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これからの生き方 4 (あやつられた龍馬より)

「あやつられた龍馬」加治将一著より

『 京都近江屋での惨劇が起きる。時は12月10日(旧暦11月15日)、ついに坂本龍馬、中岡慎太郎、暗殺の場面を迎えるのである。
 犯人は不明。日本史上最大の謎のひとつだ。
 犯人に近づくには、龍馬はいったい京都で何をやっていたのか、ということをはっきりさせるのが早道である。
 注目すべきものに、龍馬が出した最後の手紙がある。死ぬ三日前に書かれたと思われる陸奥宗光あての不思議な手紙だ。

 一、さしあげんと申した脇ざしハ、
   まだ大坂の使がかへり不 申
   故、わかり不 申。

 一、御もたせの短刀は(さしあげんと申た)私のよりは、
   よ程よろしく候。(但し中心「なかご」の銘及形)。
   是ハまさしくたしかなるものなり。
   然るに大坂より刀とぎかへり候時ハ、見せ申候。

 一、小弟の長脇ざし御らん被 成度とのこと、ごらんニ入レ候
                   十三日   謹言。

  陸奥老台
                    自然堂(じねんどう) 拝


 差出人の「自然堂」は、龍馬の暗号名だ。
 要約すると、こうである。


 一、陸奥にあげようとしている「脇差」(小刀)は、大坂から使いが帰らないので、いつになるか分からない。

 一、陸奥がだれかに持ってこさせた「短刀」は、私が上げようとしている「脇差」より、いい品物である。刀の中心の質や形も、確かだ。
   大坂で研いだ刀が返ってきたら、お見せしましょう。

 一、私の「長脇差」を見たいとの希望、お見せしましょう。


 手紙の内容は、三振りの刀についてのやり取りである。
 相手の陸奥宗光は神戸海軍操練所、亀山社中、海援隊とずっと龍馬の傍らにいたような男だ。本当は紀州藩士なのだが、周りでは龍馬と同じ土佐藩士だろうと勘違いしている人間も多かった。

 手紙には「四条通り室町上ル西側沢屋」とある。陸奥の居場所だが、それが暗号でなければ龍馬のいる「近江屋」からはほど近い。

 しかしこの手紙は、どこか奇妙だ。
 わざわざ使いを出して、大坂くんだりまで「脇差」を研ぎにやっている。太平の世ならばそれもありえるが、時はまさにクライマックス、一触即発の場面をむかえ、痺れるような緊張感を孕んでいるのである。それを考えれば、この時期、のほほんと大坂に刀を研ぎにやるのは奇妙な話だ。

 手紙の文面も、妙なあんばいである。
 「受け取った短刀は、差し上げようとした脇差よりすばらしい」と誉め、その後「大坂から刀が戻ってきたら、見せよう」と綴っている。

 なにがおかしいかというと「差し上げようと思い」わざわざ研ぎにやった刀が戻ってきたのなら、普通は「差し上げる」はずである。ところが、「見せるだけ」というふうに、同じ手紙の中で変化している点である。

 つづいて「長脇差」も見せるだけである。

 この龍馬の手紙によると、陸奥と龍馬は近くに滞在している。いつでも見せ合えることのできる刀を、高価な紙を消耗し、使いを出してまで手紙で意思を確認するだろうか。
 もう一度繰り返すが、状勢は緊迫しているのだ。大勢は決していない。錦の御旗を掲げた薩摩が3000の兵を挙げて、京に向っており、対する会津藩、新撰組などは死守すべく人員をかき集め、組織の引き締めにやっきになっている。
 龍馬も渦中にいて、命の的になっている。そんな中で受け取った刀はすばらしいとか、刀を研ぎに大坂までやっているとか、悠長に文通している場合ではないはずである。
 胡散臭い。では、龍馬の手紙に出てくる「刀」というのはなにか?

