千城を訪ねたが不在であったので、午後6時頃に近江屋に着いた。いずれも藩邸からほど近い場所であった。
 龍馬はこの2、3日前まで近江屋主人・新助の計らいにより土蔵に潜んでいたが、風邪を引いたことなどから母屋2階の8畳の間に移っていた。2階では彼の付き人である藤吉が同居していた。
 用を済ませた峰吉は午後7時頃に近江屋へやって来る。そこへ土佐藩下横目・岡本健三郎も立ち寄っていた。
 
 雑談の後、空腹を覚えた龍馬が「軍鶏(しゃも)鍋を食べたい」と言った。そして買い物を引き受けた峰吉が出かけるのを機に、岡本も近江屋を退去した。

 2階に残ったのは西8畳の間の龍馬と慎太郎、そして東8畳の間の藤吉の3人であった。
 岡本と別れた峰吉は近くの鳥新に行くが、あいにく品切れ中であった。新たに軍鶏を潰すため20~30分ほど待たされた。惨劇はその間に起きた。

 近江屋を訪れた数人の武士が、十津川郷士の名刺を出して龍馬への面会を求めた。それを取り次いだ藤吉が階段を2階へ上がって行く。藤吉の後ろに3人の武士が従った。そして藤吉は階段を上がりきったところを背後から切りつけられたのである。
 その倒れる音を聞いた龍馬は、店先で誰かがふざけていると思ったのであろう、「ほたえな(騒ぐな)」と叱った。行燈が点いた西8畳の間で、龍馬と慎太郎は火鉢を挟みながら座っていた。
 その瞬間である。二人の者が部屋に乱入し、ひとりが「こなくそ」(四国の方言、この野郎という意味)と発しながら、手前にいた慎太郎の後頭部を斬った。と同時にもうひとりは、床の間を背にする龍馬の前額を横に斬った。
 
 慎太郎は大刀を屏風の後ろに、龍馬は床の間に置いていた。慎太郎は小刀で応戦するが、手と足を切り刻まれて意識を失った。
 もう右手首は皮一枚を残すだけとなっていた。
 一方、龍馬は大刀を取ろうと振り向いたところを袈裟懸け(けさがけ)にされる。それでも立ち上がろうとするが、またもや額を斬られた。脳しょうが流れ出すほどの重傷を負った。

 襲撃者に臀部を刺された慎太郎は痛みのあまり意識を取り戻すが、そのまま死んだふりをしていると、誰かが「もうよい、もうよい」と言い、襲撃者たちは引き揚げて行った。

 ほどなくして意識を回復した龍馬は、「残念」と口にしながら「慎太、慎太。どうした、手は利くのか」と尋ねる。「手は利く」と慎太郎は応じた。
 すると龍馬は行燈を片手に隣の東8畳の間まで這って行き、明かり取りの手すりから「新助、医者を呼べ」と階下の主人に声をかけた。

 しかしながらそこで龍馬は力が尽き、「慎太、俺は脳をやられたからもう駄目だ」とつぶやきながら倒れた。
 慎太郎も明かり取りとは反対側の物干しへと這い出て、近江屋の者を呼ぶが応答がない。やむなく彼は隣家の屋根まで這い伝って行ったがそこで再び意識を失ってしまう。

 中岡慎太郎はこの襲撃の後、2日間生きることができた。そして中岡慎太郎の証言によって、龍馬が襲われた状況が正確に伝えられている。
 龍馬たちの前に斬られた家来の藤吉は、龍馬襲撃の翌日に息を引き取った。

 司馬遼太郎著「竜馬がゆく」で、その暗殺の事件が次のように綴られている。

 「龍馬は自分で這い、隣室を這い進み、階段の口まで行った。
  『新助、医者を呼べ』
 と階下に声をかけたが、その声はすでに力が失せ下まで届かない。龍馬は欄干をつかみ座り直した。
 中岡も這って龍馬の側に来た。
 龍馬は外科医のような冷静さで自分の頭を押さえ、それから流れる体液を手の掌につけて眺めている。白い脳しょうが混じっていた。

 龍馬は突如、中岡を見て笑った。澄んだ太虚のように明るい笑顔が、中岡の網膜に広がった。
 『慎の字、俺は脳をやられている。もう、イカヌ』
 それが龍馬の最後の言葉になった。言い終わると最後の息をつき、倒れ、なんの未練もなげにその霊は天に向って駆け上った。

 天に意思がある。
 としか、この若者の場合、思えない。
 天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上に下し、その使命が終わった時、惜しげもなく天へ召し返した。
 この夜、京の夜は雨気が満ち、星がない。
 しかし、時代は旋回している。若者はこの歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押し開けた。」

