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多民族国家日本・その構造を探る 1

 ここで、日本という国家について述べる。
 日本という場合、すべてが平等に運営されているかのごとく見えるが、実はそうではなく二重構造になっている。

 支配階級(エスタブリッシュメント)と被支配階級に分けられている。
 もちろん、建前上は日本は民主主義なるがゆえに、すべてが平等であるかのごとくに思える。しかし、私たちが日頃生活している中でいろいろな問題に突き当たる時、この国にははっきり支配階級なるものが存在していることが体験的に分かるのである。

 そのことは、645年の大和朝廷の統一、大化の改新の時から変わっていないのである。
 はじめ日本にやって来た人々のことを縄文人という。しかし、彼らは単一ではなかった。
 いろいろな地域からいろいろな民族がやって来ていたのである。それゆえに縄文時代の日本は文字通り多民族国家だったのである。
 シベリア、蒙古、朝鮮、中国、ポリネシア、ミクロネシア、東南アジア・・・そして古代ユダヤ人も来ていたのである。

 以前、当誌で述べたように古代ユダヤ人たち、すなわちアブラハム、イサク、ヤコブの血を受けた者たちが三度にわたってこの日本にやって来ていた。
 従って、古代ユダヤの子孫は今日も日本に存在しているわけである。
 日本で混血が進んだのはそれほど古い時代ではなかった。明確にそれが始まったのは明治以後、さらには第二次世界大戦後と考えればよいであろう。
 特に、縄文時代には各民族がそれぞれの地域で話していたのである。当時、人口も少なかったがゆえに各民族は干渉し合うことなく、平和の内に生活することができていたのである。
 これらの縄文人よりももっと早く日本にやって来た者は、もちろんメソポタミアから来たシュメール人である。
 
 一般に縄文土器と言われる土器は日本ばかりか世界中にある。すべてが共通しているのである。それゆえに日本から縄文土器が世界に広がったかのごとくに言う人があるが、そうではない。
 シュメール人こそが日本にも来、その他の地域にも渡って行ったのである。
 従って縄文人、すなわち原日本人の中にはこのシュメール人たちもいたのである。

 その後、(今から約二千年ほど前)、弥生人がやって来た。それは大量に来、かつ彼らは二つの物、一つは武器である鉄器、もう一つは稲作を携えていたのである。
 弥生人たちはどこから来たのであろうか。中国・揚子江流域である。すなわち華中と言われる地域からである。

 今日、華中から二千年前の墓が発掘され、多くの骨が出ている。日本においても弥生人と言われる人々の骨がぞくぞくと出てきている。そして「ミトコンドリアDNA」の分析を行った結果、両者は完全に一致していることが裏付けられるのである。
 いわば、弥生人たちは華中から日本に進駐軍としてやって来たのである。
 彼らの手には強力な武器として鉄器が握られていた。しかし、縄文人たちは、そのような当時の優れた武器を持っていなかった。
 弥生人たちは縄文人たちを次から次へと征服していった。そして完全に服従した者に自分たちに屈服した印として稲作を奨励したのである。
 佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、当時の弥生人たちが進駐するための砦として築いていたものであろう。
 このようにして、進駐軍はとしての弥生人たちはやがて日本を次第に一つにまとめていく。
 しかし、完全に縄文人たちが、すなわち多くの民族がすぐにそれに従ったわけではなかった。両者の間になおも戦いがあったであろう。
 しかし、日本国家が一つにまとめられる時がやって来た。これが大和朝廷の統一なのである。

 弥生人たち(華中から来た中国人)は自分たちの力だけで縄文人を従わせることはできない。そこで縄文人たちが作っていた多くの部族国家の中で最も有力なものに目をつけたのである。そしてそのトップ、すなわち首長を国家の首長として位置付けたのである。
 このようにして天皇という立場が築かれた。
 進駐軍である弥生人たちは、巧みなるかな天皇の名においてすべての政治を行なっていったのである。
 今日に至るまでも天皇が直接に政治に携わることはできない。それでいてすべては天皇の名によって推し進められているのである。