 そう、暗号以外、考えられない。

 (略)

 現存する手紙の数は128通。ほんとうはもっとたくさんある。交流の深かった中岡慎太郎、西郷隆盛にもかなりの手紙を出しているはずだが、それらはすべて消滅してしまって、今現在目にすることはできない。
 それらも含めると、おそらく300通はくだらなかった、と言う歴史学者もいる。

 手紙は飛脚が運んだ。

 飛脚料は江戸ー大坂間で、だいたい7両から銀3分である。料金の違いは配達日数。三日で着く特急料金もあれば、のんびりと10日くらいかける便まであって、料金体系は細かく分かれていた。

 地方ならさらに高くなる。もっとも各藩は、自前の飛脚や隠密を飛ばすこともあり、必ず費用がかかったとは限らない。しかし、うっかりそんなものを使うと、藩の飛脚は敵のターゲットになっているから、他の隠密に狙われる。いや、飛脚自身も敵の隠密である可能性があり、中身を読まれたり、すり替えられる危険がある。
 その点、町の飛脚は高価だが、政治的には無色なのでまだ安心できたのだ。

 江戸、大坂、神戸、京都、下関、長崎、龍馬は行く先々で手紙を送っている。脱藩している龍馬に、藩付きの飛脚が一緒に付いて回っているわけではないので、多くは気軽に頼める町の飛脚に頼った。
 ならば一通、7両から銀3分。手紙の送料合計を、平均1両としてざっと見積もれば、しめて130両。
 現在の価値に直すのは、はなはだ困難だ。前にも述べたが、1両、40万円から、たった6、7千円だったという極端な学者もいる。ものすごいインフレが進行していて、換算は不可能という史家もいるくらいだ。それでも米価や手間賃から10万円説をとる。すると龍馬の飛脚料は、およそ1300万円になる。これは最低の概算であり、失われた手紙の量を考えると、2000万円は超えていたのではないだろうか。

 下級武士にはまったく相応しくない金額だ。普通、食うや食わずで街の隅っこに溜っているのが脱藩した下級武士の姿だ。郷士や足軽は犬の糞と呼ばれていたくらいである。

 しかし諜報部員ならおかしくはない、どこかの組織が出す工作資金から捻出していたと考えれば、多すぎる手紙の謎は解けるのである。
 
 では姉、乙女に書いた手紙はどうなのか?

 今、残っているのは12通。四国は海を渡るので一通平均4両くらいか。しめて48両(480万円)。普通そんな大金を、姉への手紙に使うわけはない。
 しかし龍馬は出している。さほど重要とも思えない自慢話の手紙を出すために、恍惚となって飛脚を用いていたとするなら、龍馬の金銭感覚はひどすぎる。
 しかし龍馬は馬鹿ではない。冴えている。無料で出す方法を見つけたのである。
 
 姉の乙女が中継点だったらどうなのか?

 武士の居所はつかめない。土佐勤皇党員、あるいは土佐藩士。手紙を渡したい諜報部員はいつも動いている。そして龍馬も動く。携帯電話のない時代、動くものどうしが連絡を確実に取り合うには、動かないという「中継基地」が必要になってくる。

 そこが姉、乙女だった。龍馬は、探った情報を乙女のところに送る。その時、姉へのプライベートな手紙を重ねる。受け取った乙女は、自分宛の手紙だけを抜いて、あとは相手に渡す。これなら姉宛の分は無料だ。
 こういうシステムになっていたと考えれば、借金だらけの龍馬に、どうでもいい手紙を姉にたくさん出せたというミステリーも氷解するはずだ。 


 なんども言うが龍馬は凄腕の諜報部員だった。諜報部員の手紙には暗号がちりばめられている。
 それでは陸奥に書き送った「刀」とは、いったいなんの暗号だったのか? 
 その謎に近づくには、もう一度、「イカルス号事件」まで戻るのが分かりやすい。

 水兵殺害事件は実際に起こったものだ。長崎の歓楽街で、2名のイギリス人水夫が切り殺されている。
 下手人探しに、パークスが乗り出す。

 パークスは世界に冠たる大国、英国公使である。こう言ってはなんだが、殺されたのは花街で酔いつぶれた下っ端の水兵2名。その犯人探しに、公使自ら捜査員となって、長崎奉行を怒鳴りつけ、取って返して大坂の徳川慶喜を突き上げ、それから土佐に乗り込む、という八面六臂の大活躍である。
 首をひねらざるを得ない。

 たわいもない噂にしがみついて、自ら土佐行きを買って出、部下のサトウでさえ目を白黒させるぐらいに、後藤象二郎をこっぴどく叱りつけるのだ。はっきり言って、理不尽なインネンだ。これは明らかになんらかのシナリオがある。ただの出来心ではない。
 思い返してみると、以前にも似たようなことがあった。