 
 司馬遼太郎は坂本龍馬が好きであった。多くの資料を長きにわたって集め、そして満を持するかのごとくにしてその小説を書いたのである。
 それ以前、多くの日本人は坂本龍馬について知らなかったし、坂本龍馬は有名でもなかった。
 しかし、「竜馬が行く」の結果、多くの人々が坂本龍馬というまさに幕末の快男児を知るところとなったのである。

 司馬遼太郎自身、坂本龍馬について次のごとくに書いている。
 
 「坂本龍馬は維新史の奇蹟、と言われる。
  確かに、そうであろう。同時代に活躍したいわゆる英雄、豪傑どもはその時代的制約によっていくらかの類型に分けることができる。型破りと言われる長州の高杉晋作でさえ、それは性格であって、思想までは型破りではなかった。
 龍馬だけが型破りである。
 この型は、幕末維新に生きた幾千人の志士たちの中でひとりも類例を見ない。日本史が坂本龍馬を持ったことはそれ自体が奇蹟であった。なぜなら天がこの奇蹟的人物を恵まなかったならば、歴史はあるいは変わっていたのではないか。
 私は年少の頃からそういうことを考えていた。新聞記者の頃、少しずつ資料を集め始めた」(「竜馬がゆく」あとがきより)   』


つづく

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石の不思議を考える

大本教に「石がもの言う時が来る」という言葉があるそうです。

 小生はこの意味が何なのかは存じませんが、ことわざにも「石の物言う世の中」というのがあるそうです。
 その意味は、秘密が漏れやすいことのたとえで、物を言うはずのない石が物をいうほど、世の中では秘密が漏れやすいという意から、そのような言葉ができたそうです。

 石がものを言う・・・。
 そういえば、私たちはお墓参りに行くと、お墓の前で手を合わせ、ご先祖様と会話します。そのときにご先祖様が墓石に降りてこられるのでしょう。そして、日々の感謝を報告するのですが、単純にその様子を考えると、私たちは石と会話をしていることになるのです。

また、言霊的な見地から捉えると、石は医師や意志という言葉にも、何かしらの接点があるような気もするのです。

 それで最初に「石=医師」という観点から考えてみました。
 まず、日本は火山列島と呼ばれることから、全国各地には温泉があります。
 温泉は湯治場と言われるように、今で言えば病院のような役目を備えた場所でした。
 そして、温泉は鉱泉が湧くところで、鉱泉は治療成分がある水のことをいいます。鉱泉とは石の影響を受けた水。このようにやはり、「石は医師」でもあるようです。

次に「石=意志」を考えました。
今度は、それを聖書に記された事柄から、紹介したいと思います。

旧約出エジプト記には、祭司が身に付ける胸当てには必ず石をはめ込むように、以下の内容で記されています。
 『15 あなたはさばきの胸当てを、巧みな細工で作る。それをエポデの細工と同じように作らなければならない。すなわち、金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で作らなければならない。

16 それは、四角形で、二重にし、長さは一あたり、幅は一あたりとしなければならない。

17 その中に、宝石をはめ込み、宝石を四列にする。すなわち、第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。

18 第二列はトルコ玉、サファイヤ、ダイヤモンド。

19 第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶、

20 第四列は緑柱石、しまめのう、碧玉。これらを金のわくにはめ込まなければならない。

21 この宝石はイスラエルの子らの名によるもので、彼らの名にしたがい十二個でなければならない。十二部族のために、その印の彫り物が一つの名につき一つずつ、なければならない。』
(出エジプト記28章15-21)

以上が、石にまつわる部分ですが、この宝石がユダヤ12部族の名になるといわれていますので、各々の石についての部族名や石の効能などを以下に説明致します。

第一列
赤めのう(レッドアゲート)   ルベン族  勇気と行動力を身につけ、失敗や不幸にも負けず前進することを助ける。

トパーズ           シメオン族  問題解決を助け、芸術に関係している人に有用。消化を助け食欲不振に対処する。

エメラルド             レビ族  人生の不幸を克服する強い性格をもたらす。肝臓の解毒効果、リウマチと糖尿病の症状をやわらげる。記憶力の強化、表現力を助ける。

第二列
トルコ玉(ターコイズ)       ユダ族  内面の平静さをもたらし、創造的な表現を助ける。

サファイア           ゼブルン族  繁栄をもたらしあらゆる種類の恵みを引き寄せる。血管疾患に対処する。

ダイヤモンド         イッサカル族  勇敢さ、無敵性、不屈性をもたらす・創造力や創作力を刺激し、心の明晰性、悟りを助ける。

第三列
ヒヤシンス石(ジルコン)      ダン族  病気や怪我から身を守り、雷の被害から守る。良い眠りを誘う力があるため、旅の安全に使われた。

めのう(アゲート)        アセル族  血液を浄化し、解熱解毒の作用。精神安定的な働きをする。安眠効果あり。

第四列
緑柱石(アクアマリン・ベリル) ナフタリ族  心を鎮め、物事を正しく認識させ、知性を研ぎ澄まし混乱を解決する。未完結の事項に結論をもたらす能力がある。船乗りたちはお守りとしてこの石を携行。

