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これからの生き方とは 1

年初から訳の分からないような事柄をひとり言のように書いています。
 でもよくよく思えば毎年同じようなことをやっているので、この日記に訪問してくださる方々は今さら何をと言われるかも知れません。
 でも、思い起こすと今回の場合は、年末に久しぶりに映画館へ行ったことが事の始まりのようでした。

 ・・・今から20年ほど前でしょうか、その頃に一部の精神世界ファンの人たちの間で「アセンション」という言葉が使われはじめたようでした。

 やがて1999年が近づくと終末論的な風潮は高まりを見せはじめ、マスコミなども取り上げるようになりました。
 しかし、それは世の終わりというネガティブな結末を思い描かせる内容であったため、いつしかアセンションと世の終わりは同期して、それが一般的な人々に伝わる頃には、針小棒大に甚だしく脚色され、その根源的な部分というものを見極めるには、困難なものになったようです。

 そして「2012」という映画もその延長線上に置かれていたものでありました。

 では、本当のアセンションとはどのようなものであるのでしょうか。


 
 それで、小生が好きな若者が最近述べた事柄ををお伝えしたいと思います。

 まず彼は一人の人物の言葉を示しました。

 『稽古とは一より習い十を知り、十よりかえる元のその一』(千利休)



 そして彼は、本当のアセンションとは、まさにこれだと言ったそうです。

 しかし、アセンションという言葉は、「終末論=世界の終わり」というネガティブなイメージが強調されやすいために、それは脅しや恐れというようなものと相俟って、結局のところは危機的な状況から回避するための手段として、スピリチュアル的に事柄が論じられているように思われるのです。

 そしてスピリチュアルの最先端というものを知って、より一層の幸せを追い求めていたつもりでも、やはりそれは三次元的な枠の中での思い込みや偏見、常識や規範の体現であったのだと、その若者は言うのでした。

 人々は長い人生において、いろんなことを身に付け、知識を得て、経験を積みます。しかし、それはゴールというものではなく、これまでに獲得したあらゆる経験や知識を維持した上で「元のその一」に帰ること、それでゴールに到達することになると言うのです。

 つまり、それは知識も経験も何も持っていなかった、生まれたばかりの赤ん坊の意識のことを指しています。純真無垢で穢れを知らないまっさらな心に帰ることがアセンションという言葉の本質を知ることだったのです。

 ですから三次元という枠の中で見れば、これまでの人生で獲得してきた知識や経験は「モノ」でありました。
 学校に通い、友人と語らい、会社に勤め、仕事をして、恋人と出会い、結婚し、子供を儲け、貯金をする事なども、それら全ては「モノ」であって、私たちは、たくさんの「モノ」を身にまとっただけで、その先を見逃してしまっていたのです。
 
 そして最後に若者はアセンションの意味を次のように表しました。

 『 赤子の意識、無垢で穢れなく、疑いを知らない澄んだ瞳。きわめて霊性の高い、赤ちゃんの意識を「霊性」と表現したらどうだろうか?

 つまり、人生も終盤に差し掛かり、あらゆる知識や経験を積んだ先に、さらに赤ちゃんの意識にかえることができたとしたならば、その状態のことこそを「半霊半物質」と呼ぶことはできないだろうか?

 きわめて高度な人生経験、そして知識と、赤ちゃんのような無垢な魂の高次元での均衡状態、これこそ、アセンションと呼ばすになんと呼ぼうか?

かつての大芸術家たちは、この境地に憧憬の念を抱き続けた。
  毎日、大量のデッサンを書き、技術を磨くことは何よりも大切であるが、技術を習得するに連れて、未熟だった時代の素朴さ、純粋さが失われていく。時に技術は初心を忘れさせる障壁となる。この障壁に四方を囲まれてしまっているのが「現代社会」である。

 技術は人を驕らせ、物質主義に陥らせ、初心であった霊性を軽んじるようになる。
 どうしてピアノが上手いのに大成できないのか?
 どうして絵が上手いのに売れないのか?
 ピアノが上手い人など、世界に数百万人いるからだ。絵が上手い人など、世界に数千万人いるからだ。ピアノが上手い、絵が上手いは、いわば「十」なのである。
 「十」で止まっているならば、学校で講師をやれば良い。

 「十」から「元のその一」にかえることができた人が、真の「芸術家」として大成し、後世に名を残すことができるのだ。

 (略)

 ここが一流と二流の間に厳然と存在する「超えられない壁」なのである。
 第一級の芸術家が作品を作るとき、「十」持っている技術を、”あえて”「元のその一」にデチューンすることによって、そこに魔力が存在するのだ。
 下手な人が下手に描く絵と、上手い人が下手に描く絵ではまったく違うのだ。

 「十」と「元のその一」の間にあるものを、「余力」や「マージン」と呼ぶ。さらに純和風な表現をすれば、それは「行間」とも言い表すことができる。
 「行間」とは何か?
 これは「言わずもがな」の不文律の部分である。楽器で言えば、「あえて弾かないことで弾いた以上の効果を生む」部分である。音を出してこそ価値があると思われる楽器であっても、音を出さないことで、音を出す以上の表現ができるのだ。
 これこそまさに「行間」であろう。

