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2010年1月

この国の形と二二六事件

 『 ここで、日本という国家について述べる。

 日本という場合、すべてが平等に運営されているかのごとく見えるが、実はそうではなく二重構造になっている。

 支配階級(エスタブリッシュメント)と被支配階級に分けられている。
 もちろん、建前上は日本は民主主義なるがゆえに、すべてが平等であるかのごとくに思える。しかし、私たちが日頃生活している中でいろいろな問題に突き当たる時、この国にははっきり支配階級なるものが存在していることが体験的に分かるのである。 』

 上記は以前の日記で紹介させていただいたものです。
 
 http://tanjyun-tenuki.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-7c39.html

 今回の小沢氏の問題には、この絶対に知らされることのない「この国の形」が大きく絡んでいるからではないでしょうか。
 そして「民族の利益」と「国際主義」が激しくぶつかり合っていることも確かなことと思われます。

 では何故激しくぶつかり合っているのでしょうか?
 それは「玉」(ぎょく)というものに手をつけたからであろうと思われます。
 「玉」とは「天皇」を指す言葉であります。
 そして、時代遅れと思われるかも知れませんが、それほど「この国の形」というものは残酷で厳しいもののように思えてきます。
 また、歴史もそれを教えています。

 ・・・昭和11年2月26日。
 このとき皇道派青年将校たちは、「玉」に手をつけようと、自らを「尊王義軍」と称してクーデターを起しました。天皇が承認してくれるものと信じながら、彼らは計画に計画を練り、雪中のクーデターを決行したのです。
 そして彼らは鎮圧され、特設軍法会議にかけられました。

 そして、このときの裁判は異様でした。

 非公開で弁護人なし、そして上告も認められず、青年将校のほとんどが死刑を宣告されました。
 

 思えば昨年12月に小沢氏がとった態度は、この「玉」に関することでありました。
 そして、かつての二二六事件での異様な裁判を念頭に置き、さらに小沢氏に関連するやり過ぎではないかと思われるほどの報道を見たとき、やはり「この国の形」というものの本質が垣間見えるのではないでしょうか。

 誠に一般の国民からするならば「そんな馬鹿なことが!」と言いたくなるかも知れません。しかし、支配階級というものは、そのような存在なのでありましょう。
 
 そして小沢氏もやり過ぎと思われるほど「民族の利益」を崩壊させようとしているからなのでありましょう。

 その中で国民の考えも二分されている。それが今起きているのだと思われるのです。

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日本の政界、水面下の争い

2010年、この年は人類歴史の中で大きな節目になると予測される方がいます。
 その節目のキーワードは二つの思想の激突であります。
 それは民族主義と国際主義(グローバル)。
 
 そして今、世界においてはグローバル化が当たり前になっているようで、国益を優先させる考え方は「悪」のように見なされています。

 日本においての民族主義とは・・・日本国家の利益を優先させること。そしてこれは日本の支配階級にとっては、非常に重大で常に求められるものでありました。
 そして、支配階級にとっての「天皇」は大きな象徴でありました。
 日本のエスタブリッシュメントたちはこの天皇を後ろから操作する事によって、政治を動かし、歴史を作り、伝統を生み出してきたわけです。

 今、この争いが水面下で激化し始めているようです。
 それを以下に紹介します。


 『 小沢一郎を巡る大きな政治問題が起きた。
   日本政治に大きな衝撃が走った。しかし、小沢一郎とはいったい何なのであろうか。
 田中角栄と非常によく似ているとは言われるが、小沢一郎と田中角栄はまったく異なっている。


  田中角栄はあたかも蒸気機関車のごとくに、前へ前へと進んだ。そして自らのビジョンをただひたすらに実現させようとした。彼の心の中にあったのは、民族利益である。
 あの戦後、惨めな日本の状態を、先進国へ仲間入りさせたという自負心があったのである。
 そしてさらに世界からエネルギーの調達を図り、やがて大市場となるであろう中国との国交回復をも目指したのであった。
 彼は自然な形で民族利益を求めていた。しかし、国際主義を目指す者たち、すなわち世界政府樹立を目指す者たち・・・国家を超えた世界政府を作ろうとする者たちには、邪魔なものに思われたのである。
 そしてロッキード事件で引っ掛けられて、政治的権力を失うことになったのである。
 二つの政治的思想はお互い長きにわたって争い合ってきたが、今や国際主義を唱える者が勝るようになった。

 小沢一郎はこの国際主義の流れの中に身を任せ、またそのために使われ、そして日本にとっての「第二の開国」を目指そうとしているのである。
 昨年8月30日、衆議院総選挙が行われ、民主党は大いなる勝利を獲得することができた。その功績は何と言っても小沢一郎にあるであろう。
 そしてその小沢一郎がなお目指したのが「すべては7月の参院選勝利のため」というものであった。
 衆議院と参議院をして「小沢一郎支配」を目指していたのである。

 この小沢一郎の態度は国際主義からは賞賛されるかもしれない。現に彼は、昨年8月30日の勝利の後、ただちにイギリス・ロンドンに行った。そして彼はイルミナティ・フリーメーソンから指示を受け、日本に帰国し、そして次なる参院選を目指すようにと背中を押されたのであった。
 しかし、日本の民族利益を求める日本のエスタブリッシュメントからするならば、小沢一郎は危険極まりない者であると映ったのである。

 小沢一郎は「東アジア共同体」、すなわち世界政府の1ブロックとしてのそれを作るようにと指示を受けている。そのためには東アジアにおいて、EU27ヵ国のごとくにそれぞれ独立した国が、国家主権を放棄してゆく状態を作らなければならないのである。

 そのためにはまず日本と中国を結びつけなければならない・・・ここまで述べるならば、読者諸氏はもうお気づきのように、小沢一郎の政治的暴走を思い出すであろう。それは昨年の12月中頃に起きた。

 小沢一郎は12月14日の記者会見で、天皇と中国の習近平国家副主席との特別会見について、「天皇の政治利用」に当たると懸念を表明した宮内庁長官に対して、「内閣の1部局の1役人が、内閣の方針にどうだこうだと言うなら、辞表を提出した後に言うべきだ」と述べ、辞任を要求したのであった。

 今までこのように公に述べる日本の政治家がいたであろうか。あり得なかった。天皇は日本のエスタブリッシュメントにとっての大きな象徴である。

 (略)
 
 逆に国際主義をバックにする小沢一郎は「どこまでも検察当局と対決する」と述べているが、検察はもちろん日本のエスタブリッシュメントのために動く役所であろう。その検察当局は、日本のエスタブリッシュメントから見るならば、非常に低い下部組織である。下部組織とはいえ検察が、石川議員や彼の金銭責任者であった人物、さらにはかつての小沢の公設第一秘書を逮捕したということは、膨大な証拠を握っているということであろう。
 そして日本のエスタブリッシュメントたちは検察をして、小沢一郎を排除しようと動き出した。やがて小沢一郎が議員辞職か、あるいは何らかの形で政治世界から追放されるという事態が起きないとも限らないのである。

 1月15日時点の3人の逮捕は、小沢一郎に政治的ダメージを与えたことは明らかであろうし、その後開かれた通常国会を間近に控えた鳩山政権全体にも、大きな影響を与えたことは確かである。
 関係者によると、陸山会という小沢一郎の資金管理団体は、かつて秘書寮を建てる目的で、東京都世田谷区の宅地を約4億円で購入している。同会側は「定期預金を担保に、金融機関から4億円を小沢氏個人が借り、それを同会に貸し付け、土地代金に充てた」と説明しているが、土地代金の支払いが、銀行融資よりも前であったことも判明しているのである。
 小沢一郎が提供した4億円の原資が明らかになっていないことや、関連政治団体との間で複雑な資金移動が行われ、直接、土地購入に結びつかない銀行融資が行われるなど、極めて不自然な資金の流れがすでにつかまれている。
 
 結局は、小沢一郎の絶対的権力で支配されていた東北地域の公共事業を通しての多くの政治献金を受け取っていたはずである。しかし、それを彼の秘書たちは記載していなかった。そしてそれが法律的に徹底的に叩かれることになる。

 日本のエスタブリッシュメントにとっては、絶対的につかんだ小沢一郎の尻尾なのである。
 今後、このことに基づいて激しい闘争が行われるであろうが、「検察とは徹底的に対決する」と言っている小沢一郎は、寄り切られてしまうことになるだろう。
 
 東北地方でのダム建設にかかわった多くのゼネコンを統括してしていたのは鹿島建設である。
 鹿島は日本において超ゼネコンと言ってよい立場であろう。多くのゼネコンがあるが、例えば皇居や皇室関係の事業を任せられるゼネコンは限られている。その中に常に鹿島が入っていることを覚えなければならないであろう。
 鹿島は東北地方におけるダム建設の時に、多くの配下のゼネコンを使用したであろうが、すべてのデータを知っているのは鹿島そのものである。
 検察はやがて鹿島に手をつけるであろうが、鹿島自体が、日本のエスタブリッシュメントに対して、資料をいつでも送り出すことのできる立場であることを忘れてはならない。
 トカゲの尻尾切りと言われるように、鹿島において、東北地方のダム建設においてゼネコンを指導した人物が切られるという形がとられるであろうが、鹿島そのものは生き残るようになっている。

 小沢一郎は大いなる怒りに燃えている。これが危ない。さらには彼の背後には国際主義のイルミナティ・フリーメーソンがいるという安心感があるのかもしれない。小沢一郎はますます彼らの指示に従って行動して行くであろう。それはあたかも彼らによって小沢一郎が洗脳されているがごとくである。

 日本において2010年、すなわちEUがすでに政治統合し、ヨーロッパ合衆国へと動こうとしている時、世界支配を目指す者たちにとって、「東アジア共同体」としての政治闘争が起きていることになる。
 日本では様々なことが起きてくるであろう。それを先ほど述べた二つの思想によって解いていかなければならない。

 それこそが、これからの時代を読み取る「方程式」ということになるであろう。

 例えば外国人参政権という問題がある。鳩山政権と民主党は、永住外国人に地方参政権を付与する法案を、できるだけ早く国会に提出したいという意向を持っている。政権交代をチャンスに、制度改正へと機運が高まりつつあるが、国の主権が絡むだけに、慎重論も根強いことは明らかである。
 このことで一番熱心なのは小沢一郎である。そして「次なる通常国会でこれを成立させたい」とも彼は語っていたのである。このようなことが実現するならば、日本のエスタブリッシュメントたちの足もとが崩されていくことになる。
 日本に住む外国人のうち、永住する資格のある者に限って、日本国籍がなくても地方選の選挙権を与えるという内容だからである。
 法務省によると、日本にいる永住外国人は、2008年時点で約91万人。そのうち在日韓国・朝鮮人などの特別永住者が42万人も含まれている。

 地方参政権といえども、彼らが政治に参加すること自体が、日本の政治が直接的にも間接的にも振り回されないとも限らない。そしてその背後に国際主義の組織があることをも合わせて考えなければならない。
 この外国人参政権うんぬんについて、反対する者たちは憲法15条が「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」という条文を盾にしている。永住者の日本国籍取得の要件は以前より緩和されており、「選挙権を得たいならば、帰化すればよい」という意見が広がってきていることは、そのことを指している。
 さらに1月15日には、海上自衛隊のインド洋派遣部隊が帰国の途に着いた。そしてパキスタン艦艇に洋上給油を行い、最後の任務を終えたのである。

 アメリカ等が、日本にそのままインド洋で活動してくれと頼む中、なぜ日本の自衛隊は帰国するのであろうか。もちろん表面的な理由は、法律が定めた期限であるがゆえにということになる。しかし、日米関係が、民主党政権発足以来、非常にぎくしゃくしている。岡田外務大臣などは立つ瀬がないと言われるほどに、困惑し続けている。
 鳩山首相を中心とした外交、なかでも対米関係への方針すらまとまっていないのである。
 そこへ海上自衛隊がインド洋における給油活動を終了した。何も日本の自衛隊がそこにいて、ただ油を供給し続けていたのではない。世界の激動はやがて中東情勢から始まるであろうし、そこを通って日本を支える多くの石油が輸入されているのである。インド洋はまさにホルムズ海峡と共に、日本国家にとっての生命線なのである。

 自衛隊が長きにわたってそこに滞在し油を供給しつつも、本職として何をしていたのであろうか。それは中東地域における情報収集だったのである。単にイラン問題、単にペルシャ湾の情報だけではなく、アフガニスタンを含むあらゆる中東地域の情報収集を行っていたのである。

 (略)

 すでに中国は日本の自衛隊のあとを引き受けるようにして、自らの艦艇をそこに送り込もうとしている。
 中国は地下資源、あるいは天然資源のことを考慮して、大量の投資をアフリカ諸国や中東地域で行っている。中国にとってはまさに棚からぼた餅のように、インド洋における自衛隊の後釜の活動を獲得しようとしているのである。
 かくのごとく民主党政権がしようとしていることは、国際主義の意向に沿うこと、すなわち日本国家の政治的、経済的、弱体化を目指していることがわかる。』
(ニューワールドビュー2010年1月号より)

 以上のように多くの国民が知らないうちに、水面下では熾烈な争いが勃発しているようです。
 そして今回の出来事で重要な部分は「玉(ぎょく)」を標的にしたことではないでしょうか。
 それはかつて日本の国体を揺るがした226事件のようでもあります。
 はたしてこれから日本は何処に向おうとしているのか、そしてその中から新しい思想が芽生えてくるのか。
 やはり大きな節目であることは間違いないように思えるのです。 

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普天間問題・・・もうひとつの問題

産経ニュース 2010.1.9 23:26

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100109/plc1001092327012-n1.htm

【揺らぐ沖縄】児童の安全より反対運動優先か 基地隣接の小学校移転

米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に隣接し、ヘリ墜落など事故の危険にさらされてきた同市立普天間第二小学校(児童数708人)で、これまで2回、移転計画が持ち上がったが、基地反対運動を展開する市民団体などの抵抗で頓挫していたことが9日、当時の市関係者や地元住民への取材で分かった。市民団体などは反基地運動を展開するため、小学生を盾にしていたとの指摘もあり、反対運動のあり方が問われそうだ。(宮本雅史)

 普天間第二小は、昭和44年に普天間小から分離。南側グラウンドが同飛行場とフェンス越しに接しているため、基地の危険性の象徴的存在といわれてきた。

 移転計画が持ち上がったのは昭和57年ごろ。同小から約200メートル離れた基地内で米軍ヘリが不時着、炎上したのがきっかけだった。

 当時、宜野湾市長だった安次富(あしとみ)盛信さん(79)によると、それまでも爆音被害に悩まされていたが、炎上事故を受け、小学校に米軍機が墜落しかねないとの不安が広がり、移転を望む声が地域の人たちから沸き上がったという。

 安次富さんらは移転先を探したが確保できなかったため米軍と交渉。約1キロ離れた米軍家族用の軍用地のうち8千坪を校舎用に日本に返還することで合意。防衛施設庁とも協議して移設予算も確保した。

 ところが、市民団体などから「移転は基地の固定化につながる」などと抗議が殺到した。安次富さんは「爆音公害から少しでも遠ざけ危険性も除去したい」と説明したが、市民団体などは「命をはってでも反対する」と抵抗したため、計画は頓挫したという。

 同市関係者は「市民団体などは基地反対運動をするために小学校を盾にし、子供たちを人質にした」と説明している。

 その後、昭和63年から平成元年にかけ、校舎の老朽化で天井などのコンクリート片が落下して児童に当たる危険性が出たため、基地から離れた場所に学校を移転させる意見が住民から再び持ち上がった。だが、やはり市民団体などに「移転せずに現在の場所で改築すべきだ」と反対され、移転構想はストップした。

 当時市議だった安次富修前衆院議員(53)は「反対派は基地の危険性を訴えていたのだから真っ先に移転を考えるべきだったが、基地と隣り合わせでもいいということだった」と話す。別の市関係者も「多くの市民は基地の危険性除去のために真剣に基地移設を訴えたが、基地反対派の一部には、米軍の存在意義や県民の思いを無視し、普天間飛行場と子供たちを反米のイデオロギー闘争に利用している可能性も否定できない」と指摘している。

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龍虎のイメージ

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『 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)の移設問題を最大の争点とした沖縄県名護市長選が24日投開票され、県外移設を主張する前市教育長の稲嶺進氏(64)が、条件付きで移設を容認する現職の島袋吉和氏(63)を破り、初当選した。

 これにより、自公政権が06年に米政府と合意した米軍キャンプ・シュワブ沿岸部(同市辺野古(へのこ))への移設は困難となった。

 鳩山政権は移設先の見直し作業を加速させる方針だが、米側は合意の履行を求めており、解決のめどは立っていない。』

 
 
 ・・・この報道を聞いた時、一抹の不安を感じました。
 
 それはあの若者の述べた事柄が、脳裏に浮かんできたからです。


 『 民主党鳩山政権は、現在、大変な選択と決断を迫られている。表面張力によってギリギリに均衡を保っている極めて不安定な状態で、どのような決断を下すかが試される。

 米国の主張と、日本の主張、一触即発の、まさに戦争状態なのである。
 その辺りは、やはり米国は完璧に布石は打ってある。

 今、現在の日本の立場は、かつての「プラザ合意」の時とまったく同じ状況である。

 当時のアメリカの膨大な財政赤字解消のために、日本は半ば強制的に犠牲になったのだ。”半ば強制的”とは何か?

 日本が持っていたドル建て債権が半額になっても文句ひとつ言えなくなるような「脅し」を日本は受けたのだ。
 
 「プラザ合意」のほぼ一ヶ月前、1985年(昭和60年)8月12日、それは起きた。

 では現在はどうだろうか?

 日本の某航空会社の経営危機が話題に上ることと、時を同じくして、映画「沈まぬ太陽」が公開された。
 これは完全に、「日本よ、あの時のことを覚えているかい?」という暗黙のメッセージである。

 そしてそのメッセージは、もうひとつ、
 「普天間基地のこと、わかっているよね?」ということも告げているのだ。
 つまり、民主党、鳩山政権の下す決断によっては、もう一回、「8月12日」が起こる可能性があるということである。
 そして、その結末によって、富士山が動くというシナリオなのである。
 鳩山首相は、この大ドラマの中心人物として、この難局を、乗り越えることができるのだろうか? 』

 http://tanjyun-tenuki.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-bc0b.html



 若者は政権交代を果たした民主党の今後の政策に対する対応の中で「普天間問題」の行方が最大の懸念であり、鳩山政権の決断によりもう一度「8月12日」が起される可能性があると言いました。

 では「8月12日」とはいったい何なのでしょうか・・・。

 それは米国からの暗黙の脅迫。
 その脅しに屈して、当時日本政府は「プラザ合意」に応じたものと思われるからです。

 
 1985年8月12日、当時、東京大阪間のドル箱とも言われたJAL航空123便の墜落事故。

 その翌月9月20日、「プラザ合意」がニューヨークでなされたのです。
 
 ・・・これがバブルの始まりでした。
 それは彼らの手によって演出されたものでありました。
 それから株価は上昇に次ぐ上昇、当時は主婦や学生たちも、投機に走り、モノを作るよりも土地転がし、商売するよりもカブと言った感じで、金融経済は膨らみ続け、そしてやがて1990年2月21日。
 その終焉を迎えるのです。

 ・・・それが彼らの仕掛けた”罠”でした。
 
 バブル崩壊から20年、そしてJAL123便の事故から25年。
  
 ・・・「日本よ、あの時のことを覚えているかい?」
 ・・・「普天間基地のこと、わかっているよね?」

 
 いろんな捉え方があるとは思いますが、何故か小生は、この若者の言った言葉が気になってしまいます。
 
 
 また、ある方は「本当の政治は自らの熱心さを暴露する前に、やがて次に起きることをも冷静に分析し、かつそれを活かしていくべきものであろう。」と述べられています。

 まるで宿命であったかのように縞模様は「警戒態勢」から「厳戒態勢」へと早々と移行するかのようです。

 
 しかし、このような時代を迎えたからこそ、今までにない新しい視点というものが、芽生えてくるかも知れません。

 そんな中、龍馬伝がその起爆剤にはたしてなってくれるのだろうか?

 興味ある一年であるかのようです。

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道の発想と清貧の思想=真・善・美

日本人は伝統的に、「道」という発想をもっています。

 そして、その「道」の行きつくところにあるのが「清貧の思想」なのでしょうか。
 そしてその道を求める姿勢の向こうに、真・善・美の世界が見えるものなのでしょうか。

 ひとつの物事に深く取り組んでいくと、日本人の多くは道を求めはじめるようです。

 武道、茶道、華道、芸道、商道、仏道などなど、というように何かに取り組むことは、その道に入ることであり、その道を極めようとすることであります。

 ・・・何が本当のことなのか。
 ・・・何が正しいことなのかを追い求める姿勢。
 その姿勢こそ至誠に通ずるものであり、すべての道の原点ともいうべきもので、その表現の中で生まれるものが、美意識というものなのでしょうか。
 そして、それが真善美という世界のことをいうのでしょうか?