しまめのう(オニキス)      ヨセフ族  忍耐力と精神力を高め、目標実現をサポートする。

碧玉(ジャスパー)     ベニヤミン族  正しい判断、行動力と勇気、情熱を引き出す。自分を変え、美しく輝きたい人に力を与える。


以上が、12の石についての説明ですが、これらのことから石には人間の肉体や精神に対して、何かしらの手助けをしてくれる、そんな事柄について、ふれられていることを知ったのです。

また、後の時代へ語り継ぐような意味合いで、石に文字が刻まれる石碑というものを考えると、「石は意思を伝達する」という、手段で利用されていたことが分かります。

有名なところではモーセが神と交わした十戒は石板でありました。
さらに、旧約ヨシュア記には以下のように記されていました。

『22 それでヨシュアは民に言った。「あなたがたは、主を選んで、主に仕えるという、自分自身の証人である。」すると彼らは、「私たちは証人です」と言った。

23 「今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」

24 民はヨシュアに言った。「私たちは私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」

25 それでヨシュアは、その日、民と契約を結び、シェケムで、おきてと定めを定めた。

26 ヨシュアは、これらのことばを神の律法の書にしるし、大きな石を取って、主の聖所にある樫の木の下に、それを立てた。

27 そして、ヨシュアはすべての民に言った。「見よ。この石は、私たちに証拠となる。この石は、主が私たちに語られたすべてのことばを聞いたからである。あなたがたが自分の神を否むことがないように、この石は、あなたがたに証拠となる。」

28 こうしてヨシュアは、民をそれぞれ自分の相続地に送り出した。』
(ヨシュア記24章22-28)

ちなみにヨシュアはモーセの弟子でありました。彼はここで「石は聞いている」とも語られました。

このように、石というものを考えてみると、それは「不思議な性質を持たされた物質」のような感覚にとらわれてしまうのです。

さらに旧約サムエル記第一は、石に対して感謝の意が記されてもいるのです。

『12 そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と言った。』
(サムエル記第一7章12)

この部分のエベンは「石」、エゼルは「助ける」という意味で、「石に助けられた」と解釈できます。

それで、今度は日本的な意味合いでの「石」を考えると、「勾玉」という言葉が浮かんできます。
勾玉は古代の日本における装身具の一つであります。
その形は陰陽太極図の形をしており、、「魔を避け、幸運が授かる物」として、今日風にいうならばパワーストーンというものになると思われます。

地名に「玉造」とあるところは、「勾玉」が作られていたことを示すことから、その名が残されたようです。
そして、皇室に伝えられる八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、その中では代表的なものであり、日本の三種の神器のひとつとして伝えられているものです。

このような「石」にまつわる事柄にふれてみると、やはり石は「医師」であり、その中には「意志又は意思」が秘められているような思いにかられてしまうのです。

それを科学的な言葉で言い換えるなら、ある種のエネルギーを発している「波動」というものになるのでしょうか。
そしてミクロ的には原子の世界を表しており、マクロ的には宇宙を表すことにもなります。

やはり、過去の歴史や聖書的な観点から考えてまいりますと、石は単なる物質ではなく、そこには深い意味が込められた、見えない何かがあるようです。このような捉え方を発展させれば、「石がもの言う時が来る」という意味も、見えてくるのではないでしょうか。

小生は、日本に古代ユダヤ人が来ていることに、興味を持っておりますが、今回は「石」というテーマから捉えてみても、そのような感じを受けました。

古代ヘブライ語では造物主のことを「ヤハゥエ」と呼ぶそうです。しかし、発音的にはそれは「ヤウエ」と聞こえるそうです。
そして神への叫びは「ヤーサカ」となり、まさに八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は「ヤサカにのまがたま」となりますし、「ヤサカ」は「弥栄」とか「八坂」という日本における神道で用いる言葉に共通したものにもなります。

以上のような事柄は、最近「勾玉」にまつわるお話を聞いたことから、お伝えさせていただきました。
そして、次の時代というものを予感させる今の時代におきましては、この「石」の持つ不思議な力に、人は純粋な「意思又は意志」を持って、見直す必要性があることに小生は気付かされたので御座います。

最後に話は変わりますが、丁度、こんな話を気にしていたときに、ある方からとても素晴らしいご縁を頂きました。
誠に不思議な思いであり、その出来事を通じまして、このような日記を書きました。
その方のご好意に感謝を申し上げます。
誠にありがとうございました。

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