 高度な芸術作品においては、”あえて”の部分が多くなってくる。”あえて触れない”、”あえて描かない”、また逆に、”あえて余計な部分を入れる”こともある。それぞれ、クリエイターの匙加減ひとつで決められることだが、この匙加減ひとつの選択こそが、数多の芸術家の中から本物を見極めるための試金石となる。
 大多数の人々が考える「予定調和」の結末を、”あえて外す”ことによって、他者との違いを顕示させることも多くある。「外しの美学」が許されるのは、第一級のクリエイターだけである。

 そもそも芸術作品とは「余計なモノ」である。この世に芸術作品などなくても、人類の存亡にはまったく影響は与えない。壁に絵が飾ってなくとも、会社の業務には何の支障もない。
 そんな「余計なモノ」である芸術作品だが、私たちの生きる世界から芸術作品が一切なくなってしまったとしたら、これほど空虚で味気のない、つまらない世界はないだろう。
 私たちの社会、そして一人ひとりの人生には、じつは芸術は欠かせないものなのだ。いや、むしろ、この世は「余計なモノ」で構成されていたのだ。

 生命維持のみを考えるのであるならば、人は毎日の食事のメニューに頭を悩ませる必要などなく、点滴とサプリメントだけで生きていけるだろう。しかし、「そんな人生嫌だ!」と思う。そう、私たちが毎日食べている食事からして、すでに芸術なのだ。

 「美味しい」と感じ、楽しく食べる、その瞬間がすでに芸術なのだ。私たちは、ベッドに括られて、点滴を受けながらただ呼吸して、排泄しているだけの存在ではない。喜怒哀楽という感情をもって、楽しいこと、苦しいことを繰り返しながら、それでも幸福を求め、どこかわからないゴールを目指して日々暮らしている。
 毎日、ほとんどが「余計なこと・もの」で占められているのだ。
 つまり、じつは私たちの生活、そして人生そのものが、「芸術」そのものであったのだ。

 私たちの人生とは、まさにほぼすべて「余計なこと」で満たされていた。
 人が本来「神」であり「宇宙」であるならば、最初から完成形で完結した存在であるならば、人生など無駄なことである。しかし、私たちは毎日、人と出会い、接し、感動し、涙する。

 これは一体何だろうか?

 人を構成する最小単位、素粒子のさらに極限は「ロゴス」である。人体、そしてこの三次元現実世界を築き上げているものの極限は、すべて「ロゴス」という「言霊」である。
 「ロゴス」とは「プログラム・コード」のことである。
 ならば、私たちの身体は、そもそも「物質」ではなく、言霊でできているのだ。つまり、人体も、この世界もすべて、実体のない「幻」なのである。
 「幻」である、この世界の中で、私たちは日々、泣き笑い続けている。しかし逆の見方をすれば、「幻」であるならば、その幻をいかようにするのも、本人の自由だということである。
 そこで、ここに「イマジネーション」が登場するのだ。

 今、私たちの目の前に展開される、すべての世界は私たちが無意識に思い描いた世界である。63億人の人類が、各々思い描いた世界の最大公約数が均衡しているのが、この世界である。
 物事には、「全体」と「部分」がある。「全体」が63億人の最大公約数であるならば、「部分」は、個人そのものの思い描いた結果である。この「全体」と「部分」が同時に共存しているところが、この世が「多次元世界」であることの証でもある。
 この奇蹟的な調和を見ても尚、私たちは、自らの生きるこの世界を思い知ろうと思わないし、科学技術で測定しようとしている。
 三次元現実世界は、定規で測ることができるが、多次元世界は測定できない。これは宇宙の必定である。
 「部分」が「全体」を構成し、また同時に「全体」が「部分」を構成するという図式は、まさに「フラクタル・パターン」である。

 「科学」は、理論と計算によって、神の世界を測定しようとするものである。「宗教」とは、神の世界の中から、物理的普遍の法則を見出そうとするものである。アプローチの方法が違うだけで、じつは両者は同じなのだ。

 「科学」と「宗教」は、互いを罵るべきではない。
 同根であり、同一存在の別局面であるに過ぎないからだ。
 この最大の「二元性」の代表ですら、こんにちまで人々は、整理できずにいる。「幻」の中で、右往左往する人類が、真のアセンションを迎え入れるまでには、これからまだ相当量の修練が必要となるだろう。
 「修練」というのは、修行のことではない。修行とは、双方向通信、つまりインターネットが普及する以前の旧時代における多次元世界とのアクセス法のことである。
 現代における「修行」とは、私たちが毎日やっているインターネットのことである。多次元世界へのアプローチ、そして、多次元世界からの情報のダウンロードなど、私たちは、じつは毎日、厳しい修行と同等か、それ以上の修行を無意識に行っているのだ。