 たとえば商道は単なる金儲け人生の道ではなく、武道は単なる武力人生の道ではありません。
茶道、華道、書道においても、単なる美的人生の道ではないものだろうと思うのです。

 そしてこれらの道を歩んでゆくと、しだいに純粋、素朴で飾らずに奢らないというような人間本来の無垢なあり方が鮮明に浮かび上がってくるように感じます。

 ・・・しかし、
 はたして今の政治の世界、つまり政道を歩む政治家に、そのような心があるのでしょうか。
 
 ・・・政界の動向を見聞きしながら、そんなことを思いました。
 
 

真善美

昭和28(1953)年9月25日 岡田茂吉

 吾らの理想とする地上天国とは、真善美完(まった)き世界であるのはいつもいう通りであるが、私はこれを一層掘下げてみようと思う。

それには順序として真からかいてみるが、真とはもちろん真理の具現であり、真理とは事実そのものであって、一厘の毫差(ごうさ)なく、不純不透明のない正しいあり方を言うのである。

ところが今日までの文化においては、真理でないものを真理と誤り、真理と扱われて来たのであるから、真理ならざる偽理(ぎり)が余りに多かった事実である。
にもかかわらずそれに気が付かないというのは、低い学問のためであったのは言うまでもない。何よりも現在の実社会を見ればよく分るごとく、ほとんどの人間は生きんがためただアクセクと働いているばかりで、そこに何ら希望もなく生きているだけの事である。

病の不安、生活難、戦争の脅威の中に蠢(うごめ)いているにかかわらず、口を開けば進歩した文明世界といっているが、厳正に見てほとんどの人間は獣のごとく相争い、啀(いがみ)合い、衝突を事として、不安焦躁の渦巻の中に喘(あえ)いでいる様は地獄絵巻である。これこそ前記のごとく偽真理文化の結果である。これに対し識者でも気が付かず、文明世界と信じ、讃美しているのであるから哀れなものである。

 例えば病気にしてもそうだ。医学が真理に叶(かな)っていないからこそ、どこを見ても病人はウヨウヨしている。ヤレ結核、ヤレ赤痢、日本脳炎、脳溢血、小児麻痺、何々等数え切れない程病気の種類の多い事である。しかもこの逃口上としていわく、昔も色々病はあったが医学が進歩していないため発見が出来なかったが、今日は発見が出来るようになったからであるとしている。それはそれとして、吾らが希(ねが)うところは病人が減り、健康人が増えればいいので、ただそれだけである。見よ現代人の病気を恐れる事はなはだしく、そのため当局も専門家も衛生に注意し、予防に懸命になっているが、滑稽なのは予防注射である。これこそ病を治すのではなく、単なる一時抑えにすぎないというように医学は一時抑えと根治との区別さえ分らないのである。

もっとも分っても治病方法を知らないから止むを得ないが、しかも医学は病気は健康を増すための神の摂理などはテンデ分らないから、抑える事のみに専念し、これが進歩であると思っている。しかも抑える手段が病原となるなどテンデ分らないので進歩すればする程病気が増えるのは見らるる通りである。

見よ益々病人が増え、体位が低下しつつある事である。そのため疲労や睡眠不足を恐れ、根気なく無理が出来ず、少し過激な運動をするとたちまちヘタバってしまう。滑稽なのは健康のための運動奨励である。
ところが事実はスポーツマンの早死や、米国のスポーツマンが、近頃はニグロ系の選手には到底敵(かな)わない事実であって、これはどうしたものか実に不可解千万ではないか。ところが本教が唱える病理を守り、浄霊を受ければ病魔は退散し、真の健康人となるのは事実が示している。


 次に今度は善についてかいてみるが、善とはもちろん悪の反対である。
では悪とは何かというと、これこそ唯物思想から発生した無神論が原因であり、善はその反対である有神論からの発生で、これが真理である。
ところがこの真理である有神論を否定する事が科学の建前であるから、科学が進歩する程悪は益々増えるのみか文化の進歩といえど上面(うわつら)だけの事である。
というように科学が作る功績も認めるが、科学が作る悪も軽視出来ないのである。それに気付かない人間はプラスのみを讃美し、マイナスの方は巧妙な理論を作って指導階級を虜(とりこ)にし、科学によらなければ何事も解決出来ないというように精神的幸福とはおよそかけ離れてしまったのである。

 次は美であるが、これがまた問題である。なるほど文化の発達につれて、美の要素は大いに増し個人的には結構であるが、大衆はそれに預り得ないのである。
見よ一部の特殊階級のみが美衣、美食、美邸に恵まれ、庶民階級はやっと食っているにすぎない有様であり、美どころではない、腹を充(み)たすだけの食物、寝るだけの住居、往来(ゆきき)するだけの道路、押し合いへし合い、ようやく乗れる交通機関(これは日本だけかも知れない)があるだけである。
 このような訳でせっかく神の大なる恵みである山水草木、花卉(かき)類の自然美は固(もと)より、人間が作った芸術美等も楽しめない社会である。
というようにこれ程文化が発達しながら、人類全体がその恩恵に浴せないとしたら、現代は全く金持の天国、貧乏人の地獄である。この原因こそ文明のどこかに一大欠陥があるからで、その欠陥を是正し公平に幸福が享有(きょうゆう)されてこそ真の文明世界であって、これが我救世教の使命である。

 以上によって真善美の真の意味は分ったであろうが、要はその実現力である。絵にかいた餅や御題目(おだいもく)だけでは何にもならない。ところが喜ぶべし、いよいよその夢が現実となって今やこの地上に現われんとするのである。

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これからの生き方とは 5

「あやつられた龍馬」より

 『それでもなお、動乱の世を背負った龍馬は、まだパークスを取り違えていた。この危険な状況を払拭し、パークスはきっと武力革命を抑えてくれるだろうと、最後まで思っている。

 龍馬はひたむきだった。もつれ込んで、もつれ込んで、とうとう虎の尾を踏むようなことをしてしまったのである。

 幕府若年寄、永井玄蕃との密会だ。永井は、長崎海軍伝習所の最高責任者で、勝より上のポジションにあった。長崎出島のオランダ商館長、ドンケル・クルチウスが幕府に勧告して海軍伝習所ができあがったのだが、永井はそのトップであった。

 そのころ羽振りのよかったグラバー。ここにグラバー、龍馬、勝、永井という幕府の中枢に直結するラインが、すっと見えてくるのだが、その永井と龍馬の二人は暗殺前日にも密かに会っており、慶喜は、次の密命をその永井に下していたことが判明している。

 「坂本龍馬は尊王攘夷派で唯一、幕府に好感を持っている。新撰組と見廻組に、捕らえてはならないと、それぞれの筋に申し伝えよ」

 龍馬は、幕府にとっても平和革命の切り札になっていたのである。
 したがって新撰組と見廻組は龍馬を、お尋ね者のリストから外していたという噂は真実だと見ていい。
 伊東甲子太郎(かしたろう)を覚えているだろうか?
 新撰組の幹部だったが、抜けて尊皇攘夷派に鞍替えし、御陵衛士(ごりょうえじ)の頭になった男である。その伊東がふらりと、近江屋に立ち寄り、新撰組が龍馬を狙っているから注意せよと警告した件だ。

 たまたま居合わせた中岡は、それに同調したが、龍馬は苦々しい形相で伊東を睨んだ。これは有名な話だが、なぜ龍馬が苦々しく思ったのか?

 一般には、個人的に伊東を嫌っていたなどと解釈しているが、そうではない。もうお分かりだと思う。新撰組が、自分を襲撃しないという確かな情報を握っていたからだ。
 だから、したり顔で余計なことを口にした伊東を軽蔑したのである。
 いや、ひょっとすると、伊東の言葉に龍馬は、ぎくりとなったかもしれない。
 伊東は新撰組のターゲットから自分が外れたことを知っていて、皮肉って逆のことを言ったのではないか、と受け取ったとも思える。

 龍馬の立ち回りは見事だった。しかし、そこまでだ。

 龍馬は焦った。幕臣幹部との密会。この情報が、サトウ派英国情報網に捕まらないわけはない。決定的になった。龍馬は幕府もろとも葬らなければならない。逆を言えば、抹殺しなければならないほど龍馬には気力があり、存在が光っていたのである。

 サトウが吉井から「万事順調に進んでいる」という伝言を受け取ったのは、11月26日だ。暗殺の二週間前である。

 吉井は龍馬に、薩摩藩邸に移るようにとすすめておいて、サトウには「事態は順調に進んでいる」という報告を出している。その線を結べば、吉井による薩摩藩邸への誘いの目的は、龍馬の拉致か殺害と読める。嫌った龍馬は、それを断り、近江屋に息をひそめた。
 かくなるうえは刺客を送るほかはない。吉井を通して暗殺命令が下される。中岡慎太郎。そのための倒幕武装集団、陸援隊の隊長である。

 「徳川はもう死に体じゃ、これ以上兵を進める必要はない。話し合いで事はおさまる」

 「いや、徳川はもはや賊軍。徹底的に討つ。薩摩も長州も我が藩もそれで固まっている」

 「エゲレスは、望んでおらん」

 「サトウは武力を後押ししている」

 「パークスは・・・」

 「邪魔立てするか!」

 「まて!」

 「これ以上は問答無用、ごめん」

 龍馬暗殺は実行に移された。



 シャモを買いに行っていたという本屋の倅、峯吉が使いから帰ってきた。峯吉は驚いて、近江屋を飛び出る。知らせるために陸援隊本部に走ったという。そして血生臭い事件を聞いた陸援隊が駆けつける。事件後のストーリーは、なんとなくこんなかっこうでおさまっている。

 しかしこれも、あまりにもお粗末だ。

 峯吉が使いから近江屋に帰ってきた時、いったい現場には誰がいたのか?

 一般的な解釈では、下手人は逃げて、すでにいないはずだから、近江屋の主人井口夫婦ということになる。

 では、その井口は、惚けていただけなのだろうか?

 というのも、土佐藩邸は通りを挟んで向かいにある。普通なら、土佐藩邸に駆け込むだろうから、大勢の侍が現場に駆けつけ、近江屋を取り巻いてもおかしくないはずだ。しかしその気配はない。

 それに峯吉の行動だ。

 当夜を思い出して欲しい。12月10日の厳寒の最中。しかも深夜の雨。はたして峯吉が、今にも凍てつくような濡れた着物の裾を脚にからませながら、一時間以上もかけて陸援隊に走るだろうか?

 なぜ目と鼻の先にある土佐藩邸でなく、あるいは走れば五分の場所にある海援隊の根城ではなかったのか?事件を一刻も早くみんなに知らせたいなら、気の遠くなるくらい遠いところにある陸援隊本部には向わないのが自然である。一般的なストーリーには、まずこの謎が立ちはだかる。

 次はもっと重大な疑問だ。

 もし峯吉の行動が本当なら、斬られたのは300人を抱える陸援隊の隊長。陸援隊本部は騒然となるはずだ。その結果、隊員が大挙して近江屋に駆けつけ、翌朝まで、いや隊長の死が確認されるまで、面子にかけても近江屋を守っていたはずだ。

 それが武士のならわしというものだが、やはりそんな話はない。
 それに対して、当夜はあいにく、人は出払っていて陸援隊本部は田中くらいしかいなかった、という言い訳がある。
 しかし、かりに本部にいなかったとしても、陸援隊の性格上、ぜったいに緊急連絡網が敷かれていたはずである。ならば、それを手繰って人はあっという間に集まるはずだ。しかし、陸援隊が走り回ったという雰囲気はまったくない。

 先にも記したが、土佐藩にしても同じことだ。ことは龍馬、中岡の大物二人の暗殺事件であり、お家の一大事だ。藩士が警護に駆けつけて、大騒ぎになってしかるべきだが、しかし、近江屋はしんと静まりかえっているのだ。

 考えられることはただ一つ。

 峯吉はどこにも出かけていなかった。それ以外、近江屋におけるこの複雑怪奇な空気を説明できない。したがって陸援隊も海援隊も土佐藩も、この惨劇を知らなかった。そう推察すれば、何事もなく京都の夜が過ぎていった理由が見えてくる。

 峯吉がばたばたしなかったということは、半ば拉致されたかっこうである。ならば峯吉に知らされたという陸援隊の田中が途中、薩摩藩邸に立ち寄り、吉井幸輔を呼び出したという話もでっちあげということになる。

 当夜、集まったという連中は、事件後に駆けつけたのではなく、事件の前から現場にいたのである。

 怪しまれるから、峯吉を持ってきただけの話だ。
 推測すれば、目的を持って近江屋に乗り込んだのは、中岡慎太郎、谷千城(土佐藩)、毛利恭介(土佐藩)、田中光顕(土佐藩、陸援隊)、白峰駿馬(海援隊)。

 斬りつけたのは中岡だった。
 物事に動じない胆(はら)の据わった中岡だったが、さすがに龍馬の心がしみていた。真正直で柔和。しかしこの時、龍馬にあったのは頑とした厳しさである。てこでも譲らない。
 無念だった。しかし、陸援隊隊長としてけじめをつけなければならない。武士としての魂が中岡を突き動かしたが、刹那、一瞬の迷いが生じた。

 その時だった。龍馬がとっさに応戦。中岡は傷を負って倒れるが、他の者が龍馬を斬り捨てた。

 田中が近江屋から薩摩藩邸に走った。結果を待つ吉井幸輔に、テロ完了を知らせに行ったのだ。

 「無事終わった」

 「薩土密約同盟」を思い出して欲しい。薩摩と土佐の武闘派同盟だ。その先鋒を「陸援隊」が握っていた。薩摩藩と陸援隊のただならぬ関係である。
 英国エージェント吉井は、確認作業のために田中と一緒に現場に踏み込む。だから、場違いな薩摩藩士の吉井が、一人だけ近江屋で目撃されているのだ。

 その吉井は事件の四日後、大坂に陣取るサトウの元に走り、状況を報告する。

 「斬ったのは三名」

 サトウは日記に「まったく姓名不詳の三名の男に殺害された」と記したのである。
 まったく姓名が分からないのに「三名」だと人数を断定して記したところに、サトウの失敗がある。人数が分かっていながら、どこのものか分からないというのは、不自然だ。
 おそらく毛利と白峰は一階での見張り役。実際に龍馬を斬ったのは、中岡、谷、田中の三名ではなかったか。サトウは下手人の氏名をもれなく吉井から聞いていた、というのが常識だろう。

 パークス直属の大物諜報部員、龍馬がついに葬られた。

 それはサトウにとってどんな意味があるのか?おそらく報告を受けたサトウは内心震えていたのではないか。

 中岡は二日間ほど生きていたという。本当だろうか?

 しかし、異様なのは巷間伝えられる傷の数だ。
 刀傷は10ヵ所、20ヵ所、いやいや、そんなものじゃない、30ヵ所近くあったという説まである。もし本当だとしたら、龍馬と相打ちは考えられない。
 想像をめぐらせるまでもなく、まともな斬り合いなら、絶対にそうはならない。せいぜい三太刀、そして止めの一太刀、というのが相場だ。
 10以上の刀傷は通常拷問か、歌舞伎の「斬られ与三郎」でも分かるようにリンチである。


 30ヵ所近い刀傷。それはなにを物語っているのか?
 ここで、もう一つの可能性が浮かび上がる。

 中岡慎太郎、裏切り説である。
 実は、中岡に龍馬暗殺命令が出ていたのだが、中岡は長いことそれを渋っていた、というものである。

 そこで中岡は完全に疑われた。龍馬と通じているのではないか。時間はない。ならば龍馬もろとも共に闇に葬れという命が下った。

 龍馬の切り傷も、数ヵ所から30ヵ所くらいと定まらない。そこから、瀕死の重傷を負った二人に、幕府の動きを吐かせようと暗殺団は拷問をふるったというものだ。
 たしかにそういう設定ならば、二人に無数の傷が残っていたとしても不思議ではない。

 ならば下手人は、おそらく谷、田中、白峰ではないか。
 どれが実で、どれが虚なのか、二つの仮設は立ち去りがたく、いまだに決着がつかない。

 しかし、いずれにせよ、サトウの了解のもとで、岩倉、大久保が陸援隊に命じたという構図は、揺るぎなく胸に留まっている。

 暗殺者は家の者に見たこと、あったことのすべてを夢、幻としてかん口令を敷き、犯人を新撰組に擦り付けた。

 海援隊の白峰は、最初から陸援隊のスパイとして、海援隊に送られていたはずだ。二年後のアメリカ留学は、ほとぼりを冷ますためだという噂がある。白峰は、明治新政府の支援を受けて、日本最初の造船所、白峰造船所を作っていることから、新政府とは緊密だったことは確かである。

 事件後、龍馬を弔った海援隊は敵討ちと称して、紀州藩の三浦休太郎が泊まっていた天満屋に切り込む。三浦が「いろは丸」賠償問題を根に持ち、新撰組をそそのかして龍馬を襲わせたというお粗末な話なのだが、この討ち入りは芝居がかっている。
 事実、三浦はすんなりと逃げ抜けており、陸奥宗光などは、旅館の下でまごついた顔でうろうろしていたに過ぎなかったという噂もある。
 陸奥にしてみれば、ばからしい限りだったに違いない。

 龍馬が死ぬ、ぎりぎりまで連絡をとっていた陸奥と吉井。彼らは一番、龍馬襲撃事件を話していいはずだが、一切を黙して語らず。全容を墓場に持ち込んだのである。

 海援隊に引き換え、陸援隊の方は隊長を殺され、事件現場を仕切ったにもかかわらず、なんら行動を起していない。そこに龍馬暗殺事件の真実が垣間見える。下手に騒げば、藪蛇になる恐れがあるから動けなかったのだ。

 海援隊は龍馬暗殺より5ヵ月後、解散を命じられ、暗殺事件そのものが、永遠に封印されたのである。』

 ・・・このテーマで書き始めて最初は若者の直観に基づくメッセージを紹介させていただきました。
 
 それからその感想に触れるようになったのですが、若者が言った「聖者の政治家」というところに来たときに、突然、加治将一氏が執筆された「あやつられた龍馬」第9章を紹介させていただきたくなったのです。

 今年のNHK大河ドラマは「龍馬伝」、そして小生は、この坂本龍馬のドラマ化が、これからの時代に向けて日本人の覚醒に繋がっていくという話を聞いていました。

 
 ・・・今、政治が揺れています。
 政治が揺れているというよりも、現在起きている政治家の献金問題ばかりが取り上げられて、真の政治というものが、おざなりになっているような気がするのです。

 それで若者は言いました。

 「 今、日本国を建て直し、輝かしい未来を現出させるためのきっかけをもたらすことのできるような政治家とは、饒舌に経済の仕組みを語ることではなく、軍事についての博識を誇らしげに語ることでもなく、他者の秘密を握ることで力を増していくことでもなく、単純に「聖者」であることに尽きる」

 それでそうなるには、「どれだけ相手に詮索されようと、喜怒哀楽を察知されようと、何一つ、曇りの一点もない澄み切った心を持っていればよいだけのことなのである。
 曇りのない、クリアな心は、数十億ドルをかけた軍事偵察技術も無力化させてしまうのだ。しかも費用は一銭もかからない。」


 話を龍馬に戻します。

 思えば司馬遼太郎という方は坂本龍馬を日本に知らしめた第一人者であります。
 そして坂本龍馬のその生き方に多くの人は憧れました。
 
 しかし、司馬氏は「竜馬がゆく」の小説の中に、陰の部分を描こうとはされませんでした。
 その陰の部分となるところこそ、フリーメーソンとの関わりでした。

 そこに加治氏はメスを入れました。
 それは彼らとの関わりを鮮明にしていくことで歴史の真実に迫ることができる。
 その中で、龍馬の行動、そして龍馬の考えを鋭い視線で探っていくのです。

 そして、陰の部分を交えた坂本龍馬という人物と、司馬氏が描いた龍馬も小生は同じであったと感じました。

 それで小生は龍馬の思いは「世界人」になろうとしたのではないだろうかと思ったのです。


 そういえば岡田茂吉は次のような言葉を残しています。
 
 『 これからの人間は、世界人にならなければ駄目だ。

 これについて面白い話がある。終戦直後ある軍人上りの人が私のところへ来て、憤懣(ふんまん)に堪えない面持(おももち)で「今度の降伏はどう考えても分らない、実に怪(け)しからん」と言って、憤慨しながら話かけるのだが、私の方はサッパリ気が乗らないので、彼は呆れたらしくいわく「先生は日本人ですか」と質(き)くから、即座に「私は日本人じゃない」と答えると、彼はギョッとして、震えながら「ではどこの国の人間ですか」と質き返えすので、私は言ってやった。

 「つまり世界人なんですよ」その言葉に、彼はポカンと気の抜けたような顔をして、その意味の納得のゆくまで説明してくれろと言うので、私も色々話してやったが、今それを土台にしてかいてみよう。

 元来日本人とか、支那(シナ)人とか言って差別をつけるのが第一間違っている。アノ頃の日本人がそれで、日清、日露の二回の戦役に勝ち、急に一等国の仲間入りをしたので逆上(のぼ)せ上り、日本は神国なりなどと、何か特別の国のように思ったり、思わせたりして、ついにアノような戦争まで引き起したのである。
 そんな訳だから、他国民を犬猫のように侮蔑し、その国の人間を殺すなど何とも思わず、思いのままに他国を荒し廻ったので、ついに今日のような敗戦の憂き目を見る事になったのである。

 そのように自分の国さえよけりゃ、人の国などどうなってもいいというような思想がある限り、到底世界の平和は望めないのである。
 これを日本の国だけとしてたとえてみても分る。ちょうど県と県との争いのようなものとしたら、日本内の事であるから、言わば兄弟同士の食(は)み合いで、簡単に型〔片〕がつくに決っている。

 この道理を世界的に押拡げればいいのである。彼の明治大帝の御製にある有名な「四方(よも)の海 みな同胞(はらから)と思ふ世に など波風の立ち騒ぐらむ」すなわちこれである。

 みんなこの考えになれば、明日からでも世界平和は成立するのである。 全人類が右のような広い気持になったとしたら、世界中どの国も内輪同士という訳で、戦争など起りよう訳がないではないか。
 この理によって今日でも何々主義、何々思想などといって、その仲間のグループを作り、他を仇(かたき)のように思ったり、ヤレ国是だとか、何国魂とか、何々国家主義だとか、神国などと言って、一人よがりの思想が、その国を過(あやま)らせるのみか、世界平和の妨害ともなるのである。
 だからこの際少なくとも日本人全体は、今度の講和を記念として、世界人となり、今までの小乗的考えを揚棄(ようき)し、大乗的考えになる事である。
 これが今後の世界における、最も進歩的思想であって、世界はこの種の人間を必要とするのである。

 話は違うが宗教などもそれと同じで、何々教だとか、何々宗、何々派などといって、派閥など作るのは、最早時代遅れである。ところが自慢じゃないが本教である。本教が他の宗教に対して、触るるな〔な〕どというケチな考えはいささかもない。反って触るるのを喜ぶくらいである。というのは本教は全人類を融和させ、世界を一家のごとくする平和主義であるからで、この意味において、本教ではいかなる宗教でも、仲間同志と心得、お互いに手を携え、仲良く進もうとするのである。』 
                (世界人たれ 昭和26(1951)年10月3日)


 このような生き方ができる人々。すると、それは若者が言っていた「聖者の政治家」そのものではないでしょうか?

 
 今、日本の政治は機能していない状態です。
 そして、あの当時と同じように今も彼らとの関わりが続いているように感じるのです。
 しかも、あのときと同じように、その争いは水面下で起きているのではないでしょうか。
 

 日本にもエスタブリッシュメントと呼ばれる人たちが存在します。
 聞くところによると、そのような支配階級は税金を納めても返ってくるというのです。
 その理由は日本が彼らの国であるからだそうです。
 フリーメーソンも日本のエスタブリッシュメントと呼ばれるグループも、その実体はわかりません。
 しかし、彼らは存在し、凌ぎを削っていることは間違いないと思えるのです。
 それが表面化したものが、政治家の問題であるのでしょう。
 このまま日本はどうなるのか?
 何処へ向かおうとしているのか?


 けれど、そのような状況の日本に、新たなリーダーが産声をあげる。
 そんな兆候が現れました。
 そのひとつの方法が坂本龍馬を知ることなのかも知れません。
 
 司馬遼太郎という人物は、日本と古代ユダヤの関係を知っているようでありました。
 それを司馬氏の処女作の中に垣間見ることができるのです。

 「ペルシャの幻術師」の中にある短編小説「兜率天の巡礼」は秦氏のことが書かれていました。
 

  http://blog.kyotokk.com/20051229/1911-07/
 (参考サイト)

 そして坂本龍馬を生んだ土佐も秦氏であった長宗我部元親が治めた国でありました。
 坂本龍馬はその長宗我部の遺臣であります。

 先日、「龍馬伝」の第三話が放映されましたが、岩崎弥太郎と龍馬が江戸へ向う内容でした。
 しかし、弥太郎の手形は偽手形でした。
 あくまでもドラマの中ではありますが、それを承知で一緒に江戸に向おうとする龍馬の心と、関所で発覚しそうになったときの弥太郎のとった態度に小生は感動致しました。

 それで「龍馬伝」というドラマは幕末を駆け抜ける龍馬の生き方そのものを注目しなければいけないと思ったのです。
 明治維新への時代の流れよりも、そこが肝心のようです。 

 今、政界は小沢氏の献金問題で揺れています。

 その本質の部分は何処にあるのか?


 ・・・しかし、それは決して表面に出ることのないものであるような気がしております。

 そういえば、昨年自民党の中川氏が亡くなられたとき、澤野という若者は次のようなことを直観的に話していました。

  『中川氏は落選したショックで死んだのではない。日本国と日本国民のために、妥協のない信念を貫き通し、一切言い訳もせずに、自らの生命を滅却させたのだ。
 これもマイケル同様、自殺でも他殺でもない儀式的象徴としての「死」といえる。
 中川氏は、自らの死をもって、私たちに「責任」というバトンを渡したのだ。中川氏本人は「我が人生に一片の悔いなし」と、堂々と天国へ旅立つことができる。
 しかし、問題は、そのバトンを手渡された私たち日本国民の側にある。
 このバトンのことを別の言い方で「見えない請求書」という。「北海道11区」には、日本史上かつてないレベルの「見えない請求書」が届くことになる。』 


 以前の日記

 http://tanjyun-tenuki.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-2268.html


 彼はその中で「見えない請求書が届けられる」と述べています。
 そして、「北海道11区には、日本史上かつてないレベルの見えない請求書が届くことになる」・・・と。
 それが日本全体に広がるのでしょうか?