 リチャードソンという商人が薩摩藩の行列と遭遇し、斬り殺された、あの「生麦事件」だ。それをがっちりとらえ、英国は多額な賠償金を求める。幕府を責め、艦隊で鹿児島を焼き払ったのだ。
 手応えは抜群だった。薩摩は倒幕の旗手になり、今や英国を同志と呼ぶような間柄である。

 長州もしかりだ。下関を砲撃した後、ころりと親英になり、藩論は倒幕でまとまりすぎるほどまとまっている。
 自信を深めた。きっかけがあれば攻撃に限る。あくなきこだわり、今度は土佐である。
 ではいつもなぜ、露払いのように先に幕府を責めるかというと、二つの理由がある。

 まず幕府にねじ込むことによって、幕府と標的にした藩との関係が見えてくるのだ。幕府の応対と、それに対する藩の行動を見比べることで、藩の力量、考え方、藩内の勢力図が浮き彫りになるのである。すなわち揺さぶりをかけて、見極めるのだ。
 誰と誰がどういう考えを持っているか?誰が味方で、誰が敵なのか?分かればそいつと手を組むなり、突き放すなりという作戦が見えてくる。

 もう一つ、幕府を叱責せずに、地方の大名だけを叩けば、英国と幕府がグルになっていると見られる。だから必ず先に幕府を責める。責めて、責めて、責め抜く。そうすれば反幕感情を持っていた地方の大名は、次第に英国に心を開き、親英に傾いてくる。これが英国が描いた絵図である。

 この時、土佐藩内の状況はどうか?

 佐幕派、攘夷派の残党、武力倒幕派、無血革命派が重なり合っていて、山内容堂はまだぐらついていたのである。
 その情報を得たパークスはこう考えた。直接乗り込み、一戦交えてでも佐幕派、攘夷派を蹴散らす。
 土佐には、薩摩や長州のような砲台はなく、大挙して艦隊を出す必要はない。一隻の戦艦をもってすれば充分である。
 
 龍馬の動きを見てみよう。

 パークスが大坂に戻った時、相手をしたのは幕府と土佐藩だ。土佐藩の担当者は、佐々木三四郎(後の参議、枢密顧問官)があたった。
 バークスは持参した疑惑を広げるが、長崎で判明しないものを大坂で分かるわけはない。パークスはその場をおさめ、訊問は土佐で行うと通告。

 佐々木は、羽目を外す暇もなく一足先に帰ることになったが、そこである人物と会っている。
 龍馬である。ついこの間までは長崎にいた龍馬の偶然すぎる出現。どうみても、前もって詳しく情報を得ていた者の行動である。こういう時、講談ではばったりと出くわしたなどと流すが、そうそう都合よく会えるものではない。

 交通手段と通信手段が発達していない時代では、もう一度会いたいと思っても、一生かなわないことなどザラである。だからこそ「一期一会」という言葉が生まれるのだ。一度はぐれると、どうなるか分からない。「母を訪ねて三千里」などという話は、現代では通用しないが、古だからこその名作なのである。

 龍馬は、あきらかにパークスと示し合わせて長崎から大坂に入ってきている。曰くありげに裏で動いていたから、密かに佐々木と逢えたのだ。龍馬と佐々木は仲良く「三国丸」に乗り、土佐まで来る。

 バークスの折衝場所は高知ではなく、高知から西南、30キロの地点にある須崎という港町。そこまでくると龍馬は奇妙な行動を見せる。 「三国丸」を須崎で降り、停泊中の土佐船「夕顔」に身を隠すのだ。
 表向きだろうがなんだろうが一応「脱藩」していた龍馬は、事情を知らない国元の侍から命を狙われていた。したがって身を隠した、ということも考えられるが、その根拠はきわめて薄い。当時はすでに赦免されていて、藩が赦免というお墨付きを与えた人間に対して、武士ならば追い討ちをかけることはない。

 龍馬は、それでも「夕顔」にじっとして、神経質に姿をさらさない。
 理由は、英国の諜報部員だという噂が流れていたからである。
 英国が土佐に乗り込む。それを手引きしたのは龍馬だ、と思われていた。だから隠れなければならなかったのだ。