 このように、日々の何気ない「行動」の裏に、じつに多次元的な意味が隠されていることに気づくべきである。
 単なる「三次元的な行動」の裏に「多次元的な意味」があることに気づくこと。ここに気づくことを、「行間を読む」というのだ。自らが行う行動の狭間に多次元が呼吸しているのだ。
 日々の私たちの行動を「行」(ぎょう)といい、そして、その「行」の「間」(あいだ)、つまり、見えない世界を「おもいみる」ことを「行間を読む」という。
 そして、「おもいみる」とは、漢字で「惟る」と表記する。
 見えない多次元世界について、筆者は「神の世界」や「宇宙」と表現している。つまり、「神の世界」を「惟る」という行為、そして、そういった生き方を、「惟神」(かんながら)というのだ。
 さらに、こうした「惟神」をもって、三次元世界を生きていく人生の選択を、「惟神の道」というのだ。
 さらにさらに、多次元世界、神の世界をおもいみて、自己と他者の間の障壁を乗り越え、自他同然の只中に自己を据えることができたならば、その境地を、これまた「随神」(かんながら)とも言い表すことができるだろう。

 「惟神の道」とは、聖地を訪れ、自己流の祝詞を奏ることではなく、また、天使と自称して、他人に余計なお世話を働くことでもない。自らが生きるこの煩雑に思える三次元現実世界の中に、精妙な多次元の息吹を見出す、本来ならば、日常ありふれた光景であり、そしてそれはじつに繊細な行為でもあるのだ。

 「言霊の世界」をもっと身近にし、そしてもっと活用していただきたい。
 日本語の言霊は、世界の謎を解く「鍵」だからである。
 多次元世界にある「黄金のUNTI」から降ろされた多次元情報は、一旦「日本語」を経由してから、世界中の諸言語に変換されて、各国に降ろされていくのだ。
 「古代、日本語が世界共通語だった」といわれるが、これは一部正解で、一部誤っている。
 今、この瞬間、まさに日本語は世界言語の雛形なのだ。決して「古代」の話ではない。

 多次元世界から下ろされた多次元情報の、もっともピュアなエッセンスは、まず日本語を経由する。だから、世界各地に日本語にそっくりな表現や単語が存在するのだ。
 今リアルタイムに降ろされる多次元情報の謎の解釈に日本語が深く関わっているのだ。だから、超古代の文明の謎を、現代日本語の言霊が難なく解いてしまうし、現在、世界を賑わせるニュースの解釈にも、日本語の言霊が威力を発揮するのだ。
 「言霊」の力は時代を問わず、まさに「普遍」であり「不変」なのだ。


 その「言霊」の故郷の国である日本に、私たちは生活しているのだ。そのことの重大性にそろそろ気づいてもいい頃である。
 人の身体も、すべての環境も、すべて「言霊」で出来ていると書いたが、それはつまり、森羅万象は「日本語の言霊でできている」ということである。
 すなわち、「宇宙」も「神」も、日本語の言霊でしか、その謎を解き、秘密を解明していくことはできない、ということである。

 - これは、驚天動地の真実である!!

 つまり、これから起こる「旧」と「新」の入れ替えに伴う大変動の中で、人類史の謎が次々と解かれていく流れの根幹には、日本語の言霊を用いるニュータイプが「活動の場を見つける」こととなるのだ。
 これが、「日本は世界の雛形」の、具体的な意味である。
 封印されてきた世界の謎を、ことごとく、瞬間的に解き放っていく様は、まさに圧巻となるだろう。
 新しい時代を生き抜く人とは、「神によって選ばれた人物」では決してない。選民思想と優越感と、サバイバル意識を想起させる甘い言葉は、すべて「トラップ」(罠)である。
 新しい時代を生き抜く魂かどうかは、誰かが選び、指名するものではなく、一人ひとりの意識が、自らの生きる道を、自らの意志によって、選択していくのだ。

 
 「本当のスピリチュアル」を知らない人は、言霊の力を知らない。言霊の力を知らないのだから、言葉を気安く軽んじている。
 しかし、軽んじて用いた言葉にも言霊はある。言霊があるということは、そこに「力」が働くということである。
 歯の浮くような大言壮語を、まるで息をするかのごとく吐く者がいたとしたら、これからの時代においては、大成し得ないだろう。
 その者の心の「本意」と、口から発せられた言霊との間に、ギャップがあったとするならば、そのギャップに「見えない請求書」が届けられるだろう。
 そして、現代は、軽んじて発せられた言葉に対しても、きわめて少ないタイムラグにて、現象化するため、口先で人を欺こうとしても、欺く前に、自らが自らの心を欺いたことを思い知らされることとなる。
 私たちは、毎日、人に会い会話をしたり手紙を書いたりする。
 何気ないひと言にすら、言霊が作用しやすい多次元的な世の中となってきた。殊更に「真心」を込める必要はない。適切な日本語を適切な場所にて適切に用いることが重要となる。

 しなやかで語彙に富み、芸術的に美しい日本語を、ユビキタス状態で自在に駆使できるようになり、この三次元現実世界に、明確なる奇蹟を起せるようになれば、あなたも立派な「言霊遣い」である。
 じつはこれが「魔法」である。「マジック」である。
 文字と文字の間にある、多次元のスイッチを突き作動させる。
 これが「マジック」(間字突く)の言霊である。
 2010年、人は「魔法使い」となる - !? 』

 つづく
 

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