 
 ・・・その献金問題で逮捕された民主党の石川容疑者は北海道11区から選出された代議士でありました。

 そして、それを動かしていたのが小沢氏。

 その小沢氏は中国国家副主席を半ば強引に天皇との面会に至らせました。


 それは日本の国体というものに対しての反発であったのでしょうか?
 そして体制側の逆鱗に触れ、本格的な水面下での戦闘が開始されたのでしょうか?
 マスコミから流される報道だけでは、その本質は見えることはありません。

 しかし、それは何も知らされない国民を巻き添えにしながら、日本がどん底に落とされていく。

 黄色と黒の虎の模様の意味する事が、年初から激化し始めたようです。


 

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これからの生き方 4 (あやつられた龍馬より)

「あやつられた龍馬」加治将一著より

『 京都近江屋での惨劇が起きる。時は12月10日(旧暦11月15日)、ついに坂本龍馬、中岡慎太郎、暗殺の場面を迎えるのである。
 犯人は不明。日本史上最大の謎のひとつだ。
 犯人に近づくには、龍馬はいったい京都で何をやっていたのか、ということをはっきりさせるのが早道である。
 注目すべきものに、龍馬が出した最後の手紙がある。死ぬ三日前に書かれたと思われる陸奥宗光あての不思議な手紙だ。

 一、さしあげんと申した脇ざしハ、
   まだ大坂の使がかへり不 申
   故、わかり不 申。

 一、御もたせの短刀は(さしあげんと申た)私のよりは、
   よ程よろしく候。(但し中心「なかご」の銘及形)。
   是ハまさしくたしかなるものなり。
   然るに大坂より刀とぎかへり候時ハ、見せ申候。

 一、小弟の長脇ざし御らん被 成度とのこと、ごらんニ入レ候
                   十三日   謹言。

  陸奥老台
                    自然堂(じねんどう) 拝


 差出人の「自然堂」は、龍馬の暗号名だ。
 要約すると、こうである。


 一、陸奥にあげようとしている「脇差」(小刀)は、大坂から使いが帰らないので、いつになるか分からない。

 一、陸奥がだれかに持ってこさせた「短刀」は、私が上げようとしている「脇差」より、いい品物である。刀の中心の質や形も、確かだ。
   大坂で研いだ刀が返ってきたら、お見せしましょう。

 一、私の「長脇差」を見たいとの希望、お見せしましょう。


 手紙の内容は、三振りの刀についてのやり取りである。
 相手の陸奥宗光は神戸海軍操練所、亀山社中、海援隊とずっと龍馬の傍らにいたような男だ。本当は紀州藩士なのだが、周りでは龍馬と同じ土佐藩士だろうと勘違いしている人間も多かった。

 手紙には「四条通り室町上ル西側沢屋」とある。陸奥の居場所だが、それが暗号でなければ龍馬のいる「近江屋」からはほど近い。

 しかしこの手紙は、どこか奇妙だ。
 わざわざ使いを出して、大坂くんだりまで「脇差」を研ぎにやっている。太平の世ならばそれもありえるが、時はまさにクライマックス、一触即発の場面をむかえ、痺れるような緊張感を孕んでいるのである。それを考えれば、この時期、のほほんと大坂に刀を研ぎにやるのは奇妙な話だ。

 手紙の文面も、妙なあんばいである。
 「受け取った短刀は、差し上げようとした脇差よりすばらしい」と誉め、その後「大坂から刀が戻ってきたら、見せよう」と綴っている。

 なにがおかしいかというと「差し上げようと思い」わざわざ研ぎにやった刀が戻ってきたのなら、普通は「差し上げる」はずである。ところが、「見せるだけ」というふうに、同じ手紙の中で変化している点である。

 つづいて「長脇差」も見せるだけである。

 この龍馬の手紙によると、陸奥と龍馬は近くに滞在している。いつでも見せ合えることのできる刀を、高価な紙を消耗し、使いを出してまで手紙で意思を確認するだろうか。
 もう一度繰り返すが、状勢は緊迫しているのだ。大勢は決していない。錦の御旗を掲げた薩摩が3000の兵を挙げて、京に向っており、対する会津藩、新撰組などは死守すべく人員をかき集め、組織の引き締めにやっきになっている。
 龍馬も渦中にいて、命の的になっている。そんな中で受け取った刀はすばらしいとか、刀を研ぎに大坂までやっているとか、悠長に文通している場合ではないはずである。
 胡散臭い。では、龍馬の手紙に出てくる「刀」というのはなにか?

 そう、暗号以外、考えられない。

 (略)

 現存する手紙の数は128通。ほんとうはもっとたくさんある。交流の深かった中岡慎太郎、西郷隆盛にもかなりの手紙を出しているはずだが、それらはすべて消滅してしまって、今現在目にすることはできない。
 それらも含めると、おそらく300通はくだらなかった、と言う歴史学者もいる。

 手紙は飛脚が運んだ。

 飛脚料は江戸ー大坂間で、だいたい7両から銀3分である。料金の違いは配達日数。三日で着く特急料金もあれば、のんびりと10日くらいかける便まであって、料金体系は細かく分かれていた。

 地方ならさらに高くなる。もっとも各藩は、自前の飛脚や隠密を飛ばすこともあり、必ず費用がかかったとは限らない。しかし、うっかりそんなものを使うと、藩の飛脚は敵のターゲットになっているから、他の隠密に狙われる。いや、飛脚自身も敵の隠密である可能性があり、中身を読まれたり、すり替えられる危険がある。
 その点、町の飛脚は高価だが、政治的には無色なのでまだ安心できたのだ。

 江戸、大坂、神戸、京都、下関、長崎、龍馬は行く先々で手紙を送っている。脱藩している龍馬に、藩付きの飛脚が一緒に付いて回っているわけではないので、多くは気軽に頼める町の飛脚に頼った。
 ならば一通、7両から銀3分。手紙の送料合計を、平均1両としてざっと見積もれば、しめて130両。
 現在の価値に直すのは、はなはだ困難だ。前にも述べたが、1両、40万円から、たった6、7千円だったという極端な学者もいる。ものすごいインフレが進行していて、換算は不可能という史家もいるくらいだ。それでも米価や手間賃から10万円説をとる。すると龍馬の飛脚料は、およそ1300万円になる。これは最低の概算であり、失われた手紙の量を考えると、2000万円は超えていたのではないだろうか。

 下級武士にはまったく相応しくない金額だ。普通、食うや食わずで街の隅っこに溜っているのが脱藩した下級武士の姿だ。郷士や足軽は犬の糞と呼ばれていたくらいである。

 しかし諜報部員ならおかしくはない、どこかの組織が出す工作資金から捻出していたと考えれば、多すぎる手紙の謎は解けるのである。
 
 では姉、乙女に書いた手紙はどうなのか?

 今、残っているのは12通。四国は海を渡るので一通平均4両くらいか。しめて48両(480万円)。普通そんな大金を、姉への手紙に使うわけはない。
 しかし龍馬は出している。さほど重要とも思えない自慢話の手紙を出すために、恍惚となって飛脚を用いていたとするなら、龍馬の金銭感覚はひどすぎる。
 しかし龍馬は馬鹿ではない。冴えている。無料で出す方法を見つけたのである。
 
 姉の乙女が中継点だったらどうなのか?

 武士の居所はつかめない。土佐勤皇党員、あるいは土佐藩士。手紙を渡したい諜報部員はいつも動いている。そして龍馬も動く。携帯電話のない時代、動くものどうしが連絡を確実に取り合うには、動かないという「中継基地」が必要になってくる。

 そこが姉、乙女だった。龍馬は、探った情報を乙女のところに送る。その時、姉へのプライベートな手紙を重ねる。受け取った乙女は、自分宛の手紙だけを抜いて、あとは相手に渡す。これなら姉宛の分は無料だ。
 こういうシステムになっていたと考えれば、借金だらけの龍馬に、どうでもいい手紙を姉にたくさん出せたというミステリーも氷解するはずだ。 


 なんども言うが龍馬は凄腕の諜報部員だった。諜報部員の手紙には暗号がちりばめられている。
 それでは陸奥に書き送った「刀」とは、いったいなんの暗号だったのか? 
 その謎に近づくには、もう一度、「イカルス号事件」まで戻るのが分かりやすい。

 水兵殺害事件は実際に起こったものだ。長崎の歓楽街で、2名のイギリス人水夫が切り殺されている。
 下手人探しに、パークスが乗り出す。

 パークスは世界に冠たる大国、英国公使である。こう言ってはなんだが、殺されたのは花街で酔いつぶれた下っ端の水兵2名。その犯人探しに、公使自ら捜査員となって、長崎奉行を怒鳴りつけ、取って返して大坂の徳川慶喜を突き上げ、それから土佐に乗り込む、という八面六臂の大活躍である。
 首をひねらざるを得ない。

 たわいもない噂にしがみついて、自ら土佐行きを買って出、部下のサトウでさえ目を白黒させるぐらいに、後藤象二郎をこっぴどく叱りつけるのだ。はっきり言って、理不尽なインネンだ。これは明らかになんらかのシナリオがある。ただの出来心ではない。
 思い返してみると、以前にも似たようなことがあった。

 リチャードソンという商人が薩摩藩の行列と遭遇し、斬り殺された、あの「生麦事件」だ。それをがっちりとらえ、英国は多額な賠償金を求める。幕府を責め、艦隊で鹿児島を焼き払ったのだ。
 手応えは抜群だった。薩摩は倒幕の旗手になり、今や英国を同志と呼ぶような間柄である。

 長州もしかりだ。下関を砲撃した後、ころりと親英になり、藩論は倒幕でまとまりすぎるほどまとまっている。
 自信を深めた。きっかけがあれば攻撃に限る。あくなきこだわり、今度は土佐である。
 ではいつもなぜ、露払いのように先に幕府を責めるかというと、二つの理由がある。

 まず幕府にねじ込むことによって、幕府と標的にした藩との関係が見えてくるのだ。幕府の応対と、それに対する藩の行動を見比べることで、藩の力量、考え方、藩内の勢力図が浮き彫りになるのである。すなわち揺さぶりをかけて、見極めるのだ。
 誰と誰がどういう考えを持っているか?誰が味方で、誰が敵なのか?分かればそいつと手を組むなり、突き放すなりという作戦が見えてくる。

 もう一つ、幕府を叱責せずに、地方の大名だけを叩けば、英国と幕府がグルになっていると見られる。だから必ず先に幕府を責める。責めて、責めて、責め抜く。そうすれば反幕感情を持っていた地方の大名は、次第に英国に心を開き、親英に傾いてくる。これが英国が描いた絵図である。

 この時、土佐藩内の状況はどうか?

 佐幕派、攘夷派の残党、武力倒幕派、無血革命派が重なり合っていて、山内容堂はまだぐらついていたのである。
 その情報を得たパークスはこう考えた。直接乗り込み、一戦交えてでも佐幕派、攘夷派を蹴散らす。
 土佐には、薩摩や長州のような砲台はなく、大挙して艦隊を出す必要はない。一隻の戦艦をもってすれば充分である。
 
 龍馬の動きを見てみよう。

 パークスが大坂に戻った時、相手をしたのは幕府と土佐藩だ。土佐藩の担当者は、佐々木三四郎(後の参議、枢密顧問官)があたった。
 バークスは持参した疑惑を広げるが、長崎で判明しないものを大坂で分かるわけはない。パークスはその場をおさめ、訊問は土佐で行うと通告。

 佐々木は、羽目を外す暇もなく一足先に帰ることになったが、そこである人物と会っている。
 龍馬である。ついこの間までは長崎にいた龍馬の偶然すぎる出現。どうみても、前もって詳しく情報を得ていた者の行動である。こういう時、講談ではばったりと出くわしたなどと流すが、そうそう都合よく会えるものではない。

 交通手段と通信手段が発達していない時代では、もう一度会いたいと思っても、一生かなわないことなどザラである。だからこそ「一期一会」という言葉が生まれるのだ。一度はぐれると、どうなるか分からない。「母を訪ねて三千里」などという話は、現代では通用しないが、古だからこその名作なのである。

 龍馬は、あきらかにパークスと示し合わせて長崎から大坂に入ってきている。曰くありげに裏で動いていたから、密かに佐々木と逢えたのだ。龍馬と佐々木は仲良く「三国丸」に乗り、土佐まで来る。

 バークスの折衝場所は高知ではなく、高知から西南、30キロの地点にある須崎という港町。そこまでくると龍馬は奇妙な行動を見せる。 「三国丸」を須崎で降り、停泊中の土佐船「夕顔」に身を隠すのだ。
 表向きだろうがなんだろうが一応「脱藩」していた龍馬は、事情を知らない国元の侍から命を狙われていた。したがって身を隠した、ということも考えられるが、その根拠はきわめて薄い。当時はすでに赦免されていて、藩が赦免というお墨付きを与えた人間に対して、武士ならば追い討ちをかけることはない。

 龍馬は、それでも「夕顔」にじっとして、神経質に姿をさらさない。
 理由は、英国の諜報部員だという噂が流れていたからである。
 英国が土佐に乗り込む。それを手引きしたのは龍馬だ、と思われていた。だから隠れなければならなかったのだ。

 タイミングよく大坂に現れた龍馬。その時、徳川慶喜から山内容堂宛の親書を福井藩主、松平春嶽の手から託されている。内容はイカルス号事件を深く心配しているという仰々しいもので、早い話が、土佐藩はパークスの存在を重く受けとめろというものだ。

 そんなものはバークスの根回しがなければ、書けない内容である。その将軍の手紙を龍馬が土佐に運んでいるのだ。

 海援隊の隊員が、犯人と疑われているにもかかわらず、パークスの周りをうろつく龍馬。どう見ても英国のエージェントである。
 パークスと後藤たちがやりあっている間、龍馬は、英国軍艦と目と鼻の先にある「夕顔」の船内に潜んでいる。それも一時間や二時間ではない。丸二日間だ。まるで傍で、お役に立つべく待機している。

 ここでまた、奇異なことが起こっている。

 夜陰にまぎれて、密かに軍艦を訪れるものがいたのだ。パークスに怒鳴り飛ばされた後藤である。

 政治の話は尽きなかった。「議事院」をつくって、イギリス型政治体制を樹立したいと語り合っているのだ。

 サトウは日記にこう綴っている。

 「後藤と我々の話は幕府の悪口になった・・・我々は今後も変わることのない友好関係を誓い合い・・・後藤はかしこい人間である。西郷をのぞくと、これまでに会ったどの日本人よりもすぐれている」
 サトウは、友好関係を誓った後藤を絶賛しているのだ。
 サトウはなにしにここまで来たのか?後藤はなにしに来たのか?龍馬はなにしに来たのか?

 こうなると、イカルス号事件などそっちのけで、夜陰にまぎれて、別のものが見えてくる。

 日記で「後藤と我々の話」というからには、サトウ側は複数の人間である。その席に、龍馬はいなかったのだろうか?夜な夜な「夕顔」から這い出して、軍艦に乗り移り、後藤たちと詮議を交えていたと思うのは、単なる邪推ではないだろう。

 藩内は、ざっくりと三つに分かれていた。

 後藤と龍馬が押し進めるのは、穏便な無血革命。すなわち幕府が自ら退き、はい、どうぞ、と権限を天皇に返す「大政奉還」路線だ。これがひとつ。あとは公武合体を引きずる勢力。そして武力討幕を主張する過激派、板垣退助たちである。

 パークスの滞在は三日間、後をサトウに託して9月6日に須崎を離れている。
 英国軍艦に去られたサトウは同じ日、従者の野口と日本人書記小野を連れて、龍馬の潜伏する「夕顔」に移って待つ。

 三日後ついにその日が実現した。サトウは土佐のボス山内容堂と面会。後藤を交え、最終的な意見のすり合わせに成功したのだ。
 英国の並々ならぬ決意を知って、容堂は腹を括った。佐幕派を脇に押しやり、板垣を除け、後藤を推す「大政奉還」路線をとったのである。

 こうしてみるとイカルス号事件の本筋は事実上の藩主、山内容堂と英国を直接逢わせることにあったことが分かる。
 
 「倒幕に立ち上げれば、英国は土佐に味方します。」
 後藤が容堂ににじり寄る。

 「イギリスを信用できるか?」
 容堂が訝しげに聞く。

 「おまえがイギリスを動かせるとういうのなら、一度連れてきてもらいたいものだ。そうしたら、信じよう」
 
 「いずれお連れします」

 イカルス号事件は絶好の機会だった。龍馬が自ら犯人は海援隊だ、土佐だと買って出ることによってパークスを土佐へと誘導する。こういう口実があれば、パークスも土佐に行きやすい。

 覆われていたベールを引き剥がすと、パークスを追って大坂に入った龍馬。親書を預かる龍馬。須崎「夕顔」での潜伏。そしてパークスが犯人を出せと大声で後藤を怒鳴った大袈裟過ぎる臭い演技。すべてが反革命派の裏をかくためのものだということさえ見えてくる。

 そしてもう一本の軸が浮かび上がっている。「イカルス号事件」で連なった人物だ。
 パークス、徳川慶喜、板倉勝静、後藤象二郎、そして龍馬だ。
 京都二条城に陣取る老中板倉に、後藤たちが「大政奉還」建白書を提出した手順は、まさにその人脈ラインを逆に遡ってゆくのが、約2ヵ月後、10月29日(旧暦10月3日)のことである。

 サトウは背筋を伸ばして長崎に引き返す。だが気持ちは釈然としない。パークスは、龍馬の穏健派ラインで、サトウの武力討幕路線がすっかり霞んでしまったからだ。これからどう軌道を修正するか、そんなことを考えていた。
 
 船は「夕顔」だ。佐々木も乗船している。依然として龍馬も乗り合わせており、佐々木の日記には、龍馬と会って親しく話したことが書かれている。
 ところが、このときもサトウの方の日記に龍馬は出現しない。いないのである。

 顔を合わさなかったのか?

 「夕顔」が巨大船であったら、それも考えられるが、たかだか長さ約65メートル、幅8メートル弱の蒸気船だ。船内は狭い。サトウが「夕顔」に移ったのは須崎港に停泊中のときである。二日間をそこですごし、さらに須崎ー長崎間の丸々二日間が船内だ。すなわち計四日。甲板、トイレ、キッチン、まったく見かけないということは常識的にありえない。

 作為的に龍馬を消し去ったのだ。何度も言うが、諜報部員をバラせば、英国では機密情報漏洩罪という万死に値する重罪になり、絶対書けないことなのだ。残すべきものと消し去るものをサトウは心得ている。だから龍馬には触れなかったのである。

 イカルス号事件を奇貨として、ともあれ土佐藩は、倒幕開国でまとまったのである。
 英国の作戦は巧妙、そして着実だった。

 1863年 「薩英戦争」
 1884年 「下関砲撃」
 1867年 「イカルス号事件」

 三つの事件は、三つの大藩を落としたのである。
 イカルス号事件は、英国にとってとんだ拾い物だった。
 この事件で手繰り寄せられたのは、土佐藩だけではない。大坂では西郷隆盛、長崎では桂小五郎、博文など錚々たるメンバーがサトウと接触、倒幕を援護すると念を押されている。

 これがイカルス号事件の成果であった。
 すなわち下手人探しを隠れ蓑に、パークス自ら英国の不退転の意思を、土佐藩士ならびに維新のキーマンたちに語る絶好の機会にし、力技で革命を推し進めたのである。

 長崎に入ったサトウは、すぐさま桂小五郎、伊藤博文、佐々木三四郎、龍馬と如才なく会談を持つ。
 そこで、サトウは恐ろしいほどの台詞で決起を促している。

 「薩長土の三藩の倒幕態勢は八割がた固まっている。これでなにもできなければ、恥を内外にさらすことになる」

 援護というより、これは革命家のアジテーションだ。
 同じ長崎に、グラバーはいなかった。
 「いろは丸」衝突事件の処理を、五代にしっかりと引き受けさせたことを見届け、ヨーロッパに出向いていたのだ。1867年の夏に到着していた薩摩藩使節団とパリで合流、パリ博覧会に顔を出している。

 グラバーは、日本に誕生する新政府を見据えていた。
 御一新に合わせ、新商売を整える必要があった。目をつけたのは石炭産業である。新政府ができ、産業が活発になれば、あらゆる機械の燃料として石炭は重要になる。彼の日程も炭鉱事業の習得、機械の選定、及び炭坑作業員のリクルートで占められている。

 長崎、グラバー邸の留守宅では、ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)が自由に歩き回っていた。彼は船員だったが難破漂流、米国船に助けられてアメリカに渡り教育を受ける。帰国後、米国神奈川領事館通訳となるが、ようは米国の諜報筋とつながる人物である。
 話を少し戻すと、イカルス号事件でサトウが長崎に入った時、グラバー邸にこのジョセフ・ヒコを訪れている。

 サトウにこう告げた。
 「薩摩、土佐、芸州(広島)、備前(岡山)、阿波(徳島)の諸大名が連名で、将軍に提出した文書がある」

 これは明らかに「大政奉還」建白書のことだ。しかし実際にはまだ一ヵ月も先のこと、フライングである。
 グラバー邸にいるジョセフ・ヒコが、うっかりすべらせたということは、米国とそれにつながる組織の中で「大政奉還」建白書提出は、すでに規定の路線だったのである。
 過激派のサトウは複雑な思いで、それを聞く。
 サトウがグラバー邸に滞在していたおり、訪れた伊藤博文は、一人の男をサトウに差し出している。サトウの日記では「弟子にしてくれと紹介された」と表現している。エージェント見習い、すなわち連絡員にしてくれという意味だ。まさか、日記にはスパイなどとは書けないから、弟子と記したのである。

 名前は遠藤謹助(後の造幣局長)。そう、博文と英国に留学した、「長州ファイブ」の一人である。1867年の9月23日が、遠藤謹助の「英国エージェント」となった記念すべき日ということになる。

畳み掛けるように、新聞記事が躍った。

 「徳川慶喜が将軍を辞職し、かわってミカド(天皇)によって尾張候(徳川義宣)が将軍に指名された」(10月9日)

 
 これも「大政奉還」のことだが、まったくのペテンだ。実際に行われるのは、まだ先のことである。
 発信元は、英字新聞「ジャパン・タイムス」だ。この新聞は、国家転覆を激しくアジったサトウの「英国策論」を載せた前科がある。今回は扇動記事ではなく、幕府が倒れたと、真っ赤な嘘を流したのである。これが事前に漏れ、グラバー邸の留守をあずかるジョセフ・ヒコの耳に入っていたのだ。

 こんなことをするのは、英国諜報部の仕業以外考えられない。パークスは、土佐で後藤に「大政奉還」を強くうながし、土佐の感触を得て一歩先に横浜に帰り、新聞に載せるように命じたというのが筋だろう。
 
 将軍が身を引いた! 噂には尾ひれがつき、蜂の巣を突いたような騒ぎになる。地方の藩が浮き足立ち、将軍が動揺して、下地は出来上がった。
 新聞記事から20日後、後藤象二郎が本物の「大政奉還」建白書を幕府に突きつけたのである。

 絶妙なタイミングだった。英国諜報部と綿密な打ち合わせがなければ、できない離れわざである。
 11月9日、大坂にいた徳川慶喜は、とうの昔に観念していた。それを受け入れ、淋しげに大政を奉還する。しかし完全に立ち去ったわけではない。
 この時、フリーメーソン西周が慶喜の政治顧問として背後に張り付いている。張り付いているどころか、上院下院からなる「議会草案」を慶喜に示して「大政奉還」を受諾するよう促していたのは周知の事実だ。五代、西の「パリのめぐり会い」が効いている。
 江戸にそのニュースが伝播したのは、11月12日、慌てた老中、外国事務総裁小笠原長行は、パークスに面会。「大政奉還」を報告しつつ、それでもなお将軍を含む議会制への移行という西の希望的構想を持って、これからはイギリス型になるだろう、と協力を仰いでいる。

 お分かりだろうか。パークスが表面上、ぬかりなく中立の立場をとっているからこそ、決定的瞬間においても、幕府はまだすがってくるのであって、そうなってはじめて、イギリスは日本全体をよく見通せるのである。

 幕藩体制の崩壊という決定的場面をひかえ。サトウの諜報活動はめまぐるしく回転する。
 稲葉正巳(老中、海軍総裁)、松平乗謨(老中、陸軍総裁)が兵を引き連れ風雲急を告げる京都へ向っている。薩摩も5千名の兵を大坂に結集中であり、長州と土佐も京阪に陣を敷く。

 勝海舟がサトウのところへ駆け込んでいる。暴発の恐れを告げるが、サトウの日記は、「終わりの始まりが開始した・・・」

 サトウはそう表現した。いわば自分が仕掛けた内戦である。引き金の「時」は、確信を持って正確につかんでいるのだ。
 11月24日、後藤象二郎から手紙が届く。手紙の配達人は「海外留学組の後藤久治郎とリョウノスケだ」とサトウの日記にある。

 ここに注目して欲しい。後藤久治郎は偽名で英国留学の経験者、中井弘蔵(後の滋賀県知事)のことである。ならばリョウノスケとはだれのことか。

 サトウは最初、ローマ字でMUTUと書き、それからそれを消してリョウノスケと書き改めている。
 MUTUから連想するのは「陸奥宗光」だ。
 「かれら(中井と陸奥)は土佐の建白書(大政奉還)の写しを持ってきた・・・・・かれらはイギリス議会の慣行について、あらゆる知識をわたしに求めたが、わたしには知識の持ち合わせがないので今後大坂にゆくとき、ミットフォードに紹介してやるからと言って・・・・・」

 陸奥が英国のエージェントもしくは連絡員だったというのは、サトウの記録などから比較的簡単に推測できることだし、陸奥ー後の農商務大臣、外務大臣ーという明治以降の英国とのかかわりを見てもうなずけるものがある。

 11月26日、薩摩の吉井幸輔(後の元老院議官、日本鉄道会社社長)の使いが、サトウの元に、知らせを持ってくる。

 「万事順調に進んでいる。(サトウが)大坂到着の節はすぐにお越しくだされたく候」

 万事順調に進んでいるという言い方から、武力討幕に向けて、あらかじめサトウとの打ち合わせがあって、その通りうまく事が進んでいるということだ。しかも大坂に着いたら来い、というのだから、吉井はこれからサトウが江戸を発って、大坂に入ることをすでに知っているのだ。
 すなわち吉井は幕末の濃い期間に、頻繁に連絡を取り合う、英国エージェントだということが分かる。
 サトウは猫の手も借りたいくらい忙しかった。無駄な動きはできなかった。同じ日、土佐と薩摩の両藩から手紙が届いている。江戸に陣取るサトウの元には、勝海舟、吉井幸輔、後藤象二郎、陸奥宗光、伊藤博文、すなわちグラバー邸に集っていた幕府、薩摩、土佐、長州などすべての勢力から、刻一刻と情報が寄せられてきているのだ。
 
 「荷物が届かない」(11月28日付日記)。荷物というのは、スパイのことを指す。

 「29日、昨夜ラットラーに乗船・・・・・今朝早く蒸気を起こし、荷物が届いた。我々が江戸へ向うのとほとんど入れ違いに横浜に着いていたらしい」

 これほどしつこく江戸まで探し、日記に書きつけるくらいだから、小物ではない。大物なのである。
 だが、残念ながら誰なのか、判明しない。しかし空想にひたれば、やはり陸奥ではなかったか?
 その大物「スパイ」を拾って、11月30日にミットフォードと、戦争の火種くすぶる大坂に乗り出していく。

 龍馬暗殺まで、あと10日。

 パークスは、まだ横浜に構えている。一足遅れて大坂に出向いてゆくのだが、その前に、表向き中立を標榜するパークスが、思わずはしゃいで本音をハモンド外務次官に綴ってしまっている。28日付手紙だ。

 「半身不随の日本政府にかわり、明快な制度が生まれる可能性が大きいことをお伝えできるのは、じつにうれしい・・・京都が政府の所在地になる可能性がある・・・来年の初頭には、住居を大坂に移す必要が生じるかもしれない」

 予定通りだ。 

 龍馬の手紙に戻るが、ここまで述べれば手紙の謎があるていど、解けるはずである。

 一、陸奥にあげようとしている「脇差は」は、大坂から使いが帰らないので、いつになるか分からない。

 一、陸奥が使者に持ってこさせた「短刀」は、私が上げようとしている「脇差」より、いい品物だ。刀の中込の質や形もとても確かだ。
 大坂で研いだ刀が返ってきたら、お見せしましょう。

 一、私の「長脇差」を見たいとの希望、お見せしましょう。

 
 「刀」のやり取りが、不自然であることはすでに述べた。
 では、この手紙にある「脇差」「短刀」「長脇差」という「刀」はなにを指しているのか?