 このようにして645年大和朝廷の統一、すなわち大化の改新以降、日本の国家体制は変化していないことが分かるのである。
 
 しかし、時々変化も起きる。

 例えば、平安時代末期には国家の支配階級はゆるんだ、すなわち、京都にいたエスタブリッシュメントたちは自分たちが全国に荘園を持っていたといえども、その荘園を常に巡回していたわけではなかった。中央政治がゆるめば当然、地方もゆるんでいったのである。
 そして、うっ積した地方での不満はついに爆発し、平将門の乱というものが起きたのである。
 決して平将門は一人ではなかっただろう。多くの不満を持った者たちが平将門の乱に乗じて次から次へと乱を起していったものと思われる。
 狼狽した京都のエスタブリッシュメントたちが優秀な軍を送るといっても、被支配階級を使っての軍を遣わして、やっとの思いで平将門の乱を鎮めたのである。
 しかしすでに歪みができ、地割れができていた。
 そして1192年、武家政権の成立となるのである。
 頼朝が鎌倉に幕府を作っても、なお強力な京都の政権は存在していたのである。二つの政権、もっと正確に言えば、京都があっての鎌倉幕府であったことが分かるのである。
 やがて南北朝時代があり、戦国時代に突入していく。
 もし、あの戦国時代がなかったならば、信長はそれまでの古き秩序を破壊することができなかったであろうし、秀吉は政権を握ることはできなかったであろう・・・と言われるが、まさにその通りである。
 被支配階級であった者が地盤変化とともに頭角を現すことができたのである。
 もちろん、京都を中心としたエスタブリッシュメントはこの戦国時代をもっとも恐れ、もっとも動揺したであろう。しかし彼らとても、どうすることもできなかったのである。
 信長、秀吉と続いて家康が江戸に幕府を作る。だからといって、この時も京都の政権が消滅したわけではなかった。

 やがて幕末から明治維新に至る。
 薩摩、長州といえども、やはり天皇を中心としてでき上がっているエスタブリッシュメントたちの政権を崩壊させることはできなかった。それをある時は利用し、ある時はそれに乗せられて、近代日本の建設に入っていったのであった。
 だからといって、エスタブリッシュメントたちは自分たち独自の政治権力を忘れていたのではない。彼らは、常に時あらば自分たちの大和政権を前面に出したいと願っていたのである。
 明治以後、彼らの前に現れた二つの敵がある。すなわち被支配階級にして、その敵となったグループがある。その一つが軍部であり、もう一つが財閥なのである。
 軍隊が強くなればなるほど、エスタブリッシュメントたちは恐れた。
 第二次世界大戦敗北とともに軍部が崩壊することで、エスタブリッシュメントたちは安堵したことであろう。

 もちろん、彼らはそのことのために盛んにアメリカや民主主義という言葉を利用したであろうが、いずれにしろ自分たちを粉砕する被支配階級による軍部は消滅したのであった。
 そえゆえに今に至るまで、マスコミをはじめ学界などで常に軍部は悪である。軍閥が第二次世界大戦へ日本を突入させた・・・、などという論理を展開させる。そして、国民はそれを信じているのである。

 財閥はどうであろうか。
 財閥の代表と言えば三井である。三井は今日の三重県、当時の伊勢・津からスタートした。伊勢商人という言葉があったように、三井の前身も伊勢商人として江戸に出、越後屋を開いたのである。