 タイミングよく大坂に現れた龍馬。その時、徳川慶喜から山内容堂宛の親書を福井藩主、松平春嶽の手から託されている。内容はイカルス号事件を深く心配しているという仰々しいもので、早い話が、土佐藩はパークスの存在を重く受けとめろというものだ。

 そんなものはバークスの根回しがなければ、書けない内容である。その将軍の手紙を龍馬が土佐に運んでいるのだ。

 海援隊の隊員が、犯人と疑われているにもかかわらず、パークスの周りをうろつく龍馬。どう見ても英国のエージェントである。
 パークスと後藤たちがやりあっている間、龍馬は、英国軍艦と目と鼻の先にある「夕顔」の船内に潜んでいる。それも一時間や二時間ではない。丸二日間だ。まるで傍で、お役に立つべく待機している。

 ここでまた、奇異なことが起こっている。

 夜陰にまぎれて、密かに軍艦を訪れるものがいたのだ。パークスに怒鳴り飛ばされた後藤である。

 政治の話は尽きなかった。「議事院」をつくって、イギリス型政治体制を樹立したいと語り合っているのだ。

 サトウは日記にこう綴っている。

 「後藤と我々の話は幕府の悪口になった・・・我々は今後も変わることのない友好関係を誓い合い・・・後藤はかしこい人間である。西郷をのぞくと、これまでに会ったどの日本人よりもすぐれている」
 サトウは、友好関係を誓った後藤を絶賛しているのだ。
 サトウはなにしにここまで来たのか?後藤はなにしに来たのか?龍馬はなにしに来たのか?

 こうなると、イカルス号事件などそっちのけで、夜陰にまぎれて、別のものが見えてくる。

 日記で「後藤と我々の話」というからには、サトウ側は複数の人間である。その席に、龍馬はいなかったのだろうか?夜な夜な「夕顔」から這い出して、軍艦に乗り移り、後藤たちと詮議を交えていたと思うのは、単なる邪推ではないだろう。

 藩内は、ざっくりと三つに分かれていた。

 後藤と龍馬が押し進めるのは、穏便な無血革命。すなわち幕府が自ら退き、はい、どうぞ、と権限を天皇に返す「大政奉還」路線だ。これがひとつ。あとは公武合体を引きずる勢力。そして武力討幕を主張する過激派、板垣退助たちである。

 パークスの滞在は三日間、後をサトウに託して9月6日に須崎を離れている。
 英国軍艦に去られたサトウは同じ日、従者の野口と日本人書記小野を連れて、龍馬の潜伏する「夕顔」に移って待つ。

 三日後ついにその日が実現した。サトウは土佐のボス山内容堂と面会。後藤を交え、最終的な意見のすり合わせに成功したのだ。
 英国の並々ならぬ決意を知って、容堂は腹を括った。佐幕派を脇に押しやり、板垣を除け、後藤を推す「大政奉還」路線をとったのである。

 こうしてみるとイカルス号事件の本筋は事実上の藩主、山内容堂と英国を直接逢わせることにあったことが分かる。
 
 「倒幕に立ち上げれば、英国は土佐に味方します。」
 後藤が容堂ににじり寄る。

 「イギリスを信用できるか?」
 容堂が訝しげに聞く。

 「おまえがイギリスを動かせるとういうのなら、一度連れてきてもらいたいものだ。そうしたら、信じよう」
 
 「いずれお連れします」

 イカルス号事件は絶好の機会だった。龍馬が自ら犯人は海援隊だ、土佐だと買って出ることによってパークスを土佐へと誘導する。こういう口実があれば、パークスも土佐に行きやすい。

 覆われていたベールを引き剥がすと、パークスを追って大坂に入った龍馬。親書を預かる龍馬。須崎「夕顔」での潜伏。そしてパークスが犯人を出せと大声で後藤を怒鳴った大袈裟過ぎる臭い演技。すべてが反革命派の裏をかくためのものだということさえ見えてくる。

 そしてもう一本の軸が浮かび上がっている。「イカルス号事件」で連なった人物だ。
 パークス、徳川慶喜、板倉勝静、後藤象二郎、そして龍馬だ。
 京都二条城に陣取る老中板倉に、後藤たちが「大政奉還」建白書を提出した手順は、まさにその人脈ラインを逆に遡ってゆくのが、約2ヵ月後、10月29日(旧暦10月3日)のことである。