 
 ずばり「情報」である。「刀」の部分を「情報」に置き換えてみるとこうなる。


 一、陸奥にあげようとしている「情報」は、大坂から使いが帰らないので、いつになるか分からない。

 一、陸奥が使者に持ってこさせた「情報」は、私が上げようとしている「情報」より、いい品物だ。「情報」の中の質や形もとても確かだ。
 大坂で研いだ「情報」が返ってきたら、お見せしましょう。

 一、私の「情報」を見たいとの希望、お見せしましょう。


 差し迫った中、近江屋で龍馬は、必死になって情報を集めていたのだ。
 手紙からは、大坂を重要視していることが分かる。その気になる大坂の情報とは誰からのものなのか?

 暗殺のつい二ヵ月前、龍馬、サトウ、陸奥の三人は長崎にいた。
 長崎で一仕事をすませた龍馬は、約30日にわたる長崎滞在に終止符を打ち、ライフル銃1千丁を船に積み込んで、10月15日、下関へ向う。
 下関で陸奥と別れ、その足で博文、桂小五郎と会合を持つ。ほどなく土佐に入る。そこでライフルを降ろしたのち、土佐藩船「空蝉(うつせみ)」に乗り換え、大坂薩摩藩邸に入ったのは、11月2日のことである。

 一方、龍馬と別れたサトウがエージェントとなった遠藤謹助を密かに乗船させて、横浜を目指したのは、龍馬が長崎を発つ三日前の10月12日だった。

 サトウが横浜から大坂に移動したのは、12月2日である。この段階でサトウは「武力討幕」を積極的に口にしていない。むしろ「模様眺め」という中立に近い。おそらくパークスに釘を刺されていたのだ。

 龍馬が陸奥への手紙に綴った大坂の「情報」とは、一見、大坂にいるサトウからの「情報」のように推測できるが、そうではないと思う。

 サトウであれば簡単に連絡がつくはずだ。手紙文は切羽詰っていて、首を長くして数日待っているが、まだ連絡が取れないといったふうである。

 となると、鹿児島から大坂を目指している西郷隆盛と読み取るのが妥当だ。
 情勢は緊迫の度を増している。時局は、刻々と武力討幕に傾いている。この時、無血革命を目指す龍馬の頼るべきキーマンは、薩摩の西郷しかいなかった。
 ところが西郷は、武力討幕で腹は決まっているという噂がしきりに流れている。
 本当だろうか? 心が乱れる。
 だから龍馬は西郷の大坂到着を待って、真意を確かめたかった。
 その重大な西郷の情報に「脇差」という暗号を使った。

 ならば「短刀」とはなにか?
 おそらく英国、パークスだろう。陸奥はパークスと接触し、英国はあくまでも血を流さない革命を支持するという返事をもらって龍馬に渡した。
 ほっと胸を撫でおろす龍馬。だから、龍馬は陸奥が持ってこさせた「短刀」は、私の上げようとしている「西郷の情報」より「いい品物だ」と綴ったのではないか。
 
 「中心(なかご)の銘及形」とはなにか?中心とは刀の柄(つか)に収まっている部分だ。すなわちパークスの手に握られているサトウを指しているのではないか?パークスとサトウはどうも意見が食い違っているように見えたが、陸奥の報告で両者は一致している。すなわち「中心の銘及形」も「これはまさにたしかなるものなり」と書き綴ったと読み解ける。

 最後の「長脇差」は、そのまま長州の動きということになるだろうか。

 サトウは、大坂から後藤象二郎(土佐藩)と吉井幸輔(薩摩藩)に手紙を出す。後藤はまだ土佐におり、吉井は京都にいる。
 サトウは連日連夜、睡眠を惜しんで仕事に打ち込んでいる。動乱にそなえて、横浜から大坂に詰めるはずの英国第九連隊の兵士、50名のための兵舎の建設手配、各藩からもたらされる絶え間ない情報の処理と分析。
 
 スパイ一人一人に情報の価値は分からない。総合してはじめて状況が浮かび上がってくる。サトウの大阪オフィスは情報分析基地となっていた。

 12月6日、京都にいる吉井から返事がくる。

 多忙をきわめており、手が離せない。土佐から西郷が大坂に入るので、それを待ってはいかがかという内容だ。


 土佐藩とパークスが合意した無血革命。龍馬はそれを、実直に推し進めようとしていた。それが自分の信じる道であった。

 しかし、それを阻む人物がいた。

 岩倉具視だ。人間味に欠けていて冷徹。岩倉は朝廷でなにやら常に蠢いていて、常に黒い噂がつきまとっている男である。この年のはじめに孝明天皇が急死したが、その時も、岩倉による毒殺説が、しきりに流れたくらい危険きわまりない人物だ。

 孝明天皇というのは、日本の開国を徹底的に遅らせた張本人である。その偏狭なまでの攘夷思想は、諸外国にとって、まさに厄介な存在以外のなにものでもない。孝明天皇の死に、外国工作員の影がちらついているというのは、決して除外できる噂ではないが、孝明天皇が除かれると、岩倉があっという間にのしてきた。
 彼は薩摩の大久保と武闘派路線で一直線につながっている。どちらが持ちかけたかは不明だが、両者は人を殺して幕府を潰す、という過激思想で完全な一致をみていたのだ。
 反体制勢力は、大雑把に見ると二派に分裂していた。

 後藤、龍馬をはじめとする無血革命派。それに岩倉、大久保の武力革命派だ。
 長州の桂小五郎、品川弥二郎、広沢真臣も、過激派に傾いている。西郷の気持ちは揺れている。
 龍馬とのせめぎ合いになった。

 「大政奉還」などという余計なことをされては、武力蜂起の大義名分がなくなる。ところが龍馬はしぶとく実行した。
 それで風向きが変わった。徳川慶喜が穏便に辞職したわけだから、これ以上追撃することもなかろうと、おおかたの大名が矛を収めるかに見えた、その瞬間だった。岩倉、大久保一派は、崖っ縁でものすごい切り返しを見せる。
 「討幕の密勅」だ。すなわち辞表など認めない。あくまでも慶喜は処刑以外にないという朝廷の命令書である。

 これも岩倉たちのでっち上げ、偽装文だというのが今や定説だが、でっち上げでもなんでも、その文は過激だ。

 慶喜を賊と呼んで殺害を命じ、さらに京都守護職にあった松平容保(会津藩主)とその弟、京都所司代、松平定敬(桑名藩主)に対しても、速やかに処刑することが書かれているのである。
 かくして後藤、龍馬の「大政奉還」は紛い物として踏みつけられ、錦の御旗を高々と上げて皇軍となった薩長が武装蜂起したのである。 


 12月10日(新暦。旧暦では11月15日)夜、龍馬は近江屋にいた。

 土佐藩士、中岡慎太郎と二階の奥で話し込んでいた。

 その時何者かが、二人を斬殺。ボディガードの藤吉もやられた。

 この事件は、不可思議な点だらけだった。最たるものは、記録らしいものがなに一つないことだ。
 殺されたのは海援隊の坂本龍馬であり、陸援隊の中岡慎太郎だ。両人は組織の隊長であって、もはや小者ではない。その二人が斬殺されたというのに、その状況を留める書き付けがないのだ。

 事件直後、現場に駆けつけたと言われているのは、谷千城(土佐藩)、毛利恭助(土佐藩)、田中光顕(土佐藩、陸援隊)、白峰駿馬(海援隊)、川村盈進(土佐藩医)、そして吉井幸輔(薩摩藩)。
 他には龍馬の使いから戻ったという本屋の倅、峯吉がいた。

 調べてゆくと、公に伝わっている証言の多くはそれ自体、めちゃくちゃである。他の証言としては事件後、30年、50年とへて、現場に駆けつけた人達によってぼそぼそと語られたものが拾えるくらいで、それにしても辻褄の合わないものばかりである。

 このことは重要だ。まさに、そこにこそ龍馬事件の本質があると言える。


 土佐藩邸は通りを挟んで近江屋の目と鼻の先だ。すぐ隣で、鮮血飛び散る大立ち回りがあった。しかし土佐藩の記録もない。医者、川村の証言もない。そしてなんども言うが、海援隊も陸援隊も駆けつけているが、どちらも記録を残した形跡はないのだ。
 
 龍馬と藤吉は絶命していたが、中岡慎太郎は、どうやら二日間生きていたという。これが本当だとしたら、当時の稚拙な手当てで、生存していたのだから、はじめはかなりの意識があったのではないだろうか。ということは、もっと慎太郎はしゃべっていたはずである。しかし、霧の中だ。

 傷の具合はおろか、刺客の人数すら特定できていないのだ。さらに言えば、近江屋の主人、井口新助夫妻が一階の奥にいたというのに、彼らからもまともな証言は聞こえない。
 およそ10名近くが事件後、現場を囲んでいた。その10名が10名とも固く口を閉ざしている。いったいどうしたことか。

 だれが考えても口止めされていた、としか思えないではないか。そう、しゃべることを断ち切られていたならば、すべてのことが納得できるのだ。
 
 では、だれが口を封じたのか?集まった10名近く全員を完璧に抑えられるほど、強力なパワー、力をもった組織だということになる。

 明治を迎えても、事件に関する証言はない。このことから、明治新政府になっても怖ろしいほどの権力を持ち続けた連中だということが推測される。

 そうなれば岩倉、大久保だ。そうとしか思えない。彼らは龍馬抹殺を決断し、肝の据わった殺し屋を夜の近江屋に送りつけた。この確信は揺るがない。

 その殺し屋とは誰か?

 わずかな状況や口伝から、どうやら共通点が見えてくる。
 まず、多人数で押し入った形跡がないということだ。そしてもう一つ、龍馬も慎太郎もほとんど反撃する間もなく、斬られている事実だ。
 剣の心得のある二人が、そろいもそろって満足に打ち返せなかったというのである。
 そして最後の疑問は、龍馬のピストルだ。撃っていないのである。
 ピストルは寺田屋事件で落とし、持っていなかったのではないか、という見方もあるが、それは違う。その二ヵ月後、龍馬は新婚旅行先の鹿児島で、ピストルを手に鳥撃ちに興じている。

 ピストルを撃ちまくって助かった経験を持つ者は、誰でもその威力を知ることになる。
 そうなれば、物騒な京都、なにをおいてもピストルを保持するのが心理だ。肌身離さず龍馬の元にあった。だが撃てなかった。それほど、あざやかに斬られたのである。そしてそれほど、至近距離での暗殺だった。

 そこまで近寄れる相手は誰か?一瞬の隙を突けるのは誰か?
 顔見知りである。警戒心を解く人物。龍馬にとって、あってはならない”まさか”が起こったのだ。

 不審の斬り合いで浮かび上がるのは、ただ一人をおいて他にはいない。
 中岡慎太郎、その人である。話し込んでいた慎太郎なら、龍馬がピストルを抜く暇もなく斬りつけられるはずである。

 では中岡慎太郎とは何者か?
 鍵は陸援隊にある。

 陸援隊は、その名前から龍馬ひきいる海援隊の陸上バージョンだと思いがちだが、ぜんぜん性格が異なる。
 海援隊が、営利を目的としているいわば「会社」のようなものであるのに対し、陸援隊は完全な「戦闘軍」だ。新撰組や京都見廻組に対抗する形で結成され、その任務は諜報と戦闘である。
 人員も海援隊よりずっと多く、人斬り部隊は約300名を数えている。新撰組さえ凌駕している人数だ。
 
 その隊長が中岡慎太郎である。

 では慎太郎はどういう思想の持ち主だったのか?
 ずばり、判で捺したような武力討幕派である。幕府を倒すために武器を取って立つという視点だ。とうぜん薩摩の大久保、西郷とつながっている。

 薩長土による武力討幕という流れは、水面下であらかた決していたと言っていい。バックは英国工作員、サトウである。

 大きく舵を切ったのは、龍馬暗殺の半年前だ。土佐と薩摩が手を結んだ「薩土倒幕密約」。この「密約」こそ、武闘派の要だ。「イカルス号事件」の約40日前に当たる・
 薩摩側の出席者は小松帯刀、西郷隆盛、吉井幸輔だが、土佐側は中岡慎太郎と板垣退助ら。
 その密謀の場で中岡慎太郎と板垣は、土佐藩が佐幕派(幕府派)に傾くなら腹を切る、と命をかけて言明したとおり、「薩土倒幕密約」は、土佐藩を過激な共同戦線に引きずり込むための密約だったのである。

 それからおおよそ一ヵ月後、今度は密約でない「薩土盟約」が結ばれる。こちらはなに憚ることのない陽の当たる薩摩と土佐の協力同盟で、後藤象二郎など土佐藩の重役が出席、龍馬も陪席している。

 陰では過激派同盟を結び、表では穏健派同盟を築くというダブルスタンダード。岩倉、大久保の歪な戦略だ。

 中岡慎太郎は岩倉具視とねんごろだった。
 11月13日には岩倉を伴って、薩摩藩邸を訪問し、吉井幸輔と会見している。
 この時期に注目して欲しい。後藤、龍馬によって鳴り物入りの「大政奉還」建白書が提出された二週間後である。その時期に、武力討幕の頭目、岩倉具視を伴い、これまた武力討幕の牙城、薩摩藩邸に中岡慎太郎が入ったのだ。どう見ても反大政奉還、後藤、龍馬を裏切る武力蜂起への意思統一としか思えない。
 
 静かな殺気が流れている。慎太郎はこのころから、邪魔な龍馬の動向を監視する役目を負っていた、と見るのが妥当だ。

 慎太郎の性格は冷厳だ。彼の陸援隊勧誘文たるや、苛烈そのものである。
 「邑(とも)ある者は邑を投げ捨て、家財ある者は家財投げ捨て、勇ある者は勇を振るい。智謀ある者はその智謀を尽くし、一技一芸ある者はその技芸を尽くし、愚ある者はその愚を尽くし、公明正大、おのおの一死をもって至誠を尽くし、しかるのち政教をたつべく、武備充実、国威張るべく、信義は外国におよぶべきなり」

 龍馬にこれほどの過激さはない。慎太郎の方は死をもって誠を尽くせとぶち上げ、そして信義は外国におよぶべきと、きちんと開国を押えている。
 正々堂々たる「武力討幕開国派」だ。

 「議論周旋も結構だが、しょせん武器をとって立つ覚悟がなければ空論に終わる。薩長の意気をもってすれば近日必ず開戦になる情勢だから、容堂公もそのお覚悟がなければむしろ周旋は中止されるべきである」

 陸援隊員、本山只一郎にあてた手紙だ。容堂に、武力討幕の覚悟がなければ、幕府との話し合いなど無用だ、と反駁しているのだ。
 これはアーネスト・メーソン・サトウの路線とぴたりと一致する。
 武力派と穏健派のつばぜり合いが続く。裏表のない、見たままを歩く慎太郎の目に、龍馬の無血革命路線は、もはや幕府に加担する、慶喜延命策と映っていた。

 サトウは大坂に情報本部を構え、公然と情報をかき集め、かつ矢継ぎ早に指令を発していた。

 サトウの日記に、吉井幸輔が登場する。龍馬暗殺の四日後のことである。
 武者震いをしながら、まず戦線の報告を先に受ける。
 
 「12月14日、吉井幸輔が来た・・・吉井は次のように語った・・・薩摩、土佐、宇和島、長州、芸州(広島)の間で連立が成立しており、われわれは主張を貫徹するため、事態をとことんまで推し進める決心でいる・・・」

 吉井の語った「事態をとことん進める」というのは、戦いの幕は切って落とされようとしている、倒幕までやりとげるということだ。
 それから、吉井は龍馬暗殺についても声をひそめて言及する。それを受けたサトウは、そのことをこう綴っている。

 「わたしが長崎で知った土佐の才谷梅太郎(坂本龍馬の生家の姓だが、偽名として使用)が、数日前、京都の下宿先で、まったく姓名不詳の三名の男に殺害された」

 吉井は事件現場に駆けつけている。その吉井から詳しい説明がなされているはずである。だから犯人は三名などと断定しているのだが、サトウが記したのは、たったこれだけで、すこぶるそっけない。

 サトウが日記で扱った龍馬は、知る限りでは三回、それもほんの数行だ。
 最初はイカルス号事件捜査で、サトウが土佐から「夕顔」に乗って長崎に帰ってきた時点である。
 「最初平山(外国総奉行)らは、佐々木か才谷(龍馬)かが、長崎丸に同船してゆくことを望んだのだが、ふたりとも忙しくてその暇がないと断ったらしい。土佐に対して政府(幕府)がいかに権威をもっていないかを知るのは、じつに気持ちがよい」

 ここでは思い切り佐々木と龍馬の味方だ。
 ところが翌日の日記で、トーンはがらりと変わる。

 「さらに才谷氏(龍馬)も叱りつけてやった。かれはあきらかにわれわれの言い分を馬鹿にして、われわれの出す質問に声を立てて笑った。しかし、わたしに叱りつけられてから、かれは悪魔のようなおそろしい顔つきをして、黙りこんでしまった」

 この描写は驚きだ。英国人が「悪魔のような」と形容する場合、ほんとうに憎悪した相手の場合に限られる。
 文に温もりがない。エージェントの龍馬を、サトウは大筋ではかばっているものの、伊藤博文や五代友厚を書く時のような血の通った表現は見られないのだ。
 そこには、龍馬は最初から遠い人間だ、といった突き放した感情がにじみ出ている。
 
 「まったく姓名不詳の三名の男に殺害された」
 これにしても同情のない、無機質な言い方だ。
 これには深い訳がある。サトウという男は、武力討幕工作に深く没頭してきている。
 しかし、龍馬は無血革命にこだわった。

 須崎に停泊中、サトウは訪ねてきた後藤と龍馬を説得した。龍馬は突っぱねる。あくまでも強気で「大政奉還」路線を曲げない。強気の源はなにか?
 サトウより権力のある人物が、龍馬の後ろにひかえていたとしか考えられない。そうなればパークスただ一人である。
 そこから龍馬は、パークス直々の諜報部員だった可能性が導き出される。自分の上司直属のエージェント。それだけにサトウはやりづらかった。

 イカルス号事件でも、龍馬はパークスに影のように付いて回っている。パークスが大坂に行けば大坂に現れ、土佐に来れば、土佐に来る。そのとき徳川慶喜の親書すら携えているのだ。

 英国、幕府、そして土佐。なんども言うが、龍馬はジェームズ・ボンドを彷彿とさせる優秀な諜報部員で、それで飯を食っている。そう考えれば、サトウが煙たがり、あくまでも距離を置いたというのはとことんうなずける話である。

 おおまかに分けてパークスは幕府を、サトウは反幕色の強い地方の大名を受け持った。
 二元外交だが、どちらも独自の諜報部員が必要なことに変わりはない。
 パークス直属の諜報部員の代表格が勝海舟であり、坂本龍馬であり、フリーメーソンの西周だった。
 これは勝手な存念、出すぎた邪推ではない。どう考えても、二つの路線が存在していたのだ。
 
 パークスは公使としての立場がある。外交官の特質上、さらには幕府の情報を取り入れるためにも、公平中立を公言しなければならない。薩長が台頭しても、過激な言動は慎み、せいぜい口にしても無血革命までである。
 その考えは、後藤、龍馬と通じている。そして龍馬は、最後の最後までパークスのソフトランディングを信じていた。だから龍馬は、サトウの武力討幕に逆らい、与しなかったのだ。サトウは蟠(わだかま)った。その様子をサトウは「悪魔のような顔つき」と形容し、憎悪したのではないだろうか。
 闇にまぎれた土佐でのやりとりで、サトウの心から平和革命をうたう龍馬がすとんと外れた。
 龍馬が錯覚していたのは、パークスの態度だ。パークスは平和路線で徳川慶喜を手玉にとり、龍馬、勝、西たちを動かす一方、部下、サトウを放し飼いにしており、武闘派の謀略を事実上容認していたのである。
 無血革命と武力革命の明瞭な区別なく、両方にカードを置く。どちらに転ぶにせよ、倒幕という目的は達成する。大事の前の小事。権力者というのは往々にしてそういうことをするものだ。
 龍馬は読み取れなかったが、サトウはパークスを読み切っていた。

 
 ではもう一人、民間英国諜報部員グラバーは革命をどう見ていたか?
 やはり武力と無血の両睨みだった。そしてその二つをつないでいたのは、ただ一人グラバーである。民間人なら、武力であろうが、無血であろうが自由である。
 
 さらに龍馬に対する思いはどうであったか?