 越後屋は非常に賢いやり方で商売を成功させ、多くの富を蓄積していった。
 越後屋に限らず、商売によって成功していった被支配階級が多く出たのである。これに大名たちが借金をしなければならなくなっていった。
 江戸時代中期はそれこそ商品経済、貨幣経済が非常な勢いで発展していったのである。
 同じことが幕末においてもそのまま続いた。
 それゆえに明治以降、財閥を作るグループは明治維新以降も財力を持って生き残ることができた。そればかりか近代工業が起こるとともに商売ばかりではなく金融、あらゆる製造業、そして政商としての成功を遂げていったのである。
 しかしエスタブリッシュメントにとってはいかなる時にも、財閥が目の上のこぶであったことには変わりがなかった。


 CFR(ロックフェラー主宰の外交問題評議会)の機関誌「フォーリン・アフェアーズ」はそのことを非常に詳しく述べていたのである。日本人が知らない日本の構造を明確に述べていた。

 ロックフェラーは世界最高権力集団とつながっている。彼らは日本国民が知らない日本の構造を知り抜いていることになる。

 ちなみにこの「フォーリン・アフェアーズ」誌は1995年に発行され、重要文献として取り扱われたのである。

 そして、これを作成した人物はおそらく今日においても、京都でその任務に就いていることであろう。もちろん彼はアングロ・サクソン系である。
 彼の貴重なレポートの中で「大蔵省」(現財務省)という役所が当然出てくる。大蔵省こそが日本のエスタブリッシュメントたちの重要な金庫番なのである。645年の大化の改新以降、まず作られたのが大蔵省であっただろうし、明治維新以降、明治二年にまず作られたのも大蔵省であり、日本銀行であった。

 国家の母体となる明治憲法や帝国議会などは、それより数十年も後に作られているのである。
 それに対して、財閥は被支配階級のものである。従って大蔵省と財閥はどれほど対立し、かつ大蔵省が第二次世界大戦敗北という未曾有の日本国家の動揺の時に、いかに財閥を叩き潰していったかがこの機関誌で述べられているのである。

 この論文は貴重にして驚異のものであると考えるべきであろう。
 三井は明確に古代ユダヤ直系であった。それもイエスをキリストと信ずる古代ユダヤの直系であったのである。
 彼らの先祖は三位一体の神、すなわち父なる神、子なる神、聖霊を明確に信じていた。
 今日のユダヤ教がもっとも目のかたきとするのはこの三位一体の信仰である。すなわち自分たちが十字架につけたイエスが救世主であったということに対して、彼らは最大限の憎悪をするのである。
 しかし、日本に来た古代ユダヤの直系はこの三位一体の神を信じていたのである。すなわち、イエスを十字架につけはしたが、それは救世主であり、かつイエスは復活したと信じていたのである。

 その信仰はずっと受け継がれていた。そして江戸時代の半ば、宗門人別改帳が強い時代に、三井はこれら古代ユダヤの拠点のひとつであった京都、太秦に三本柱の鳥居を作ったのである。享保年間のことであった。
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(東京・向島 もとは三井本家にあったもの)
2014051_2
(京都・太秦)
  この写真を見ることによって分かるように、彼らは明確に三位一体の神を信じていることを示したのである。
 各鳥居の角度は60度、すなわちどの方向から祈っても、あるいは礼拝しても三方向は一つであることを暗示しているのである。
 毛利家の家紋は三つの丸の下に太い一という字を書く。これこそまさに、三位一体の信仰を表したものなのである。
 三菱は財閥を形成するが、岩崎弥太郎はもともと土佐の人物であった。彼は進駐軍としての山内家の家来の子孫ではなく、四国の覇者・長曾我部の家来の子孫だったのである。
 長曾我部もまた古代ユダヤの直系であった。
 住友と言えば、四国の別子銅山を誰もが思い出す。固い銅鉱石からなぜ銅だけを取り出すことができたのか。このような技術は弥生人に支配された後の日本人の中にはない。すなわち、稲作をする民族には考えつかないことなのである。
 聞くところによると、住友財閥の先祖は蘇我氏にして銅の鋳造技術を持っていたとのことである。おそらく古代ユダヤの直系であろう。

 
 つづく

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