 サトウは背筋を伸ばして長崎に引き返す。だが気持ちは釈然としない。パークスは、龍馬の穏健派ラインで、サトウの武力討幕路線がすっかり霞んでしまったからだ。これからどう軌道を修正するか、そんなことを考えていた。
 
 船は「夕顔」だ。佐々木も乗船している。依然として龍馬も乗り合わせており、佐々木の日記には、龍馬と会って親しく話したことが書かれている。
 ところが、このときもサトウの方の日記に龍馬は出現しない。いないのである。

 顔を合わさなかったのか?

 「夕顔」が巨大船であったら、それも考えられるが、たかだか長さ約65メートル、幅8メートル弱の蒸気船だ。船内は狭い。サトウが「夕顔」に移ったのは須崎港に停泊中のときである。二日間をそこですごし、さらに須崎ー長崎間の丸々二日間が船内だ。すなわち計四日。甲板、トイレ、キッチン、まったく見かけないということは常識的にありえない。

 作為的に龍馬を消し去ったのだ。何度も言うが、諜報部員をバラせば、英国では機密情報漏洩罪という万死に値する重罪になり、絶対書けないことなのだ。残すべきものと消し去るものをサトウは心得ている。だから龍馬には触れなかったのである。

 イカルス号事件を奇貨として、ともあれ土佐藩は、倒幕開国でまとまったのである。
 英国の作戦は巧妙、そして着実だった。

 1863年 「薩英戦争」
 1884年 「下関砲撃」
 1867年 「イカルス号事件」

 三つの事件は、三つの大藩を落としたのである。
 イカルス号事件は、英国にとってとんだ拾い物だった。
 この事件で手繰り寄せられたのは、土佐藩だけではない。大坂では西郷隆盛、長崎では桂小五郎、博文など錚々たるメンバーがサトウと接触、倒幕を援護すると念を押されている。

 これがイカルス号事件の成果であった。
 すなわち下手人探しを隠れ蓑に、パークス自ら英国の不退転の意思を、土佐藩士ならびに維新のキーマンたちに語る絶好の機会にし、力技で革命を推し進めたのである。

 長崎に入ったサトウは、すぐさま桂小五郎、伊藤博文、佐々木三四郎、龍馬と如才なく会談を持つ。
 そこで、サトウは恐ろしいほどの台詞で決起を促している。

 「薩長土の三藩の倒幕態勢は八割がた固まっている。これでなにもできなければ、恥を内外にさらすことになる」

 援護というより、これは革命家のアジテーションだ。
 同じ長崎に、グラバーはいなかった。
 「いろは丸」衝突事件の処理を、五代にしっかりと引き受けさせたことを見届け、ヨーロッパに出向いていたのだ。1867年の夏に到着していた薩摩藩使節団とパリで合流、パリ博覧会に顔を出している。

 グラバーは、日本に誕生する新政府を見据えていた。
 御一新に合わせ、新商売を整える必要があった。目をつけたのは石炭産業である。新政府ができ、産業が活発になれば、あらゆる機械の燃料として石炭は重要になる。彼の日程も炭鉱事業の習得、機械の選定、及び炭坑作業員のリクルートで占められている。

 長崎、グラバー邸の留守宅では、ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)が自由に歩き回っていた。彼は船員だったが難破漂流、米国船に助けられてアメリカに渡り教育を受ける。帰国後、米国神奈川領事館通訳となるが、ようは米国の諜報筋とつながる人物である。
 話を少し戻すと、イカルス号事件でサトウが長崎に入った時、グラバー邸にこのジョセフ・ヒコを訪れている。

 サトウにこう告げた。
 「薩摩、土佐、芸州(広島)、備前(岡山)、阿波(徳島)の諸大名が連名で、将軍に提出した文書がある」

 これは明らかに「大政奉還」建白書のことだ。しかし実際にはまだ一ヵ月も先のこと、フライングである。
 グラバー邸にいるジョセフ・ヒコが、うっかりすべらせたということは、米国とそれにつながる組織の中で「大政奉還」建白書提出は、すでに規定の路線だったのである。
 過激派のサトウは複雑な思いで、それを聞く。
 サトウがグラバー邸に滞在していたおり、訪れた伊藤博文は、一人の男をサトウに差し出している。サトウの日記では「弟子にしてくれと紹介された」と表現している。エージェント見習い、すなわち連絡員にしてくれという意味だ。まさか、日記にはスパイなどとは書けないから、弟子と記したのである。