 そもそもグラバー関係の書類は皆無に近いのだが、晩年彼自身を語ったインタビュー記事が唯一、残っている。その中のある部分、ほんの少しだが龍馬に触れる行がある。

 亀山社中隊員、近藤長次郎(土佐藩士)の切腹についての箇所だ。
 近藤切腹事件は、亀山社中のまったくの恥部である。
 近藤は土佐藩の人間だが、薩摩の家老、小松帯刀経由で、グラバーに単身イギリスに密航することを頼み込んだ。グラバーはそれを快く引き受ける。しかし、それが亀山社中の仲間に露見した。

 亀山社中の規定により近藤は断罪、即切腹させられたのである。
 グラバーのインタビューは、その事件に及んでいるが、そこから龍馬へのいい感情は決して伝わってこない。むしろ逆である。

 つまり純真な若者を死に追いやった冷徹な責任者として、龍馬への嫌悪感さえ漂っているのだ。
 インタビューはグラバーの晩年だから、龍馬はすでに暗殺という同情されるべき結果を招いていたにもかかわらず、グラバーの感情はまだ許すことをやめない。
 グラバーもまた、ある時期から龍馬を煙たく感じていたようである。商売を教え込み、自分の下で使いたかったが、龍馬はするりと抜けて、天下国家の方へ駆け出していった。
 ともあれ龍馬はグラバー、サトウ、薩摩、長州、そして同志だと思っていた後藤象二郎にまで、撥ね除けられていたのである。自由に生きたが故に、龍馬は行き詰った。
 暗殺の直前まで、交信し合う陸奥。彼にしても、そのころのサトウの日記に登場しており、英国武闘派の息がかかっている。

 しかし龍馬は、武装蜂起を止めようと獅子奮迅の働きを見せていた。

 - 薩摩軍はどう動いているのか? 長州は?  西郷は?
 サトウは仮面を脱ぎ捨て、露骨に武力蜂起を促していると聞くが、本当だろうか?
 パークスはどうした。平和革命を唱えていたではないか。いったいどうなっている。パークスさえ捕まえられれば、薩長の過激な蜂起は防げる -

 
 京都近江屋に陣取った龍馬は、あえいでいた。
 陸奥と連絡を取った。陸奥は神戸塾時代から勝海舟ともつながっており、大物スパイの一人だが、使いの者に虚飾をほどこした聞き心地のよい返事を記す。

 「パークスは仲裁に入るはずだ」
  龍馬は喜び、手紙を書いた。

 「受け取った短刀はすばらしい」

 次は未来を握る西郷だ。3000の兵を連れ、大坂に入ると聞いている。しかし使いは、まだ帰ってこない。

 「さしあげんと申した脇ざしハ、まだ大坂の使がかへり不 申故、わかり不 申 ・・・ 大坂より刀とぎかへり候時ハ、見せ申候」

 その大坂の使者とは、想像力を膨らませれば吉井幸輔ではなかったか。しかし、その吉井とてサトウの手駒、武力討幕派のために動いている。
 暗殺の約一ヵ月前の11月13日(旧暦10月7日)、望月清平に出した龍馬の手紙が残っている。

 それには、昨夜、龍馬は吉井の伝言を受け取ったと書かれている。吉井は、近江屋は危ないから薩摩藩邸に居を移すよう龍馬にすすめたというのである。
 しかし龍馬はそれを断る。龍馬の手紙には薩摩藩邸は嫌だと書いてある。命を狙われていると知っている龍馬がなぜ、かたくなに拒否し、もっとも無用心な近江屋に潜伏したのかは、もうお分かりだろう。

 武力一色の薩摩藩とは、決定的に対立していたからだ。
 龍馬は続いて土佐藩邸にも泊まりたくはないと書いているが、これも理解できるはずだ。手紙の中では「御国表の不都合の上」という表現を使っているが「土佐藩の不都合」というのは、土壇場になって龍馬を無視し、薩長が掲げる暴力革命やむなしに傾いたからである。

 四面楚歌だった。

 対立の序曲は「大政奉還」の建白書を出した時(旧暦1867年10月3日)に始まっていた。その刹那、龍馬は邪魔な存在として彼らの前に立ち塞がったのである。

 龍馬は、同じ日本人の殺し合いがいやでたまらなかった。目指すは無血革命。彼にとってはかけがえのないものだった。そのためには孤軍奮闘、命にかえても守るべきものだった。誰にも律することのできない大物諜報部員、それが龍馬だった。

 「大政奉還」を葬るために、薩摩と岩倉は「討幕の密勅」を偽造し、しゃにむに武力革命をぶち上げる。それは「薩道(サトウ)」を名乗り、薩摩に同化しているサトウも承知の上だ。

 英国、薩摩、岩倉、長州の足並みはそろっていた。あまつさえ土佐の後藤象二郎さえもだ。

 邪魔者はただ一人、龍馬だった。』

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これからの生き方とは 3

 これからの生き方とは・・・をテーマに2010年を考えみようと「情報誌INTUITION」で執筆される澤野大樹という若者のメッセージを紹介させていただきました。
 この若者のメッセージは文字通り「直観」であるのでしょう。

 それで、最初、千利休の『稽古とは一より習い十を知り、十よりかえる元のその一』という言葉の中に大いなる時代の節目というか、次の時代というイメージを自分なりに感じたのです。
 
 世界救世教の開祖である岡田茂吉は時代というものにも昼と夜があり、それは3000年を一区切りにして昼の時代と夜の時代が人類歴史の中にあって、現在は夜の時代の終焉が近づいている時代で、やがて「夜昼転換」に至り、昼の時代の到来となると言われています。

 そして、夜の時代というのは、暗闇の時代で光が差しても月明かりとなるため、物事の全貌を知ろうとしても、難しい時代であったと言われます。
 しかし、昭和6年6月15日に起きた神事を通して、その日霊界が昼の時代に突入したことを知らされ、やがて現界に移写する事を、その出来事を通じて知らされました。

 人類の歴史というものに思いを馳せると、この千利休の言葉と人類の進歩はまさに「一から十」への歩みそのものでありました。
 しかし、次の時代というものをイメージしたとき、さらに夜から昼という相反する時代への移り変わりをイメージすると、「十よりかえる元のその一」という言葉が的を得ているように思ったのです。

 さらに芸術の極めというものが、実はそこにあったことと、私たちの生活そのもの自体にも、芸術に例えることができるという認識に、新鮮な驚きを感じました。

 そして、日本語という「言霊」(ちなみに「ことだま」と呼ぶよりも「ことたま」と呼んだほうがいいことも知りました。)の素晴らしさは以前からそのように感じていたので、これからの時代はよりいっそうその重みを大切にしていかなければとも感じたのです。

 「真・善・美」という言葉がありますが、それに対する言葉が、「偽、悪、醜」であります。

 これから昼の時代が来ると仮定すれば、今はその黎明期になるのではないでしょうか。
 日増しに光が強くなる時代、それが今の時代なのです。そのような時代であるのならば、これからの社会はガラス張り社会というか、隠すことが出来ない社会が、好むと好まざるにかかわらず、やってくるのではないでしょうか?

 それは世界政府というものを構築しようとする彼らの戦略のひとつでもあります。
 
 そういえば彼らの世界征服綱領の中に次のようなものがありました。

 「政治と道徳は何の共通点もない。
 モラルに制約される政治家は、政治家失格である。そんなことではとても権力の座は維持できない。
 政治家たるものすべからく策謀と偽善を用いなければならない。
 民衆にあっては美徳とされる誠実や素直さは、政治においてはむしろ罪悪である。
 どうしてかといえば、こうした徳目は最強の政敵よりも一層確実に政権を転覆させてしまうからである。
 これらの道徳は非ユダヤ人の特長であってもよいが、われわれユダヤ人は、決してこれを学んではならない。
 われわれの権利は力にある。」

 しかし、次第に光が強くなるにつれて彼らの戦略は通用しなくなるのでしょう。
 ですから欺くことが難しい時代、それが現象化していることが、政局に然り、医学に然り、食に関しても然りなのです。

 そして今年はその現象が年初から始まっているように感じます。
 しかし、彼らは「力」を持って、傲慢にもやり遂げていくのでありましょう。
 それも「神仕組み」の中に含まれているからなのです。
 「善=全」であるならば、悪は全の内に含まれたものであるからです。

 また、多くの宗教家や自然から学びを受けた先達は、天変地異は偶然に起こるものではなく、人心が大きく関与していると説いております。

 そのような説が真実であるのならば、今までに蓄積された鬱積はいつかは吐き出るときが来ます。

 そのような観点に立ったとき、その根本というべきものが「言霊」にあるのではないでしょうか?

 そして、その重大さを出口王仁三郎は次のように述べました。  

 『 兄弟姉妹よ、なんじら口をもっと慎むべし。
  口の先より毒をはき、刃を出す。世界のもろもろの罪けがれ、おおかたは口より出ずるものなれば、もっとも口は慎まざるべからず。

 口ほど恐るべきものはなし。剣も口より出て、悪魔もまた口より出ずるなり。
 ゆえにわが身、わが魂を地獄へ落とし入るものは、多くはわが身の口なり、舌のわざわいなり。

 人をののしる口をもちて、人を誉めたとうべし。
 人は神のみ子なれば、人をののしるものは神をののしるがごとし。
 わざわいの報いたちまちにいたらん。恐れ慎むべきなり。 』
                     (道の栞より)
 

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これからの生き方とは 2

昨年10月6日頃のNHKニュースより

『 富士山の地下深くで、地盤が膨らむ傾向を示すわずかな変化が国土地理院の観測で初めて確認されました。
 噴火の兆候は見られず、火山噴火予知連絡会では、火山活動の変化を知る手がかりとして注目しています。

 これは、5日気象庁で開かれた火山噴火予知連絡会の定例会合で報告されました。それによりますと、国土地理院が富士山の周辺に設置しているGPSの観測点で、去年8月以降、山梨県富士吉田市と静岡県富士宮市の間がおよそ2センチ伸びるなど、富士山の地下およそ15キロ付近を中心に地盤が膨らむ傾向を示すわずかな変化が初めて確認されました。膨らんだ部分の体積は東京ドーム8個分に当たるおよそ1000万立方メートルと推定され、国土地理院は、地下のマグマの動きを反映しているとみていますが、このほかの観測データに大きな変化はなく、噴火の兆候はないということです。

 これについて火山噴火予知連絡会の藤井敏嗣会長は「活火山としては珍しい現象ではなく、直ちに噴火に結びつくものではない」と説明したうえで、「富士山の火山活動はこれまでにない変化をとらえることができた。今後の観測データも注意深く監視していきたい」と話しています。』

 
 昨年12月中旬に静岡県伊豆半島東方沖を震源とする群発地震が発生しました。
 そして伊東市では、17日夜と18日朝に震度5弱の地震が観測され、東海、東南海、南海地震が叫ばれていることから、関東周辺や東海地方には、緊張感が走りました。
 しかし、静岡周辺や伊豆地方での群発地震は珍しいものではなく、1978年から数えると45回目のことでした。
 そして、この直後、元F1ドライバーの片山右京氏の富士山遭難の一報が流れます。

 ところが、彼は最初に揚げたNHKニュースが報道されたその時から、このような日本の雲行きを、多次元的に捉えていました。。

 『 ここで重要なのは、記事冒頭には「わずかな変化」と説明されているが、記事中ほどでは、地盤が膨らんだ部分の体積について「東京ドーム8個分」という、尋常ではない数字がハッキリと書かれているところである。
 また、「活火山としては珍しい現象ではなく、直ちに噴火に結びつくものではない」と、何も問題がないような雰囲気を前置きしているにも関わらず、「富士山の火山活動ではこれまでにない変化」と、今回の富士山の地下で起きている現象が、「これまでにない変化」であることを柔らかく、優しく伝えている。
 
 筆者はこの記事を読んで、富士山がじつは「かなり危ない状況にある」ということを直観した。
 こういうことは、火山活動に限らず、たとえば、原子力発電所の事故現場においても、同様のことが言える。

 たとえば、原子力発電所で放射能漏れ事故が起きたとする。
 「危険なので避難してください」とアナウンスされた場合は、「逃げれば助かる」というレベルなので、じつはまだ安全なのだ。本当に怖いのは、「まったく問題ありません、安心してください」とアナウンスされてしまった場合だ。この場合は、「今から逃げても、もう手遅れ」というケースだ。だから「安心してください」としか言いようがないのだ。

 (略)

 ではなぜ、今、富士山が活発化してきているのか?
 ひとつは、太陽黒点の消滅が挙げられるだろう。

 太陽活動が低下すると、地球はクラウド(雲)に覆われる。そして、大規模な火山活動が発生し、さらに地表を覆うこととなる。そして、氷河期へと突入していくのである。

 もうひとつ、「火山の噴火」とは、多次元的に解釈すると、「鬱積されたストレスの解放」である。
 「鬱積されたストレス」は、もちろん地球人類全体の意識レベルのことを指すが、とりわけ富士山と限定する場合においては、「日本国民」の潜在意識の状態、そしてさらに、なによりも、「日本という国体」「龍体としての日本国」の威厳の問題に関わった時に、その反応は顕著となる。

 「威厳の問題」というのは』、昨今繰り広げられた、天皇陛下の「面会問題」のように、日本国を意図的に貶めようとする動きが発生した場合などを指す。
 その場合、国体による「身震い」が示され、「次元の違う日本」という存在を広く知らしめようとする。
 そして、その意思表示は、火山活動に直結しているということである。

 現在、日本は「民主党政権」によって運営されている。
 
 これまでの自民党体制とは、いわゆる保守である。保守とは「これまでの慣例をそのままに、成長を基盤とした社会作り」ということである。
 翻って、民主党体制とは、基本的に社会主義政権である。
 つまり、「成長を望まず、裕福層から集めたお金を、貧しい人たちで分け合ってみな平等にする」ということである。
 自民党体制と、民主党体制では、まったく違う国と言っても過言ではないほど違うのだ。
 これほどまでの違いは、その時の気分で安易に「政権選択」するようなレベルではない。


 民主党は「天皇」にメスを入れ始めた。
 
 神の存在を否定する社会主義の民主党政権によって、この世のものではない、多次元的な存在である「天皇」が踏みにじられようとしている。
 こうした動きに対して、日本という「国体」は、身震いをもって、その威信を表明することとなる。
 つまり、何の意味もないところに富士山は噴火などしない。
 もし、富士山が噴火するなどということがあるとしたら、それは、日本、そして日本人が、よほど、この龍体である日本国という国体を、自ら貶めた時である。

 一国を司るどこの神が、自国民を殺(あや)めたいと思うだろうか?
 そのような神など存在しない。
 神がもし存在し、その神が自国民に対して牙を剥いたとするならば、それはその以前に、自国民こそが自国を司る神に対して牙を向けたからに他ならない。
 
 日本の言葉を話し、日本の空気を吸い、日本の水を飲み、日本のコメを食べ、どうして日本を蔑むような行動を取れるのか?
 日本を貶めるその行動のエネルギーの源は、すべて日本の神々から預かりたもうた宝物ではなかったのか?
 「恩を仇で返す」ことこそが、「鬱積されたストレス」の最たるものとして、日本国土を転覆させてしまうのだ。

 
 「日本の国土が転覆する」、そんな危険性が先日、鳩山偽装献金事件、小沢一郎公設秘書問題などに起因して起こっていた。
 「改革」を掲げた民主党そのものが、旧態依然の「改革拒否組み」の筆頭であることが明らかになった。
 その「欺瞞」が「鬱積したストレス」を形成し、まさに、富士山が噴火してもおかしくはない状況を招いていたのだ。

 このままでは、日本が危ない。このままでは、全地球のストレス解放の出口である富士山の頂が火を噴いてしまう。
 その兆候は、「伊豆東方沖群発地震」として、12月17日の午前から始まっていた。
 信じられない方もおられるかとは思うが、この巨大な富士山の緊張を鎮めるために、2人の「人身御供」が捧げられたのであった。

 これが12月18日未明に起きた、元F1ドライバーの片山右京氏が率いる富士山登山パーティーの遭難事故の”多次元的な真相”である。
 
 「火」そして「火山」を鎮める「水の神」として富士山に祀られている「木花咲耶姫」(コノハナサクヤヒメ)は、女神であるため、人身御供は男性となる。
 さらに、富士山の緊張度合いの大きさから、人身御供は「2名」となった。
 亡くなられた方は、誠に気の毒としか言いようがなく、ここに謹んでご冥福をお祈りしたいと思います。
 ご遺族は、突然、大切な家族を失う悲しみに打ちひしがれていると思う。この悲しみを癒すものは、ただ時の経つのを待つか、もうひとつ、最愛の家族が、日本に降りかかろうとしていた災厄の巨大なエネルギーに対して、身を挺してそれを中和させる「プログラム」として働いたという多次元的な功績を知ることしかないだろう。

 

 今、日本では、木花咲耶姫に代表される女神が乱舞している。
 「木花咲耶姫」とは、「木の花(桜の花)が咲くように美しい女性」という意味である。
 今、もうひとつは別の場所で、もう一人の「美しい女神」が降臨し、猛威を振るっている。

 ご存知だろうか? 沖縄の「普天間」である。

 「普天間」といえば、「普天間飛行場移設問題」で問題となっている場所である。
 もうひとつ、「普天間」といえば、沖縄県宜野湾市にある唯一の神社「普天間宮」を忘れるわけにはいかない。熊野権現と琉球古神道神を祀る。琉球八社の一つとして知られている。

 この「普天間宮」には2つの伝説がある。
 信心深く、仲の良い夫婦が、熊野権現から黄金を授かる「仙人伝説」と、普天間宮の永遠の女神となった、「美女・女神伝説」の2つである。

 まずは、「普天間の言霊」を見てみよう。
 「普」とは「普く」と書いて「あまねく」と読む。
 「広く隅々まで広まる」という意味である。
 
 続いて「天」とは、「TEN」であり「NET]であり、まさに「多次元世界」のことである。
 
 さらに「間」とは、空間、領域、さらに私たちが生きる場所、つまり「世界」のことを指す。

 「普天間」とは、「この三次元現実世界に、多次元世界のことが、広く隅々まで広まる」という意味なのである。

 このような神秘的な言霊を持つ「普天間」において、もっとも三次元物質主義的な「軍事基地」についての議論が勃発しているというところが、じつにスピリチュアルではないだろうか?
 じつは、民主党の命運も、富士山の動向も、日本、そして、世界の人類意識覚醒も、すべてこの「普天間問題」を雛形として、起こるべきものは起こるべくして、その時を待っている状態なのだ。

 
 民主党鳩山政権は、現在、大変な選択と決断を迫られている。表面張力によってギリギリに均衡を保っている極めて不安定な状態で、どのような決断を下すかが試される。
 米国の主張と、日本の主張、一触即発の、まさに戦争状態なのである。
 その辺りは、やはり米国は完璧に布石は打ってある。
 今、現在の日本の立場は、かつての「プラザ合意」の時とまったく同じ状況である。

 当時のアメリカの膨大な財政赤字解消のために、日本は半ば強制的に犠牲になったのだ。”半ば強制的”とは何か?

 日本が持っていたドル建て債権が半額になっても文句ひとつ言えなくなるような「脅し」を日本は受けたのだ。
 
 「プラザ合意」のほぼ一ヶ月前、1985年(昭和60年)8月12日、それは起きた。

 では現在はどうだろうか?

 日本の某航空会社の経営危機が話題に上ることと、時を同じくして、映画「沈まぬ太陽」が公開された。
 これは完全に、「日本よ、あの時のことを覚えているかい?」という暗黙のメッセージである。

 そしてそのメッセージは、もうひとつ、
 「普天間基地のこと、わかっているよね?」ということも告げているのだ。
 つまり、民主党、鳩山政権の下す決断によっては、もう一回、「8月12日」が起こる可能性があるということである。
 そして、その結末によって、富士山が動くというシナリオなのである。
 鳩山首相は、この大ドラマの中心人物として、この難局を、乗り越えることができるのだろうか? 

じつは今、日本はとんでもない”戦争”の中にいるということに気づいていただきたい。現代の戦争は、ミサイルが飛び交い、戦車が行き交うものではない。
 「現代の戦争」とは、情報のやり取りである。情報を使った詰め将棋のようなものだ。誰の目にもわかりやすく、敵を物理的に攻撃するという旧タイプの戦争とは違って、今は、敵の最大の”弱み”を握り、静かにねじ伏せていくというやり方だ。


 日本国内を走る数百万台の自動車一台ずつに装備されている「カーナビ」は、日本全国どこにいようとも、遙か上空のGPS衛星に位置を把握されている。これは元々、軍事衛星であったものが、民生用に「天下り」してきたものだ。また「Googlストリートビュー」も、元々は軍事利用であった。さらに、インターネットもそうだ。少し前であったならば、信じられないような技術が、民生用に降りてきている。
 ならば、今現在、アメリカの最新の軍事偵察技術はどのレベルに到達しているのだろうか?

 おそらく、鳩山首相、そして小沢一郎両氏の、朝起きてから、夜寝るまでのすべての会話がリアルタイムで英語に翻訳・活字化されているだろう。さらに、飲食物に混ぜて体内に忍ばされた極小ICチップによって、体温の変化、脈拍の変化、血圧の変化が補足され「心境」までもが完全に数値化され、”活用”されているだろう。

 そんな”最新技術”によって四方を囲まれている政治家であるならば、「失言」などによって、自らの処遇に右往左往しているようなレベルでは、まったくダメである。自らの顕在意識を操って、脈拍や血圧を自在にコントロールし、見えない相手を撹乱させるくらいの人物でないと、これからの政治家は務まらないだろう。

 「そんな人物いるわけないよ」と思われるだろう。
 おそらくこの日本にはいないだろう。では、まったくダメなのか?
 歯が立たないのか?

 答えは簡単である。
 どれだけ相手に詮索されようと、喜怒哀楽を察知されようと、何一つ、曇りの一点もない澄み切った心を持っていればよいだけのことなのである。
 曇りのない、クリアな心は、数十億ドルをかけた軍事偵察技術も無力化させてしまうのだ。しかも費用は一銭もかからない。
 
 今、日本国を建て直し、輝かしい未来を現出させるためのきっかけをもたらすことのできるような政治家とは、饒舌に経済の仕組みを語ることではなく、軍事についての博識を誇らしげに語ることでもなく、他者の秘密を握ることで力を増していくことでもなく、単純に「聖者」であることに尽きると、筆者は考えている。
 これからの新しい政治家のあり方とは、利権構造のしがらみに必死に繋がろうとすることではなく、最初から「天」と繋がることである。
 明け透けに「ちくわ」として生きる、一個の「人」として、そして即ち「聖者」として生き振舞うことのできる人物である。
 世の中の仕組みに精通しつつも、自らの無知の度合いを痛いほど熟知し、原点に立ち返ることのできる者である。
 政治の世界も「元のその一」こそが、真の熟達者なのである。


 現在の日本の社会の中では、「政治家」と聞くと、あまり良いイメージは持たれないと思う。それは、本来の「まつりごと」として「聖者」によって行われてきた政治の世界を、三次元物質主義に立脚した、「得なのか、損なのか」でしか物事を計ることのできない狭量なる価値観が支配的となったからであろう。
 人民を統治することとは、すなわち人心を掌握することである。つまり、人の「心」を掴んで離さないことが「まつりごと」の基礎となる。
 人の心とは目に見えない多次元領域のものである。ならば、三次元物質主義に立脚した現在の政治と政治家のあり方では、まずその基礎すらないという状態なのだ。
 モノやお金をぶら下げて得られた人心ほど空しいものはないだろう。しかし、現在の政治とは、そういうものとなってしまってはいないだろうか?

 日本は自殺大国である。公式発表で年間3万人以上が自ら命を絶つ。実際には15万人を越えるとも言われている。
 ホンモノの政治家であるならば、自殺者などいなくなるのだ。「本当の幸せ」を人々に見せ、体感させるからだ。それができないのであるならば、「政治家」を自称するべきではない。

 (略)

 すでに、タイガーウッズのスキャンダルで、見切り発車をした感のある「寅年」であるが、シンプルな多次元的解釈によって予想してみよう。

 「トラ」という動物を見て、あなたならば、何を思い浮かべますか? もっともシンプルで素直な直観を大切にしてください。
 「肉食獣だ」「怖い」「勇敢だ」など、いろいろなイメージが湧いてくると思います。

 さて、では筆者は何を思い浮かべたかというと、トラの模様についてです。
 トラの体にある模様は、黄色と黒の縞々です。これは何を意味していますか?

 
 - そうです。事件現場や工事現場などで見受けられる「規制線」です。「立ち入り禁止」や「頭上注意」などの注意を促す時に、黄色と黒のカラーリングが用いられます。
 つまり、2010年は「立ち入り禁止」となるということなのです。
 これは、様々な意味に解釈することができます。 
 ラビ・バトラ氏は、2009年後半から2010年前半にかけて、「世界的な重大危機」が訪れることを予測しています。「世界的な」というところが重要で、つまり、地球全体、そして2010年自体が「危険区域」となる可能性があるということです。

 何が起こるかは誰にも予想はできないでしょう。
 もし何かが起こったとしても、筆者の内容をよくご存知の方ならば、それが、当然ながら「罠」(トラップ)であることをすでに知っています。
 三次元現実世界のみ執着してしまい、思わぬトラブルに巻き込まれることのないように、常に多次元視点をもって、物事を見ていく必要性がますます高まります。
 人類の爆発的な意識覚醒には、反作用として、それを阻害するプログラムが働きます。意識覚醒が近づけば近づくほど、多次元が見えてくれば見えてくるほど、あなたの心を奪うような瑣末な雑事が次々と舞い込んで来るでしょう。しかし、それらすべて「トラップ」だということがリアルタイムに認識できるようになれば、いよいよ「三次元を御す」一歩手前まで来ています。

 意識覚醒の決定的なきっかけとなる最大のイベントは、「ずっと探していたものが、じつは目の前にあった!!」という衝撃です。
 2010年、あなたは目の前にある「虎の子」を見つけることができますでしょうか?』

 つづく

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これからの生き方とは 1

年初から訳の分からないような事柄をひとり言のように書いています。
 でもよくよく思えば毎年同じようなことをやっているので、この日記に訪問してくださる方々は今さら何をと言われるかも知れません。
 でも、思い起こすと今回の場合は、年末に久しぶりに映画館へ行ったことが事の始まりのようでした。

 ・・・今から20年ほど前でしょうか、その頃に一部の精神世界ファンの人たちの間で「アセンション」という言葉が使われはじめたようでした。

 やがて1999年が近づくと終末論的な風潮は高まりを見せはじめ、マスコミなども取り上げるようになりました。
 しかし、それは世の終わりというネガティブな結末を思い描かせる内容であったため、いつしかアセンションと世の終わりは同期して、それが一般的な人々に伝わる頃には、針小棒大に甚だしく脚色され、その根源的な部分というものを見極めるには、困難なものになったようです。

 そして「2012」という映画もその延長線上に置かれていたものでありました。

 では、本当のアセンションとはどのようなものであるのでしょうか。


 
 それで、小生が好きな若者が最近述べた事柄ををお伝えしたいと思います。

 まず彼は一人の人物の言葉を示しました。

 『稽古とは一より習い十を知り、十よりかえる元のその一』(千利休)



 そして彼は、本当のアセンションとは、まさにこれだと言ったそうです。

 しかし、アセンションという言葉は、「終末論=世界の終わり」というネガティブなイメージが強調されやすいために、それは脅しや恐れというようなものと相俟って、結局のところは危機的な状況から回避するための手段として、スピリチュアル的に事柄が論じられているように思われるのです。

 そしてスピリチュアルの最先端というものを知って、より一層の幸せを追い求めていたつもりでも、やはりそれは三次元的な枠の中での思い込みや偏見、常識や規範の体現であったのだと、その若者は言うのでした。

 人々は長い人生において、いろんなことを身に付け、知識を得て、経験を積みます。しかし、それはゴールというものではなく、これまでに獲得したあらゆる経験や知識を維持した上で「元のその一」に帰ること、それでゴールに到達することになると言うのです。

 つまり、それは知識も経験も何も持っていなかった、生まれたばかりの赤ん坊の意識のことを指しています。純真無垢で穢れを知らないまっさらな心に帰ることがアセンションという言葉の本質を知ることだったのです。

 ですから三次元という枠の中で見れば、これまでの人生で獲得してきた知識や経験は「モノ」でありました。
 学校に通い、友人と語らい、会社に勤め、仕事をして、恋人と出会い、結婚し、子供を儲け、貯金をする事なども、それら全ては「モノ」であって、私たちは、たくさんの「モノ」を身にまとっただけで、その先を見逃してしまっていたのです。
 
 そして最後に若者はアセンションの意味を次のように表しました。

 『 赤子の意識、無垢で穢れなく、疑いを知らない澄んだ瞳。きわめて霊性の高い、赤ちゃんの意識を「霊性」と表現したらどうだろうか?

 つまり、人生も終盤に差し掛かり、あらゆる知識や経験を積んだ先に、さらに赤ちゃんの意識にかえることができたとしたならば、その状態のことこそを「半霊半物質」と呼ぶことはできないだろうか?

 きわめて高度な人生経験、そして知識と、赤ちゃんのような無垢な魂の高次元での均衡状態、これこそ、アセンションと呼ばすになんと呼ぼうか?

かつての大芸術家たちは、この境地に憧憬の念を抱き続けた。
  毎日、大量のデッサンを書き、技術を磨くことは何よりも大切であるが、技術を習得するに連れて、未熟だった時代の素朴さ、純粋さが失われていく。時に技術は初心を忘れさせる障壁となる。この障壁に四方を囲まれてしまっているのが「現代社会」である。

 技術は人を驕らせ、物質主義に陥らせ、初心であった霊性を軽んじるようになる。
 どうしてピアノが上手いのに大成できないのか?
 どうして絵が上手いのに売れないのか?
 ピアノが上手い人など、世界に数百万人いるからだ。絵が上手い人など、世界に数千万人いるからだ。ピアノが上手い、絵が上手いは、いわば「十」なのである。
 「十」で止まっているならば、学校で講師をやれば良い。

 「十」から「元のその一」にかえることができた人が、真の「芸術家」として大成し、後世に名を残すことができるのだ。

 (略)

 ここが一流と二流の間に厳然と存在する「超えられない壁」なのである。
 第一級の芸術家が作品を作るとき、「十」持っている技術を、”あえて”「元のその一」にデチューンすることによって、そこに魔力が存在するのだ。
 下手な人が下手に描く絵と、上手い人が下手に描く絵ではまったく違うのだ。

 「十」と「元のその一」の間にあるものを、「余力」や「マージン」と呼ぶ。さらに純和風な表現をすれば、それは「行間」とも言い表すことができる。
 「行間」とは何か?
 これは「言わずもがな」の不文律の部分である。楽器で言えば、「あえて弾かないことで弾いた以上の効果を生む」部分である。音を出してこそ価値があると思われる楽器であっても、音を出さないことで、音を出す以上の表現ができるのだ。
 これこそまさに「行間」であろう。

 高度な芸術作品においては、”あえて”の部分が多くなってくる。”あえて触れない”、”あえて描かない”、また逆に、”あえて余計な部分を入れる”こともある。それぞれ、クリエイターの匙加減ひとつで決められることだが、この匙加減ひとつの選択こそが、数多の芸術家の中から本物を見極めるための試金石となる。
 大多数の人々が考える「予定調和」の結末を、”あえて外す”ことによって、他者との違いを顕示させることも多くある。「外しの美学」が許されるのは、第一級のクリエイターだけである。

 そもそも芸術作品とは「余計なモノ」である。この世に芸術作品などなくても、人類の存亡にはまったく影響は与えない。壁に絵が飾ってなくとも、会社の業務には何の支障もない。
 そんな「余計なモノ」である芸術作品だが、私たちの生きる世界から芸術作品が一切なくなってしまったとしたら、これほど空虚で味気のない、つまらない世界はないだろう。
 私たちの社会、そして一人ひとりの人生には、じつは芸術は欠かせないものなのだ。いや、むしろ、この世は「余計なモノ」で構成されていたのだ。

 生命維持のみを考えるのであるならば、人は毎日の食事のメニューに頭を悩ませる必要などなく、点滴とサプリメントだけで生きていけるだろう。しかし、「そんな人生嫌だ!」と思う。そう、私たちが毎日食べている食事からして、すでに芸術なのだ。

 「美味しい」と感じ、楽しく食べる、その瞬間がすでに芸術なのだ。私たちは、ベッドに括られて、点滴を受けながらただ呼吸して、排泄しているだけの存在ではない。喜怒哀楽という感情をもって、楽しいこと、苦しいことを繰り返しながら、それでも幸福を求め、どこかわからないゴールを目指して日々暮らしている。
 毎日、ほとんどが「余計なこと・もの」で占められているのだ。
 つまり、じつは私たちの生活、そして人生そのものが、「芸術」そのものであったのだ。

 私たちの人生とは、まさにほぼすべて「余計なこと」で満たされていた。
 人が本来「神」であり「宇宙」であるならば、最初から完成形で完結した存在であるならば、人生など無駄なことである。しかし、私たちは毎日、人と出会い、接し、感動し、涙する。

 これは一体何だろうか?

 人を構成する最小単位、素粒子のさらに極限は「ロゴス」である。人体、そしてこの三次元現実世界を築き上げているものの極限は、すべて「ロゴス」という「言霊」である。
 「ロゴス」とは「プログラム・コード」のことである。
 ならば、私たちの身体は、そもそも「物質」ではなく、言霊でできているのだ。つまり、人体も、この世界もすべて、実体のない「幻」なのである。
 「幻」である、この世界の中で、私たちは日々、泣き笑い続けている。しかし逆の見方をすれば、「幻」であるならば、その幻をいかようにするのも、本人の自由だということである。
 そこで、ここに「イマジネーション」が登場するのだ。

 今、私たちの目の前に展開される、すべての世界は私たちが無意識に思い描いた世界である。63億人の人類が、各々思い描いた世界の最大公約数が均衡しているのが、この世界である。
 物事には、「全体」と「部分」がある。「全体」が63億人の最大公約数であるならば、「部分」は、個人そのものの思い描いた結果である。この「全体」と「部分」が同時に共存しているところが、この世が「多次元世界」であることの証でもある。
 この奇蹟的な調和を見ても尚、私たちは、自らの生きるこの世界を思い知ろうと思わないし、科学技術で測定しようとしている。
 三次元現実世界は、定規で測ることができるが、多次元世界は測定できない。これは宇宙の必定である。
 「部分」が「全体」を構成し、また同時に「全体」が「部分」を構成するという図式は、まさに「フラクタル・パターン」である。

 「科学」は、理論と計算によって、神の世界を測定しようとするものである。「宗教」とは、神の世界の中から、物理的普遍の法則を見出そうとするものである。アプローチの方法が違うだけで、じつは両者は同じなのだ。

 「科学」と「宗教」は、互いを罵るべきではない。
 同根であり、同一存在の別局面であるに過ぎないからだ。
 この最大の「二元性」の代表ですら、こんにちまで人々は、整理できずにいる。「幻」の中で、右往左往する人類が、真のアセンションを迎え入れるまでには、これからまだ相当量の修練が必要となるだろう。
 「修練」というのは、修行のことではない。修行とは、双方向通信、つまりインターネットが普及する以前の旧時代における多次元世界とのアクセス法のことである。
 現代における「修行」とは、私たちが毎日やっているインターネットのことである。多次元世界へのアプローチ、そして、多次元世界からの情報のダウンロードなど、私たちは、じつは毎日、厳しい修行と同等か、それ以上の修行を無意識に行っているのだ。


 このように、日々の何気ない「行動」の裏に、じつに多次元的な意味が隠されていることに気づくべきである。
 単なる「三次元的な行動」の裏に「多次元的な意味」があることに気づくこと。ここに気づくことを、「行間を読む」というのだ。自らが行う行動の狭間に多次元が呼吸しているのだ。
 日々の私たちの行動を「行」(ぎょう)といい、そして、その「行」の「間」(あいだ)、つまり、見えない世界を「おもいみる」ことを「行間を読む」という。
 そして、「おもいみる」とは、漢字で「惟る」と表記する。
 見えない多次元世界について、筆者は「神の世界」や「宇宙」と表現している。つまり、「神の世界」を「惟る」という行為、そして、そういった生き方を、「惟神」(かんながら)というのだ。
 さらに、こうした「惟神」をもって、三次元世界を生きていく人生の選択を、「惟神の道」というのだ。
 さらにさらに、多次元世界、神の世界をおもいみて、自己と他者の間の障壁を乗り越え、自他同然の只中に自己を据えることができたならば、その境地を、これまた「随神」(かんながら)とも言い表すことができるだろう。

 「惟神の道」とは、聖地を訪れ、自己流の祝詞を奏ることではなく、また、天使と自称して、他人に余計なお世話を働くことでもない。自らが生きるこの煩雑に思える三次元現実世界の中に、精妙な多次元の息吹を見出す、本来ならば、日常ありふれた光景であり、そしてそれはじつに繊細な行為でもあるのだ。

 「言霊の世界」をもっと身近にし、そしてもっと活用していただきたい。
 日本語の言霊は、世界の謎を解く「鍵」だからである。
 多次元世界にある「黄金のUNTI」から降ろされた多次元情報は、一旦「日本語」を経由してから、世界中の諸言語に変換されて、各国に降ろされていくのだ。
 「古代、日本語が世界共通語だった」といわれるが、これは一部正解で、一部誤っている。
 今、この瞬間、まさに日本語は世界言語の雛形なのだ。決して「古代」の話ではない。

 多次元世界から下ろされた多次元情報の、もっともピュアなエッセンスは、まず日本語を経由する。だから、世界各地に日本語にそっくりな表現や単語が存在するのだ。
 今リアルタイムに降ろされる多次元情報の謎の解釈に日本語が深く関わっているのだ。だから、超古代の文明の謎を、現代日本語の言霊が難なく解いてしまうし、現在、世界を賑わせるニュースの解釈にも、日本語の言霊が威力を発揮するのだ。
 「言霊」の力は時代を問わず、まさに「普遍」であり「不変」なのだ。


 その「言霊」の故郷の国である日本に、私たちは生活しているのだ。そのことの重大性にそろそろ気づいてもいい頃である。
 人の身体も、すべての環境も、すべて「言霊」で出来ていると書いたが、それはつまり、森羅万象は「日本語の言霊でできている」ということである。
 すなわち、「宇宙」も「神」も、日本語の言霊でしか、その謎を解き、秘密を解明していくことはできない、ということである。

 - これは、驚天動地の真実である!!

 つまり、これから起こる「旧」と「新」の入れ替えに伴う大変動の中で、人類史の謎が次々と解かれていく流れの根幹には、日本語の言霊を用いるニュータイプが「活動の場を見つける」こととなるのだ。
 これが、「日本は世界の雛形」の、具体的な意味である。
 封印されてきた世界の謎を、ことごとく、瞬間的に解き放っていく様は、まさに圧巻となるだろう。
 新しい時代を生き抜く人とは、「神によって選ばれた人物」では決してない。選民思想と優越感と、サバイバル意識を想起させる甘い言葉は、すべて「トラップ」(罠)である。
 新しい時代を生き抜く魂かどうかは、誰かが選び、指名するものではなく、一人ひとりの意識が、自らの生きる道を、自らの意志によって、選択していくのだ。

 
 「本当のスピリチュアル」を知らない人は、言霊の力を知らない。言霊の力を知らないのだから、言葉を気安く軽んじている。
 しかし、軽んじて用いた言葉にも言霊はある。言霊があるということは、そこに「力」が働くということである。
 歯の浮くような大言壮語を、まるで息をするかのごとく吐く者がいたとしたら、これからの時代においては、大成し得ないだろう。
 その者の心の「本意」と、口から発せられた言霊との間に、ギャップがあったとするならば、そのギャップに「見えない請求書」が届けられるだろう。
 そして、現代は、軽んじて発せられた言葉に対しても、きわめて少ないタイムラグにて、現象化するため、口先で人を欺こうとしても、欺く前に、自らが自らの心を欺いたことを思い知らされることとなる。
 私たちは、毎日、人に会い会話をしたり手紙を書いたりする。
 何気ないひと言にすら、言霊が作用しやすい多次元的な世の中となってきた。殊更に「真心」を込める必要はない。適切な日本語を適切な場所にて適切に用いることが重要となる。

 しなやかで語彙に富み、芸術的に美しい日本語を、ユビキタス状態で自在に駆使できるようになり、この三次元現実世界に、明確なる奇蹟を起せるようになれば、あなたも立派な「言霊遣い」である。
 じつはこれが「魔法」である。「マジック」である。
 文字と文字の間にある、多次元のスイッチを突き作動させる。
 これが「マジック」(間字突く)の言霊である。
 2010年、人は「魔法使い」となる - !? 』

 つづく
 

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あるフラッシュにて・・・

先日、あるフラッシュに出会いました。

 それは1998年にデビューした競走馬セイウンスカイ。

 そのフラッシュの内容は、セイウンスカイという競走馬に出会ったいち競馬ファンの青年と、その友人との思い出話でありました。

 ・・・それを見ていて、何故かしらその内容と溶け合うように幕末の時代に次の時代を夢見ながら見ずして散った多くの志士たち、・・・そして龍馬を感じました。
 
 ・・・別に国を変えるとか、新しい社会を築くとかいったものではなくて、どこにでもありふれた庶民的な出来事でした。
 でも、その競走馬に惚れこんで急逝した青年と友人とのエピソードは胸をジーンとさせると共に、熱き時代に思いを馳せさせてくれたのです。

 よろしければご覧下さい。

http://www.omosiroflash.net/seiun.htm

 

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坂本龍馬と終末期の日本 1

1月3日、ホントに久しぶりに食い入るようにテレビを観せていただきました。
 NHK大河ドラマ「龍馬伝」が始まったからです。

 今年のUNOCLUBのテーマは今回の日記のタイトルと同じく、坂本龍馬がメインとなり、「坂本龍馬と終末期の日本」と題して、4回セミナーが行われる予定です。

 その第一講は3月に入ってからになるようですが、どうも新型インフルエンザの雲行きが怪しく、もしかしたら来月に強毒性が猛威を奮うとの情報があって3月からになったようです。
 しかし、どのような状況になろうとも、その中を突破していきたいものです。

 さて、「龍馬伝」の第一回は「上士と下士」というタイトルでした。
 そして、明治時代、岩崎弥太郎の回想からそのドラマは始まりました。
 
 小生は一度だけ高知へ行ったことがありました。
 それは8月の真夏のことでしたが、初めて訪れた土佐の桂浜、その景色は素晴らしく目の前に広がる太平洋を眺めては、龍馬が憧れた海の向こうが遙か彼方であることを思い知らされ、龍馬の凄さを実感しました。
 たった数隻の黒船、彼の情熱の炎はそこから生まれますが、一介の下級武士でありながらも、龍馬は夢と真っ向から向かい合うのです。
 電車も自動車もない時代に彼は北は東北青森から西は九州に至るまで、自分の足で駆け巡るのです。

 そしてそのような思いに駆り立てさせる意志の強さや行動力は、幼い頃に死別した母からの愛情にあったのでしょう。

 「龍馬伝」の第一回はその母の愛情が最後ににじみ出ていたように感じました。
 
 泣き虫で弱虫の幼少時代、しかし母上はそのような龍馬に対して、深い愛情を持って接していました。
 そして、龍馬が上士を憤慨させるような出来事を起したとき、病床に伏しながらも、龍馬が連行された上士の屋敷へと向かい、捨て身の覚悟で上士と対峙し、龍馬の命を守るのです。

 そして、その後、母上は帰らぬ人となりました。

 それから歳月は流れ、龍馬は同郷である郷士の岩崎弥太郎と出会います。
 幕末の時代の原動力は薩長土、その中でこの土佐藩だけは、武士の中に大きな差別が存在しました。
 龍馬をはじめ、岩崎弥太郎、中岡慎太郎など、その多くはかつて四国を治めていた長宗我部の遺臣でありました。
 しかし、関が原の戦いで破れたために徳川幕府はその後釜に山内一豊を高知へ送り、土佐を治めさせたのです。
 しかし、彼らは幕末の時代においても、長宗我部の遺臣であり続けたからであるのですが、桂浜に至る途中にその霊を慰めるかのように、一領具足の碑がありました。
 私は、ここで決して曲げない彼らの意志を感じた次第でありました。

 そしてドラマの終わりに弥太郎が上士に対して、憤激を抑えきれず、刀に手をかけたときでした。
 そのとき、龍馬がかつて母上から学んだように、捨て身の覚悟で岩崎弥太郎を説得し、そして彼をかばうのです。

 その中で、龍馬は告げました。
 ・・・「恨みからは何も生まれない」。

 
 小生は、この龍馬が放った言葉に、大きな感動を受けました。


 終末期の時代、それはイエスを十字架に追いやった人々の恨みから生まれたものであります。
 彼らはそのため2000年という気が遠くなるような歳月を費やして、その恨みをエネルギーに変えながら野望を実現させようとしているのです。

 そこから何が生まれるのでしょうか。


 かねてより、古代ユダヤ人が日本にいるお話を何度も何度もさせていただきましたが、幕末を動かした薩長土の人々は古代ユダヤ人に所縁のある人々でありました。

 彼らは大きく分けると三度に渡ってこの日本にやって来たことが密かに伝えられています。
 最初は騎馬民族スキタイによって、主に東北地方に渡って来ており、その後、今度はユダヤの最大の宝とされる契約の箱を携えて、黒潮に乗って淡路に至り、そして阿波にやって来ました。
 そして最後に渡って来たのは、シルクロードを何百年と移動しながら、この日本にやって来た、秦氏と呼ばれる人々でした。

 そして日本にいるとされる古代ユダヤの人々と終末へ向けて、その野望を果たそうとするユダヤ人、彼らは同胞でありながら、イエスというフィルターを通すと正反対の流れであることが分かります。

 そして小生は単なるドラマではありますが、そのような事柄を思いながら、このドラマを観させていただき、龍馬が弥太郎に言った言葉や、龍馬の母上が語られた言葉に大きな重みを感じました。

 「恨みからは何も生まれない」

 

 ・・・桂浜には太平洋を眺めるように坂本龍馬像が立っています。これは昭和3年に建立されたものですが、その台座には「高知県青年」と刻まれており、そこには龍馬の志しや生き方に感銘を受けた、高知の人々の気持ちが表されていると思います。
 しかし、同じ土佐でも、足摺岬に立つ、中浜万次郎にはそのようなものが伝わらないのです。 彼の片方の手にはコンパスと三角定規が握り締められているからです。
 これはフリーメーソンという秘密結社のシンボルであるのですが、両者にはその接点があったことは事実でした。

 しかし、その龍馬像を知ることで、龍馬は彼らの意のままにならなかったことが理解出来ると思われるのです。 

 最後にUNOCLUBでは司馬遼太郎氏の隠された視点として、古代ユダヤのヒーローとして坂本龍馬が取り上げられるそうです。
 また、このタイトルで日記にしたいと思います。
 多分3月になろうかとも思います。
 

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終末論とは何か 4

そのようなユダヤ人の宿命といえるものに対して日本にいる古代ユダヤの人々は彼らとは異なります。

 それはイエスの十字架刑以前に祖国を離れた人々、そして紀元後に日本にやって来た秦氏と呼ばれる人々はイエスを受け入れた人々であったからです。ですからイエスに対しての憎しみを一切持たない人々なのです。

 しかし、その日本にいる古代ユダヤの人々も彼らと同じように祖国の地に帰るときがやって来ると思われます。今は考えられないことではありますが、モーセはそれを次のように述べていることから窺えるからです。

 「あなたの神、主は、あなたを捕われの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す」(旧約聖書「申命記」30.3~4)

 しかしその地は今のイスラエルではありません。
 本当の旧約聖書の舞台であった地は、今は砂漠化したサウジアラビアのアシールという地であって、そこに帰ると告げられているのです。
 そして、そのときその地は緑溢れるようになるとも告げられているのです。

 「あなたの神、主はあなたの先祖たちが所有していた地にあなたを連れていき、あなたはそれを所有する。主は、あなたを栄えさせ、あなたの先祖たちよりもその数を多くされる。
  あなたの神、主は、あなたのすべての手のわざや、あなたの身から生まれる者や、家畜の産むもの、地の産物を豊かに与えて、あなたを栄えさせよう。まことに、主は、あなたの先祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる」(旧約聖書「申命記」30.5~9)