 名前は遠藤謹助(後の造幣局長)。そう、博文と英国に留学した、「長州ファイブ」の一人である。1867年の9月23日が、遠藤謹助の「英国エージェント」となった記念すべき日ということになる。

畳み掛けるように、新聞記事が躍った。

 「徳川慶喜が将軍を辞職し、かわってミカド(天皇)によって尾張候(徳川義宣)が将軍に指名された」(10月9日)

 
 これも「大政奉還」のことだが、まったくのペテンだ。実際に行われるのは、まだ先のことである。
 発信元は、英字新聞「ジャパン・タイムス」だ。この新聞は、国家転覆を激しくアジったサトウの「英国策論」を載せた前科がある。今回は扇動記事ではなく、幕府が倒れたと、真っ赤な嘘を流したのである。これが事前に漏れ、グラバー邸の留守をあずかるジョセフ・ヒコの耳に入っていたのだ。

 こんなことをするのは、英国諜報部の仕業以外考えられない。パークスは、土佐で後藤に「大政奉還」を強くうながし、土佐の感触を得て一歩先に横浜に帰り、新聞に載せるように命じたというのが筋だろう。
 
 将軍が身を引いた! 噂には尾ひれがつき、蜂の巣を突いたような騒ぎになる。地方の藩が浮き足立ち、将軍が動揺して、下地は出来上がった。
 新聞記事から20日後、後藤象二郎が本物の「大政奉還」建白書を幕府に突きつけたのである。

 絶妙なタイミングだった。英国諜報部と綿密な打ち合わせがなければ、できない離れわざである。
 11月9日、大坂にいた徳川慶喜は、とうの昔に観念していた。それを受け入れ、淋しげに大政を奉還する。しかし完全に立ち去ったわけではない。
 この時、フリーメーソン西周が慶喜の政治顧問として背後に張り付いている。張り付いているどころか、上院下院からなる「議会草案」を慶喜に示して「大政奉還」を受諾するよう促していたのは周知の事実だ。五代、西の「パリのめぐり会い」が効いている。
 江戸にそのニュースが伝播したのは、11月12日、慌てた老中、外国事務総裁小笠原長行は、パークスに面会。「大政奉還」を報告しつつ、それでもなお将軍を含む議会制への移行という西の希望的構想を持って、これからはイギリス型になるだろう、と協力を仰いでいる。

 お分かりだろうか。パークスが表面上、ぬかりなく中立の立場をとっているからこそ、決定的瞬間においても、幕府はまだすがってくるのであって、そうなってはじめて、イギリスは日本全体をよく見通せるのである。

 幕藩体制の崩壊という決定的場面をひかえ。サトウの諜報活動はめまぐるしく回転する。
 稲葉正巳(老中、海軍総裁)、松平乗謨(老中、陸軍総裁)が兵を引き連れ風雲急を告げる京都へ向っている。薩摩も5千名の兵を大坂に結集中であり、長州と土佐も京阪に陣を敷く。

 勝海舟がサトウのところへ駆け込んでいる。暴発の恐れを告げるが、サトウの日記は、「終わりの始まりが開始した・・・」

 サトウはそう表現した。いわば自分が仕掛けた内戦である。引き金の「時」は、確信を持って正確につかんでいるのだ。
 11月24日、後藤象二郎から手紙が届く。手紙の配達人は「海外留学組の後藤久治郎とリョウノスケだ」とサトウの日記にある。

 ここに注目して欲しい。後藤久治郎は偽名で英国留学の経験者、中井弘蔵(後の滋賀県知事)のことである。ならばリョウノスケとはだれのことか。

 サトウは最初、ローマ字でMUTUと書き、それからそれを消してリョウノスケと書き改めている。
 MUTUから連想するのは「陸奥宗光」だ。
 「かれら(中井と陸奥)は土佐の建白書(大政奉還)の写しを持ってきた・・・・・かれらはイギリス議会の慣行について、あらゆる知識をわたしに求めたが、わたしには知識の持ち合わせがないので今後大坂にゆくとき、ミットフォードに紹介してやるからと言って・・・・・」