 つまり、イエスがエルサレムで語った先ほどの言葉、それはユダヤ人が心を低くし、イエスを受け入れること。実はこれこそが終末というべきものではないでしょうか。
 終末とはユダヤ民族が元の姿になること。イエスに逆らい、神に反逆したユダヤ人が本来の選民の心に戻るということなのです。
 そのために人類の長い歳月が必要であったのです。そして彼らは多くの苦しみを受けなければならなかったし、これから第三次世界大戦を含めた大いなる艱難を通らなければならないのでしょう。
 このことを指して終末と言っていると思うのです。

 たしかに終末は大きな試練ではあります。しかし、それは世界が糺されること、本当のユダヤ人の心が正常な心に戻ることをいうのであります。
 そのことをイエスは2千年前に預言されていたのでしょうし、私たちは聖書を通して、その流れを知ることができるものであるのです。

 このようなイエスの預言の言葉の立場から、今日の中東情勢や世界の動きを見ると、どのような解釈になるのでしょうか。

 思えばなぜイスラエルという国が1948年に建国されたのでしょうか。そして建国の後、なぜ本当のユダヤの人たちは戻るようになったのでしょうか。
 それはイエスが彼らが悔い改める場所は明確に「エルサレム」であると述べたからです。
 そして1967年6月、第三次中東戦争によって、その当時のイスラエル指導者たちは全力でイスラエルの国家を防衛して、その結果としてエルサレムを奪還しました。
 イエスの言葉を思い出すとき、本当のユダヤ人が悔い改めるための舞台装置がこのとき完成に近づいたのです。

 そして今日、ユダヤ人に対する評価やイスラエルに対する評価は、以前とは全く異なってきています。
 どうしてナチス・ドイツにやられた民族がこのようにパレスチナ人を苦しめ続けるのか、なぜ占領下に置かれているパレスチナ人にイスラエルは占領地を返さないのか、彼らの先祖の地を返還しないのか、さらには食糧や水を止めて彼らを苦しめ続けているのか・・・。
 ユダヤ人たちはその歴史の中から何も学ばないだけでなく、彼らが痛めつけられたと言い続ける歴史は単なる作り事ではなかったのだろうかという声も出るようになってきているのです。

 そんなことを考えてみると2千5百年前のゼカリヤの預言も近未来に起きるのではないでしょうか。
 
 「見よ。わたしはエルサレムを、その周りのすべての国々の民をよろめかす杯とする。ユダについてもそうなる。エルサレムの包囲されるときに。
  その日、わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。すべてそれをかつぐ者は、ひどい傷を受ける。地のすべての国々は、それに向って集まってこよう」(旧約聖書「ゼカリヤ書」12.2~3)

 しかしだからと言って、ユダヤ民族が消滅することはありません。神は彼らを救う。神はユダヤ民族をその試練の中でも滅ぼさないと預言されているのです。
 
 「主は初めに、ユダの天幕を救われる。それは、ダビデの家の栄え、エルサレムの住民の栄えとが、ユダ以上に大きくならないためである。
 その日、主は、エルサレムの住民をかばわれる。その日、彼らのうちのよろめき倒れた者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになり、彼らの先頭に立つ主の使いのようになる」(旧約聖書「ゼカリヤ書」12.7~8)

 そして、彼らがその試練の中で、まさに危機一髪の時にイエスを救世主として受け入れることを預言しているのです。

 「その日、私は、エルサレムに攻めてくるすべての国々を探して滅ぼそう。わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵と哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く」(旧約聖書「ゼカリヤ書」12.9~10)


 上記の預言がゼカリヤになされた5百年後、ユダヤ民族はイエスを十字架刑に送り、彼を釘で突き刺しました。そしてここで「彼らは自分たちが突き刺した者」と同格にして「わたしを仰ぎ見る」と述べられたことは、その突き刺された者が自らを指して「わたしを仰ぎ見る」ということになるのです。
 つまり彼らが刺し通した者こそが、「わたし」すなわち「ユダヤの救世主」であることがここで預言されていたのでした。

 そして近い将来、世界注視の中で、エルサレムにおいてこのことが起きるものとなるのでしょう。
 その衝撃の中で、ユダヤ人たちは「ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く」と述べているのです。
 ユダヤ民族の2千年にもわたる苦しい歴史を、彼らはあたかも走馬燈のように思いだしていくのであります。

 ・・・はたして彼らが最大の絶望に陥るとき、エルサレムの東にあるオリーブ山に復活したイエスが現れるのでしょうか。そして彼らはそのとき彼らの先祖たちがイエスの手と足に打ち込んだ釘の痕を見るのでしょうか。そのときどのようなことが起きるのかは、私たちは想像でしかわかりませんが、ゼカリヤはそのことを告げているのです。

 ゼカリヤはユダヤ人たちが断末魔の叫びの中で、歴史の終わりに自分たちの救世主を仰ぎ見、同時に自分たちの歩んできた言葉を超えた苦難の歴史を思いだしながら、ひとりで泣くと預言したのです。


 「その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハタデ・リモンのための嘆きのように大きいであろう。
 この地はあの氏族もこの氏族もひとり嘆く。
 ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。
 ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。
 レビの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。
 シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く」(旧約聖書「ゼカリヤ書」12.11~13)

 ここに「メギドの平地のハタデ・リモン」という言葉があります。
 これが一般にいうハルマゲドンであるのでした。ハルマゲドンは新約聖書の「ヨハネの黙示録」に出てくる言葉であります。
 そして全世界の軍隊がハルマゲドンに集まって白兵戦を展開します。それは世界歴史最大の悲劇であり、最大の叫び、苦しみなのです。

 そして、その後、生き残ったユダヤ人がエルサレムに集まる。これはゼカリヤが告げています。その時ユダヤ民族の一人一人が心から打ちひしがれ泣き崩れてしまうのでしょう。
 そしてこれで終末は終わりを告げ、新しい時代の始まりとなるのです。


 終末論は決して脅しではありません。また終末論は宗教の言葉として使うことはいけないのです。
 しかし、世界は現実的に終末の時代に入っています。

 ですから、終末論は聖書という最古の書物である最大の情報源の預言成就を指すものと捉えるべきであるのでしょう。 
 

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終末論とは何か 3

イエスは彼らの過ち、それは旧約聖書の基準からして、どれだけ離れたものであるのか。
 もはやそれは選民といえるものではなく、かえって神の名を汚すだけの民族に成り下がってしまったことを痛烈に批判したのでありました。

 イエス在世当時には、すでにユダヤ教の階級が出来ており、ユダヤ教の宗教組織は強固なものになっていました。そして、そのユダヤ教の指導者たちをパリサイ人、あるいは律法学者と呼んだのでした。

 彼らはタルムード的発想で旧約聖書を解釈し、ユダヤ人たちにその誤った解釈を教え込み、そしてユダヤ民族は選民なるがゆえに他の民族とは全く異なったものであるという思想を広めていったのでした。
 そのためにイエスと律法学者、パリサイ人との衝突が幾度も繰り返されていったのです。

 その詳しい内容は新約聖書の「マタイによる福音書」23章に述べられています。
 イエスが真実を語り、イエスが彼らを糾弾すればするほど、彼らは怒りに燃えて、そしてやがて彼らは組織を組んで、そしてローマ帝国の出張所であったエルサレムの総督府にイエスを訴えることでイエスをなきものにしようと企むのでした。

 「忌まわしい者だ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にする」(新約聖書「マタイによる福音書」23.15)

 イエスがこれを語ったのは紀元30年頃になるのでしょう。このときイエスはそれから約千年先のことをまるで見通していたかのようであることが分かるのです。
 ここに出てくる「改宗者」とは一体何を指すのでしょうか。
 これこそがカザール人であり、アシュケナジー・ユダヤ人のことであったからです。彼らはゲットーの時代を過ぎて、ヨーロッパ各地で、アメリカで自由を獲得し、そして、彼らは金融的拠点としてニューヨークのウォールストリートに絶大な力を及ぼします。また、アシュケナジー・ユダヤ人はアメリカの金融や株式市場だけではなく、その政治、経済、社会などに大きな影響力を持ち、多くの弁護士、会計士、税理士、などを輩出し、マスコミにも大きな影響力を高めていくのです。
 日本とアメリカのつながりを思うとき、近年ではバブル崩壊が挙げられるのでないでしょうか。それは彼らによってもたらされたものであるからです。
 すなわちイエスが告げたようにアシュケナジー・ユダヤ人は倍も悪いゲヘナの子となった者であることが、これらのことから窺い知ることもできるからです。

 このようにまさにカザール人が受け入れたユダヤ教はタルムードそのものでありました。したがって今日でもアシュケナジー・ユダヤ人の多くは旧約聖書を全体として読んだことがないのであります。

 このようなことから、世界に広がっているユダヤ教は本来のものでは決してなく、完全に宗教化し、タルムード化した恐るべきものであることがわかります。

 それをイエスは2千年前、いわば今日の世界の思想、政治の根底をも見抜き、かつ警告を与えていたことが分かるのです。

 再度、話を終末論に戻します。

 イエスはそのマタイによる福音書23章の終わりに、そのようなパリサイ人、律法学者たちに向って不思議なことを述べています。
 またイエスがそれを語った場所は、エルサレムでありました。
 そして、彼はエルサレムに住むユダヤ人が神に立ち返り、元の旧約聖書の教えに戻るように尽力したのでありました。しかし彼らは、イエスの言葉を拒否したのです。

 イエスはそのことをめんどりがひなを翼の下に集めるように、集めようとしたが、それを拒んだというふうに述べています。
 その結果、ユダヤ人はエルサレムから全世界に散らされること、そしてエルサレムは荒廃した状態で置いておかれることを預言したのです。
 しかし、イエスはそれだけではなく、再びエルサレムが全世界から注目されるようになり、そしてその頃には本当のユダヤ人たちが多くエルサレムの地に帰ってきていることをも預言していたのでありました。
 そして彼らは多くの苦難を経て、大惨事をも含む大きな苦難の後に、イエスがユダヤ人にとっての救世主であることを認めざるを得なくなると預言したのでありました。

 「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
  見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたまま残される。
 あなたがたに告げる。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはない。」(新約聖書「マタイによる福音書」23.37~39)


 ・・・この最後の部分はいったい何を語るのでしょうか。
 ユダヤ人たちがイエスをローマ帝国に訴え、無実の罪で十字架に追いやった。そして、彼らは自分たちの目的を果たすことができたと思うかも知れないが、必ず彼らの口にして「神の御名によって来るものに祝福あれ」と言うときが将来必ず来るとイエスは預言したのであります。
 イエスはやはりユダヤ民族の救世主であり、旧約聖書で預言されていたとおりの救世主であったことを認めると断言したのでありました。
 したがって、ユダヤ教徒は今日に至るまで、イエスの十字架を認めても、イエスの復活を完全に拒否しているのであります。
 日本人はイエスの復活を述べるとき、あり得ないと簡単に考えるでしょう。しかし、欧米の多くの人々は新約聖書のその当時のイエスの復活の状況について書かれたその言葉を点検しながら、その上で、イエスの復活について今も議論しているのであります。
 しかし、ユダヤ教徒はイエスの復活があるならば、それは自分たちの誤りがすべて露呈することに繋がります。さらに将来において、イエスのこの預言が自分たちに対して成就することにもなってしまうので、今も拒否を続けることしか出来ない環境となってしまっているのであります。

 日本人の多くは無神論者であるといいます。
 しかし、この無神論というのは天地の創造主を指しているので決してなく、日本人のいう無神論は、自分たちの考える神々があるかないかといっているのだと思われるのではないでしょうか。
 古来、日本人は大きな山、大きな木、そして大きな岩など、さらには人間をも神々としてきた歴史があります。
 それと創造主なる神とは全く異なっているのであります。宇宙には完全な数学的秩序があります。そのような無限に広がりのある世界から目に見えない細胞の世界にも完全な秩序が存在しているのです。

 これはどうしてできたのでしょうか。

 はたして偶然なのでありましょうか。

 それとも造物主が造ったのでしょうか。

 この議論の果てにおいて、創造主なる神がいるとか、あるいはいないと論じているに過ぎないのです。

 モーセは今から3千5百年前、「申命記」という遺言書を残しました。
 これはユダヤ民族の一つの離散バビロン捕囚が起きるよりも、千年近く前に書かれた預言書であります。

 「主は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。あなたはその所で、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった木や石の他の神々に仕える」(旧約聖書「申命記」28.64)

 すなわち、古代ユダヤ人が神によって全世界に散らされる(バビロン捕囚以前にアッシリア帝国によって多くのユダヤ人はその祖国を追われ、なお騎馬民族スキタイによって、東方に連れて行かれ、日本に定着した人々もいました。さらに契約の箱を持って日本に向ったユダヤ人たちもいたと思われます)ことをモーセは預言し、さらに彼らが「あなたの先祖たちも知らなかった木や石の他の神々に仕える」と述べていたのでありました。

 日本で行われていること、すなわち日本人の頭の中にある神々の思想は、今から3千5百年前にモーセによって預言されていたとおりのことであったことが、これらから分かるものと思われます。

 またモーセはかくも告げました。
 「これらの異邦の民の中にあって、あなたは休息することもできず、足の裏を休めることもできない。主は、その所で、あなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、精神を弱らせる」(旧約聖書「申命記」28.65)

 しかし、さらにモーセはこのように祖国を追われ、惨めな状態になり、恐怖に取りつかれるようになる古代ユダヤ人たちにも大きな希望があると述べていたのでありました。
 それが古代ユダヤ民族の祖国への帰還であり、真の解放であるのでしょう。

 今日、イスラエルにおいては先述したようにスファラディ・ユダヤ人、さらにミズラヒがそのイスラエルの地に帰ってきています。
 それは日本にいる古代ユダヤの子孫とは異なっているからであるのです。
 彼らは第三次世界大戦の激しい試練の中を通らなければなりません。なぜならば彼らの先祖こそが今から2千年前、紀元30年にイエスを十字架につけることを要求し、パリサイ人、律法学者たちと共にイエスを排除した人々であるからです。蒔いた種の実を刈り取らなければならなくなってしまったのです。
 このようにスファラディ・ユダヤ人とミズラヒは、あのイスラエルの地で激しい苦しみを、全世界からの艱難の苦しみを受けなければならない定めとなってしまったのです。

 つづく

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終末論とは何か 2

ノアの箱舟には、ノアとその妻、そしてノアの三人の息子とその妻たちが乗っていました。
 余談ですが私たち日本人は小さい”ふね”は舟と書きますが、大きなものは「船」と書きます。舟偏に八と口を書くのですが、口は人を指しているので、舟に八人が乗った様から「船」という漢字が生まれたものと思われるのです。これは不思議なことであります。

 さて、ノアには三人の息子とその妻たちがいました。そして、この洪水の後に人類は再び増え始めていくのであります。
 ノアの三人の息子の一人がセムと呼ばれる人物でありました。そして、このセムの子孫から2千年後に、アブラハムという人物が登場します。そしてこれが本当のユダヤ人の始祖の登場となるのでした。

 では何故神はアブラハムを選んだのでありましょう。アブラハムの時代にはすでに多くの人々が世界各地に住んでいたものと思われます。
 そして、そのときもまた人々は自由奔放の中で自分たちの欲望どおりに生きていた時代であったのでしょう。
 しかし、このような時代は言葉を換えると、善と悪との基準がなかった時代ということになるのかもしれません。
 そして神はその基準のない世界に基準を与えるために選民を定めたのではないでしょうか。
 そしてアブラハムの子孫の中から、やがてモーセが登場し、彼こそシナイ山で神との契約を交わす使命を帯びて「十戒」というものが生まれるのです。
 その中には神の目から見て、何が善で、何が悪か、それがはっきりと示されていました。また、どのようにすれば人間は秩序ある世界を作ることができるのか、多くの戒めが規定されていたのでした。

 今日、日本にも多くの法律があります。そしてその源流は明治以降、欧米からもたらされたものでありました。そして、ヨーロッパのなお源流は何かというと、ローマ帝国のものであり、さらなる源流はモーセの十戒へと及んでいくのであったのです。
 もちろんローマ帝国の前、ギリシャの時代にも法律はありました。しかし、ローマ帝国の法律に強烈な影響を与えたのは本当のユダヤ人でありました。なぜならば紀元70年には彼らはユダヤ人たちを国家もろとも滅ぼし、世界に散らしたからであります。そしてユダヤの思想はそのままローマ帝国の法律となって生かされたと言っても過言ではないといえるのです。
 そして、ヨーロッパの歴史の中にはモーセの十戒を源流とする善悪の基準が脈々と流れていくようになったのでした。
 
 これがアブラハムの、すなわちユダヤ人が選民とされたことの一つの目的であったのです。
 法律だけでなく、人類の生き方、また政治の仕方、商売のやり方などなど、そして何よりも唯一の創造主なる神を崇める信仰を他の民族に良き模範として示せるようにという使命を帯びていたのであったのです。

 しかし、紀元前586年、バビロンによってユダヤ国家が崩壊したとき異変が起きたのです。
 ユダヤ人がバビロン捕囚となったとき、彼らは大いなる絶望感を抱き、創造主なる神が自分たちを選民として選んでいるならば、どうしてこのような異教徒であるバビロンによって国家を滅ぼされ、奴隷とならなければならないのか。そのような彼らの神への不平、疑問はやがて神への不信仰と至っていったと思われるのです。

 しかし、ここでバビロン捕囚を考えたとき、その原因はユダヤ人自身にあったということでありました。
 実はモーセは十戒だけではなく、多くの戒めや預言を神から与えられていたのでした。そしてそれらは旧約聖書の「出エジプト記」、「レビ記」、「申命記」にまとめられているのです。
 彼らが神の戒めを破ればどうなるのか、また逆に神の戒めという基準を守るならばどれほど幸せになり、全世界の人類に対して模範となり得るか、などが詳しく述べられていたのでした。
 それでも彼らは神に逆らい、神の戒めを無視して、自由奔放に生活していったのです。さらに彼らはますます神の戒めから離れて、選民としての役割を果たすことが出来なくなってしまっていたのです。

 旧約聖書の中には「列王記」、「歴代誌」という歴史書があります。
 そこにはその当時の歴史が、そして彼らが世界に散らされなければならなかったことの理由が詳しく述べられているのでした。
 ですから彼らは神への反逆の結果として、すなわちモーセが神から与えられた契約の結果としてバビロンへの捕囚になってしまった理由を見ることが出来るのです。
 そして、彼らはその時点でも神の前に心を低くするどころか、自分たちの過ちを認めることはありませんでした。さらなる神への不信、神への不服となって反逆を始めるに至るのです。

 そのようなとき、彼らの目に留まったものが、バビロン帝国において行われていた数々の悪い習慣でした。そしてその中に最も恐ろしいバビロンの宗教があったのです。

 バビロンこそが全世界を支配する。そのためにはどのような手順と謀略が必要か、彼らはそれに心が捕われてしまったのです。そして、バビロン宗教によって、後に旧約聖書を解釈するに至るのでした。
 
 この解釈の中から生まれた発想が、「タルムード」という本にまとめられていったのです。
 タルムードを読めば、どれほどユダヤ教徒が傲慢になってしまったかが分かります。そして自分たちこそが人間で、他の異教徒たちはすべてゴイム(獣)に過ぎないこともそこには述べられているのです。

 ・・・彼らの傲慢な思想、また他の民族を顧みることのない発想、欧米ではユダヤ人といえば、長きにわたって嫌われた歴史がありました。
 その結果として、彼らはゲットーといわれたユダヤ人居住区に押し込められてしまうのですが、すべての原因となったのはこのバビロン宗教の受け入れにあり、その結果としての旧約聖書解釈であったのでした。

 そして、何度も書きますがやがて彼らは元の国に戻り、さらに歳月が過ぎていく中、イエスの登場に至るのでした。


 つづく

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終末論とは何か 1

 ・・・まず終末論とは何かについて考えるとき、私たち日本人は「世の終わり」を思い浮かべるのではないでしょうか。
 しかし、聖書的な発想で考えてみると、言い方がおかしくなりますが、それとは少し異なっているように思われるのです。

 では、終末とは何を示しているのか。
 その第一はユダヤ民族の回復のことを指しています。
 
 しかしここで大事なことがあります。
 それは大きく分けて二種類のユダヤ人と言われる人々がいること。そして一方が本物で、もう一方はニセモノであるということなのです。

 ではどのようにして本物とニセモノを見分けるのか。それは新約聖書、旧約聖書を通じて登場するユダヤ人が本物であるということです。
 結局それは、アブラハム、イサク、ヤコブの血統の流れを受け継いできた流れを指しています。
 本来、ユダヤ人とはアジアの人々、それもアジアの西の方にいた人々で、その先祖は今から約4千年前の人物アブラハムであり、その子がイサク、その孫がヤコブであったのです。

 多くの人々は今日においてユダヤ人といわれる人々がすべてアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるかのように考えています。しかしそれは偽りなのです。

 例えばイスラエル国家は1948年5月に建国されました。この建国のために尽力したのがアシュケナジー・ユダヤ人といわれる人々でありました。そしてイスラエルの初代首相はベングリオンでありました。
 このベングリオンはアシュケナジー・ユダヤ人で白人でありました。
 アシュケナジー・ユダヤ人の先祖は今から千年以上前に中央アジアにいた人々の子孫であります。それは今日のカザフスタン近郊にいた人々であって、カザール人と呼ばれる民族であったのです。
 そして、彼らは外部からの圧迫で、ユダヤ教に改宗した人々でありました。ところが彼らはユダヤ教徒カザール人と名乗ならずに、皮肉にもユダヤ人と名乗ったのです。

 一方、本物のユダヤ人は西暦70年にローマによって散らされました。元もとのユダヤ民族は12部族、しかしこの時点ではすでに10部族は消え去っていて、ユダ族とベニヤミン族の2部族しかイスラエル(当時は南ユダという国でした)には残されていなかったのです。その2部族が散らされるのです。
 そして彼ら本物のユダヤ人はスファラディ・ユダヤ人と呼ばれて、イタリアのベニスにもいましたが、その本拠地はスペインに置かれていたのです。ですからスファラディ・ユダヤ人とはスペイン系のユダヤ人と言われるようになったのです。
 そしてスペインを後にして、北アメリカや南アメリカへ、そして北アフリカから中近東に移動するようになったのです。
 また、もうひとつのスファラディ・ユダヤ人の流れがありました。それは移動せずに中東に定着していた本当のユダヤ人たちでありました。
 彼らは主にイラクに定着し、ミズラヒと呼ばれるユダヤ人です。

 そしてスファラディ・ユダヤ人は今から2千6百年前、バビロン捕囚のときに連れていかれたユダヤ人の子孫でありました。
 バビロンとは今のイラクを指しますが、このバビロンがペルシャによって滅ぼされたため、そこに連れられたユダヤ人たちは、その時点で元の国に戻ることが出来たのです。これは紀元前のことです。

 話を元に戻しますが、この2部族のユダヤ人が西暦70年に、ローマによって散らされるのです。
 そして1948年、まさに気の遠くなるような歳月を経て、建国されることになったのでした。
 ところが、建国を果たしたイスラエル国家の中枢はアシュケナジー・ユダヤ人が占めていました。
 そして建国と共に散らされていた本当のユダヤ人たちも、徐々にイスラエルに集まって来るようになったのです。

 このようにイスラエルという国は表面的には一つにまとまっているように思われますが、現実的にはあたかも砂漠の砂のようにバラバラな存在であるのです。
 ユダヤ教といっても一枚岩では決してなく、様々な問題を秘めているのです。

 ・・・終末論に戻します。

 この終末論とは元々は旧約聖書からきているのです。ですから、終末論で問題となるのはアシュケナジー・ユダヤ人ではないということが分かります。
 ですから終末論は本当のユダヤ人であるスファラディ・ユダヤ人とミズラヒと呼ばれる人々のことがまずその対照になるといえるのでしょう。
 そしてユダヤ人(以後は本当のユダヤ人のことを指します)は選民であると言われています。
 ではこの選民とはどのような解釈をすればいいのでしょうか。
 それは造物主がこの世界を造り、最後に人間を造られたいうことから考える時、人間が神に代わって、この世界の秩序を保つようにと使命を与えられたのではと考えられるのではないでしょうか。

 このようなことから人間の知恵はその他の動物とは異なり、非常に優れたものであります。そして、人間は知恵とともに愛情も与えられ、多くの動物、植物をも心を込めて育てることが出来るからです。
 ですから、このような管理を行う立場に置かれたのではないでしょうか。
 しかし、人間の先祖は創造主なる神から離れ、与えられた知恵を自由奔放のために使ってしまい、後に失楽園となってしまったのではと思われるのです。

 そして歳月が流れていく中、そのような人間の自由奔放は、あらゆる悪、罪、汚れを充満させるに至っていったと思われるのです。

 神はこのとき、なおその中で神に従う者たちに、すなわちノアとその家族を救い、その他の者を裁いて消滅させることを計画されてしまうのです。これがノアの時代の大洪水であり、ノアたちが入って救われたノアの箱舟のことなのでしょう。
 そして旧約聖書の「創世記」6章以下には、このノアの洪水について非常に詳しく述べられています。私たち日本人はこれは単なる神話やおとぎばなしに過ぎないと思いがちですが、しかし、今日、その洪水や箱舟が科学的に検証され続けていることは事実なのです。

 例えば、多くの民族の歴史に大洪水がありました。あらゆる動物が一つがいずつ箱舟の中に入って助けられたという、その箱舟の大きさが旧約聖書には記録されています。
 箱舟とはスピードを出す必要はありません。大洪水の中で浮かんでいればそれだけで役目は果たせたのです。
 その箱舟の縦、横、高さの寸法は、そのまま今日の巨大タンカーと同じ比率になるのです。
 タンカーはゆっくりと動けばよいのですが、タンカーの目的はできるだけ多くの石油を積むということがその役割であるのです。
 船を造ったこともない、ましてや巨大な船など造ったこともないノアが、どうしてその箱舟のその比率を知っていたのでしょうか。
 ・・・そしてノアの箱舟は数ヵ月の間の洪水を経て、やがてトルコのアララテ山に漂着し、その後に水が次第に引いていくのでした。
 さらにその数ヵ月の間、動物はどのようにして箱舟の中で過ごすことができたのでしょうか。
 彼らは暴れなかったのか、そして食糧はどうしたのか。
 おそらくこれを解く鍵が、動物たちに備わっている「冬眠」だったのでありましょう。
 このノアの大洪水は今から約6千年前の出来事であったとされています。

 
つづく

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タイタニック号の真実 

前回の日記で映画「タイタニック」について触れました。
 それを詳しく述べられた記事を紹介させていただきます。

 『1912年4月10日、夢の超豪華客船と言われたタイタニック号がイギリスのサウサンプトンを出港した。
 これはタイタニック号にとっては処女航海であった。タイタニック号は大西洋を西に向かい、やがて氷領域に突き進んでいった。
 
 悲劇的な事故は、1912年4月14日、深夜11時40分に起きた。タイタニック号が氷山に激突したのであった。そして、約3時間後に沈没した。

 乗客乗員合わせて2223人、うち1517人が死亡するという大惨事に至ったのである。その後、多くの海難事故が起きたが、今もってタイタニック号事件は最大の海難事故なのである。
 これを世界のエスタブリッシュメントの意向を受けたキャメロン監督が5年間を費やしてリサーチした。そして、現在も3773mの海底に眠る船体を撮影したフィルムをはじめ、最新の視覚効果でタイタニック号の最期の数時間を再現したのであった。

 この映画には、刻一刻と進む沈没の極限状況に直面した人々のパニック、愛と別れ、サバイバルへの強烈な意志が、涙と感動のヒューマン・ドラマとして描かれているのである。
 では、映画「タイタニック」から読み取れるシグナルとは何なのか。それはここに乗船する人々の行為、その裏にある諸状況が、当時の世界の縮図であったということである。また、事件後約90年間が経過した世界が大きく変化しているはずであるのに、各国の映画を見た人々がそこに繰り広げられる種々の出来事の中に、現在にも共通するものを数多く見出すことが出来るのである。

 例えば、そこには華やかに着飾った一等乗客とともに、主人公ジャックのように新天地での希望や野望に満ちた三等船客たちも乗っている。特に、上級船客から見下されながら蠢いている人々である。
 運賃による乗客の差は今も継続されている。それこそグローバル・スタンダードの一つでもあり得て当然なのかもしれない。
 しかし、問題が起きる。三等船客は鍵のかかるゲートで仕切られているのである。タイタニック号が氷山に激突した後も、わずかの箇所にしかそのゲートは開かれることはなかった。それを自力で破って救命ボートに殺到した者には、制圧のためにピストルが向けられ殺された者さえあった。
 実際、タイタニック号の事故での生存者は一等船客が60%、二等船客は44%、三等船客は25%であった。
 では、先に救命ボートに乗ったはずの一等船客でも、生存者がなぜ60%なのであろうか。
 それはこの映画でも描かれているように、実際に女や子供が優先されたのである。そして男は残った。すなわち、この時代においてはまだ騎士道精神が残っていたのである。
 もちろん、三等船客においても女や子供が優先されたであろう。しかし、それでもなおこれだけの生存率しかなかったのである。
 
 このことは先にも述べたように、三等船客にはゲートが閉められ、かつ鍵がかけられていて、わずかに開いたところ、あるいはそれをこじ開けていった少数の人々が生存したに過ぎなかったからである。
 このことから私たちは何を読み取れるであろうか。
 1999年から数年かけて、世界は大変化、大混乱に陥る。その中においては核兵器も使用されるであろう。
 食糧危機も起きるだろうし、大規模なオイル・ショックも演出されるであろう。
 いわばタイタニック号が氷山に激突したようなパニックが世界的に起きるのである。その世界には一等船客もあれば、三等船客もいる。
 一等船客とは、すなわち氷山に激突した時からその情報を得ていた者たちである。すなわち世界エスタブリッシュメントとそれに協力する者たちといえるであろう。
 三等船客とは何か。それは発展途上の国々やその国民たちである。そして、世界エスタブリッシュメントたちに抵抗する者たちである。

 大パニックが起きるとき、すでにすべての識別が行われていることを暗にこの映画は示しているのである。このことはシグナルでなくて、いったい何であろうか。
 映画をご覧になった方はお気付きのように、男性の主人公はジャック、女性の主人公はローズ、彼らの熱い恋愛が展開される。それはもちろん架空のことである。
 このローズの母親は着飾り、コロラドの億万長者の夫人を新興成金と見下げるほどであった。しかし、実情は火の車で、娘を資産家に嫁がせることに活路を見出そうとしていたのであった。
 婚約者の若者も自己の目的を達成するためには、何でもする人物である。部下を使い、ジャックを宝石の窃盗者にでっち上げる犯罪を平気で犯す。さらにはカネで救命ボートが確保できないとなると、親にはぐれた三等船客の子供をとっさに抱きかかえ、救命ボートに乗り込むのである。子供を自ら助けるための手段に使うのである。
 私たちは、自己中心の金持ちのこの青年をどのように見ることが出来るであろうか。
 今日、世界最大の債務国は誰もが知っているようにアメリカである。
 しかし、同時に世界最大の軍事力を持っているのもまたアメリカである。
 アメリカはその軍事力を駆使して、世界で暴れまくり、自分たちの主張を思い通りに通していく・・・・この婚約者の若者の中に、現在のアメリカの状況を見よ、というわけである。


 しかし、これらのことのほかに実際のタイタニック号事件にまつわる、現在においても解けない謎が存在しているのである。
 
 まず第一に、この事件が起きる約15年前の1898年、モーガン・ロバートソンという人物が一つの小説を書いていた。その小説の名は「愚行」である。その内容は、豪華船が処女航海で氷山に激突し、沈没するというものなのである。あたかもタイタニック号遭難事件を予告しているかのごとき内容である。
 その船は北大西洋で事故に遭い、乗客数も速力もほとんど同じなのである。
 さらに、気味悪いことに、小説の中の船名は「タイタン」(すなわちタイタニック)だったのである。

 もう一つ、1892年に、やはり豪華船の沈没をテーマにした小説が書かれていた。その作者はウィリアム・T・ステッドである。
 このステッドは何と不思議なことに、実際のタイタニック号事件で犠牲者となったのであった。

 このようなことを私たちはどのように読み取るべきであろうか。
 第二の不思議なことは、タイタニック号を持っていたホワイト・スター・ライン社のオーナー、J・P・モーガンがタイタニック号で泊まることになっていた部屋についてである。
 彼は出港のわずか24時間前に、急にキャンセルしたのであった。このことは長きにわたって話題になった。
 そして最終的に、誰がその最高級のスイートルームに泊まるようになったのか。現在でも謎のままなのである。
 タイタニック号を建造したハーランド・アンド・ウルフ社の会長ビリーは、体調が優れないという理由でやはりキャンセルした。そして、その代理として処女航海に参加したのが、同社常務取締役でタイタニックを設計したトーマス・アンドリュースだったのである。
 
 タイタニック号がサウサンプトン港を出港する前は、この港は炭鉱ストの影響でごった返していた。出港を取り止める多くの船舶もあれば、出港を延期する船舶もあったのである。
 いわばサウサンプトン港は停泊する船で満杯状態になっていた。

 このようなことから、旅行を中止したり、移住の計画を変更する人々が続出し、切符の売れ行きは落ち込んでいたのである。
 このことはタイタニック号においても例外ではなかった。処女航海であるのに、まだまだ多くの空席があったのである。
 そこで、ホワイト・スター・ライン社は他の船に乗ることが決まっていた乗客たちを、ほとんど無理矢理にタイタニック号に移し出したのである。他の船では一等を予約していたのに、タイタニック号では二等を我慢しなければならない客たちもいた。二等でもタイタニック号の方が他の船の一等よりも居心地はよかったが、品位に欠けている人々も多くいた。
 このようにしてまで乗客を集めたが、なお定員にはほど遠い状態だったのである。


 もう一度、キャンセルをした人々について考えなければならない。
 なぜ彼らはキャンセルしたのであろうか。処女航海に乗っていなければならないはずの人々、タイタニック号に最も大きな責任を持っている人々が何の理由もなく急きょキャンセルしているのである。その数は約55人に及んだのである。
 彼らは何かを知っていたかもしれないという謎が今も残っている。

第三の不思議は、この当時の船はまだコンピュータもレーダーも備え付けてはいない。無線通信がやっとのことだったのである。
 従って、船が進むときに最も頼りとされるのは見張り人たちであろう。豪華客船の最も高いところに見張り台が備えられていたのである。
 では、その見張り人たちが頼りにする道具は何か。それは双眼鏡である。
 不思議なことに、タイタニック号は当時世界最大の豪華客船にして、処女航海に出、かつ氷領域を通過しているのに、彼らに双眼鏡を持つことが許されていなかったということである。
 では、その大切な双眼鏡はどこにあったのか。船室にはほとんど隠された状態で置かれていたというのである。
 見張り台は完全に外気にさらされている。事故の夜には風がなかったとはいえ、船は21ノットというスピードで航行していた。見張りは時速25マイルの凍るような風を常に顔に受けていたことになる。
 とても目を開けていられない状態、目を開ければ寒さゆえに涙が吹き出てくるのである。彼らはその凍てるような寒さから目を守るために、おそらく見張り台の下に身を隠していたのではないだろうか。そして、そこから時々顔を出して前方を見たはずである。
 かくのごとく、タイタニック号はほとんど盲人のような状態で氷領域を進んでいったのである。しかも猛スピードによってである。

 加えて、タイタニック号が氷山に激突した時間は、夜11時40分であったことを考え合わせなければならない。
 なぜ彼らから最も大切な道具、そして彼らの目ともいうべき双眼鏡が奪われていたのであろうか。なぜ、双眼鏡は船室に転がされていたのであろうか。
 以上のことのほか、タイタニック号事件にまつわる謎はもっと多く存在している。
 映画はそのほとんどを無視した。そして、男女の恋愛物語を全面に描き出しているのである。
 では、タイタニック号事件とは何だったのか。
 「陰謀」によって引き起こされたと考えられる。

 その背景を述べなければならない。
 何よりもタイタニック号を所有していたホワイト・スター・ライン社は、当時経営上の悩みに突き当たっていたのである。彼らが所有していたのはタイタニック号だけではなく、それと瓜二つの、そして姉妹船とでもいうべきオリンピック号があったのである。
 両船はほとんど同じ時期に建造された。
 そして、オリンピック号が先に処女航海に出、実際の航行を開始していたのである。
 両船が瓜二つであるということの一つの証拠として、私たちが現代でも目にするタイタニック号内部の図解は、写真や絵のほとんどが実はオリンピック号のものなのである。
 そのオリンピック号が北大西洋で大きな事故を起していた。すなわち、イギリス海軍の巡洋艦と衝突事故を起していたのである。

 それゆえに、ホワイト・スター・ライン社は保険請求を行ったが、相手が海軍省なるがゆえににっちもさっちもいかなかったのである。そして、裁判は泥沼状態になっていた。
 ホワイト・スター・ライン社は、他のライバル会社との関係においても、経営上の行き詰まりを起していた。
 このようなことから、オリンピック号とタイタニック号がすり替えられたと考えられないであろうか。
 すなわち、瓜二つの船をすり替えることでオリンピック号の損傷を適当に取り繕い、ボロが出ない程度の簡単な試運転をさせて処女航海に送り出す。その航海も氷領域として有名なところを通す。そして、氷山と激突させる。

 そのとき待機していた同社の船に乗員、乗客を移す。そして、タイタニック号(実際はオリンピック号)を沈没させる。
 そして、多くの保険金を得て、減価償却させるという筋書きが出来ていたのではないだろうか。
 そうであるならば、タイタニック号の方は姉妹船(オリンピック号)の名をかたって、23年間航行し続けたことになる。

 ただこのことをかねてから聞いてきたスミス船長の判断が誤ったかもしれない。
 なぜならば、スミス船長にも大変な謎が秘められている。もちろん、彼はあの遭難事故で死んだ。しかし、彼自身もミスを犯していたのでないだろうか。
 スミス船長は有名な船長ではあったが、あの事故の直前、いかなる船長もすることのないこと、すなわち氷領域を最大速度で突き進んでいったのである。その速度21ノットであった。

 誰が見ても氷山に激突することが明らかではないか。
 そればかりではない。他の船がタイタニック号の位置を確かめて、その氷領域と氷山が流れて行くことについて警告を送り続けている。その数は実に6回にも及んでいるのである。
 しかし、スミス船長はすべてを無視した。そして、最高速度で氷領域を突き進み続けたのであった。

 彼は何をしようとしていたのか。

 おそらく出来るだけ早く氷山と激突させるようにという指示を受けていて、それを彼の性急な性質と合わせて、早く実現させようと焦っていたのかもしれない。
 タイタニック号(実際はオリンピック号)が激突したとき、すべては計画通りにいかなかった。余りにも早過ぎ、約束していた地域とは異なっていたのであった。その結果、多くの犠牲者が出てしまった・・・。
 では、どうして二隻の姉妹船をすり替えることが出来たのだろうか。
 おそらく、船名板を変える工作が行われたであろう。
 船の名は船首の左右両側にある黒い板に浮き出しになっていて、金色のペイントで装飾されていた。もう一つ、船尾の湾曲部にある白い板にも黒で名前が書かれていた。
 しかし、姉妹船同士の名前を書き換えるにはそれほど難しいことではない。ドッグに二隻を並べて、船内のいろいろな作業が行われているときに、同時に看板を交換するのである。
 時間的にも手間においても、それほど大層な作業ではなかったはずである。
 そのほかの文房具から救命具に至るまでの部品についても、すでにこの時代、マニュアル化され、それらは大量生産されていた。
 従って、それらを交換することはそれほど多くの時間を必要としなかったであろう。
 現に、ホワイト・スター・ライン社は、このタイタニック号事件で膨大な保険金を取得することが出来たのであった。
 もう一つ、この不思議な謎を解く鍵がある。これはやはりユダヤ問題である。
 後にこのことについての海軍裁判が行われた。その首席はルーファス・アイザックスである。
 彼はユダヤ人で弟はゴドフリーといった。

 ゴドフリーは1910年よりイギリス・マルコニー社の総支配人を務めていた。タイタニック号事件が起きたその同じ週に、金融上の怪しい取引関係を結んでいた。その結果として兄のアイザックスは海軍裁判の最高責任者でありながら、この海難事故から巨額利益を獲得することが出来ていたのである。
 これは今日でいうインサイダー取引の典型だったのである。
 今日、世界エスタブリッシュメントたちは謎に満ちたタイタニック号事件を映画化し、それを自分たちの都合のよいところだけつまみ食いするようにして映画化したのであった。
 そして、「彼ら」は1999年以降における大変化、大混乱、大惨事をタイタニック号事件に見立てようと警告のつもりで映画化したのであった。
 文字通り、彼らは「溺れる者は藁をも掴む」ということわざを現実のものとしようとしているのである。』


 ・・・あれから十数年、彼らの戦略もやっとクライマックスへと向うことができたのでしょうか。
 ・・・しかし、
 ・・・最期の誤算が起きるのでしょうか
 
 それは日本に古代ユダヤ人が残されているから、そのために計画はマヤ暦の終わりに向けられた。

 唐突ながら2010年の始めにそんなことを思ったのです。

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映画「2012」を観て1999年を振り返る

昨年暮れに「2012」という映画を観ました。
 
 http://movies.yahoo.com/movie/1810045661/video/15978850
 
 この映画は彼らが作らせたものだと聞いたことがありますが、天変地異による地球大激変がリアルに映し出された迫力のある映画ではありました。
 
 そういえば、1998年に大記録となったハリウッド映画「タイタニック」も彼らのメッセージであったようです。

 その次の年の1999年1月、欧州ではユーロが導入されたのです。

Image6241 

(「祝賀ムード 底堅」欧州単一通貨のユーロが正月休み明けの4日、世界の金融市場に正式に登場した。・・・1999.1.5 朝日新聞)

 
 上の写真はユーロ取引初日の写真です。その写真に「目」が写っていますが、それは彼らを象徴しているものであるのでしょう。
 そして、ユーロが発行されたことで、やがてヨーロッパ各国の国家意識や歴史、伝統、国境などがやがて取り払われていく作業が始められていくのです。そして、それが昨年のリスボン条約批准であり、EU合衆国の登場に至っていくのです。

 映画「タイタニック」はその前に製作され、世界的なヒットとなりました。

 その前に1999年とはどのような時代であったのか。思えばその当時はノストラダムスの予言や2000年問題が世界を騒がせた時代であったのです。

 まず2000年問題とは、かつてメモリーが高価で希少だった時代に製造されたコンピュータは、四桁の西暦年号を下二桁で間に合わせられて製造されていたことがありました。その結果、紀元2000年になるとコンピュータは「00」で表示されるため、それが年号と認識できなくなったり、1900年と解釈したりして、作動停止や誤作動が発生し、混乱を招く恐れがあったからです。
 次にノストラダムスは本当のユダヤ人の血統を継ぐ人物で、1503年にフランスの古都サンレミで生まれました。日本で言えば、戦国武将が活躍し始めた、室町末期の時代であります。

 そしてノストラダムスは成人してからカトリックに改宗していますので、間違いなく彼は「マラノ」であったようです。
 (マラノ:ユダヤ教徒からキリスト教徒に形だけ改宗したユダヤ人)

 なぜならば、ノストラダムスの母方の祖父は王の侍従として宮廷に出入りしていました。そればかりでなく、ユダヤ教の神秘学とされる「カバラ」の学者であったのです。
 カバラは聖書そのものから逸脱して、神秘主義に走ったもので、数千年前から口伝で残されていたものが、紀元後二世紀から六世紀ごろに成文化され、さらに十三世紀には「輝きの書」としてまとめられたのです。
 従って、イエスの時代にもそのカバラ思想はありました。イエスと衝突したパリサイ人、律法学者たちはタルムード信仰に取りつかれていたのですが、このバックこそ、その「カバラ」であったのでした。
 さらにノストラダムスの父方の祖父もまたユダヤ人にして医者でした。従って、ノストラダムス自身がユダヤ教からカトリックになったといえども、それは表面的なものであり、その内面はユダヤ教徒であり続けたと見るべきなのです。
 そして、単なるユダヤ教ではなく、カバラの神髄を教育されていたものと思われるのです。
 
 これらの内容からすれば、このことは今日のサンヘドリンと完全に通じるものでもあるのです。ですから、彼らはノストラダムスは利用する側であったといえるのでしょう。
 話は変わってカール・マルクスは共産主義の創始者であると言われています。そして彼は「資本論」という本を書き、それが共産主義のバイブルのように使われます。しかし、その中の思想がすべてカール・マルクスによって書かれたものではありませんでした。彼に知恵を与えた者、それはレビンという人物で、この人物はサンヘドリンの意向を受けて彼にその知恵を与えていたのでした。
 このようにして共産主義が一つの歴史の節目を作ったように、ノストラダムス予言もまたある時期に歴史の節目を作るために温存されてきたものではないでしょうか。
 その中でも最も有名なのが1999年に関わる詩でありました。

 「1999年第七番目の月 驚愕の大王 天から地に落とされ
  アンゴルモアの大王をよみがえらさんと
  その前後にマルスは平和を楯に支配に乗り出す 」(第十巻72)

 ノストラダムスの予言はその当時、次から次へと成就していったように言われていました。しかし、ノストラダムスの予言が発表されてから数百年という時が経ていることと、彼らの意図を考えたとき、彼らの力がノストラダムスの数々の予言を成就させていたかもしれないのです。

 ユダヤ人たちにはこんなジョークがあるそうです。
 すなわち、彼らは先に矢を射ておいて、後で標的の円を描いた。
 となれば予言は的中する。
 これが彼らのトリックであり、彼らはその戦略の一つとしてノストラダムスの予言というものを温存させていたのでしょう。

 そして、世界の人々を藁をも掴む状況に陥れなければならない。

 その戦略を発動する前に、当時彼らは「タイタニック」という映画をリメイクし、そして1999年を間近にして世界に伝播したのでした。

 当時、大作と言われた映画「タイタニック」、その映画はアカデミー賞11部門を獲得し、制作費二億ドル、これは当時に作られた映画の製作費としては最高のものでありました。
 加えて、この映画は世界中で十八億五千万ドルの興行成績を記録し、当時過去最高のジェラシックパークの約二倍という、まさに驚異的なヒットを飛ばしました。日本でも一年間に及ぶロングランとなり、過去最多の約千七百万人を動員したのです。さらにビデオにおいても生産が追いつかない騒ぎとなり、その人気の過熱振りを改めて示す現象も起きたのです。
 そのように映画「タイタニック」は映画史上の全てを塗り替えるほど全世界に強烈な影響を及ぼしたのです。

 では映画「タイタニック」とは何だったのか。
 これこそ、彼らが戦略を発動したときに起こる世界の姿そのものであったのでした。

 しかし、彼らはそのとき、計画途上であったのでしょう。
 そしてEU合衆国の登場と共に映画「2012」を見せつけました。
 
 そして「2012」の映画の中には、リオのイエス像やローマのバチカンなどが崩壊する映像がさりげなく挿入されていますが、これが彼らの望むべき姿でもあるのでしょう。

 確かにこれから数年間の間に起される・・・というか、これまで起きてきた多くの出来事の裏には彼らの意図があり、演出があったのかもしれません。そして映画「タイタニック」を世に出す頃は、ノストラダムスの予言や2000年問題も利用して、彼らの夢を実現させようとしたのかも知れません。
 それがユーロが誕生した時の当時の写真の中に隠されたサインから窺い知ることができると思われるのです。
 しかしその当時を思うとき、あれから十数年経ったことに彼らの計画が遅れていることに気づかされるのです。
 そして世界を震撼させた911テロはこのときはまだ起きていません。

 ・・・その理由は定かではありませんが、そのひとつには彼らが新約聖書を読まないこと。
 そしてその新約聖書の中にマタイ24章があるからなのではないでしょうか。
 この中でイエスは数々の艱難の終わりにフォトンベルトと思わせる言葉を述べているからなのです。
 
 ・・・ということは映画「2012」という映画を彼らは作りはしましたが、それを彼らが演出する事は出来ないということではないでしょうか。彼らはノアの時代、箱舟によって多くの災いから逃れたことは知っています。そして「2012」もまた箱舟によって逃れようとしています。
 しかしイエスの語ったことはそんなことではありませんでした。
 
 どちらにしても2010年。
 大いなるロマンを秘めた時代はカウントダウンを始めたようです。
 ここまでとりとめもなく書きましたが、今日はこの辺でやめておきます。

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