 陸奥が英国のエージェントもしくは連絡員だったというのは、サトウの記録などから比較的簡単に推測できることだし、陸奥ー後の農商務大臣、外務大臣ーという明治以降の英国とのかかわりを見てもうなずけるものがある。

 11月26日、薩摩の吉井幸輔(後の元老院議官、日本鉄道会社社長)の使いが、サトウの元に、知らせを持ってくる。

 「万事順調に進んでいる。(サトウが)大坂到着の節はすぐにお越しくだされたく候」

 万事順調に進んでいるという言い方から、武力討幕に向けて、あらかじめサトウとの打ち合わせがあって、その通りうまく事が進んでいるということだ。しかも大坂に着いたら来い、というのだから、吉井はこれからサトウが江戸を発って、大坂に入ることをすでに知っているのだ。
 すなわち吉井は幕末の濃い期間に、頻繁に連絡を取り合う、英国エージェントだということが分かる。
 サトウは猫の手も借りたいくらい忙しかった。無駄な動きはできなかった。同じ日、土佐と薩摩の両藩から手紙が届いている。江戸に陣取るサトウの元には、勝海舟、吉井幸輔、後藤象二郎、陸奥宗光、伊藤博文、すなわちグラバー邸に集っていた幕府、薩摩、土佐、長州などすべての勢力から、刻一刻と情報が寄せられてきているのだ。
 
 「荷物が届かない」(11月28日付日記)。荷物というのは、スパイのことを指す。

 「29日、昨夜ラットラーに乗船・・・・・今朝早く蒸気を起こし、荷物が届いた。我々が江戸へ向うのとほとんど入れ違いに横浜に着いていたらしい」

 これほどしつこく江戸まで探し、日記に書きつけるくらいだから、小物ではない。大物なのである。
 だが、残念ながら誰なのか、判明しない。しかし空想にひたれば、やはり陸奥ではなかったか?
 その大物「スパイ」を拾って、11月30日にミットフォードと、戦争の火種くすぶる大坂に乗り出していく。

 龍馬暗殺まで、あと10日。

 パークスは、まだ横浜に構えている。一足遅れて大坂に出向いてゆくのだが、その前に、表向き中立を標榜するパークスが、思わずはしゃいで本音をハモンド外務次官に綴ってしまっている。28日付手紙だ。

 「半身不随の日本政府にかわり、明快な制度が生まれる可能性が大きいことをお伝えできるのは、じつにうれしい・・・京都が政府の所在地になる可能性がある・・・来年の初頭には、住居を大坂に移す必要が生じるかもしれない」

 予定通りだ。 

 龍馬の手紙に戻るが、ここまで述べれば手紙の謎があるていど、解けるはずである。

 一、陸奥にあげようとしている「脇差は」は、大坂から使いが帰らないので、いつになるか分からない。

 一、陸奥が使者に持ってこさせた「短刀」は、私が上げようとしている「脇差」より、いい品物だ。刀の中込の質や形もとても確かだ。
 大坂で研いだ刀が返ってきたら、お見せしましょう。

 一、私の「長脇差」を見たいとの希望、お見せしましょう。

 
 「刀」のやり取りが、不自然であることはすでに述べた。
 では、この手紙にある「脇差」「短刀」「長脇差」という「刀」はなにを指しているのか?

 
 ずばり「情報」である。「刀」の部分を「情報」に置き換えてみるとこうなる。


 一、陸奥にあげようとしている「情報」は、大坂から使いが帰らないので、いつになるか分からない。

 一、陸奥が使者に持ってこさせた「情報」は、私が上げようとしている「情報」より、いい品物だ。「情報」の中の質や形もとても確かだ。
 大坂で研いだ「情報」が返ってきたら、お見せしましょう。

 一、私の「情報」を見たいとの希望、お見せしましょう。


 差し迫った中、近江屋で龍馬は、必死になって情報を集めていたのだ。
 手紙からは、大坂を重要視していることが分かる。その気になる大坂の情報とは誰からのものなのか?

 暗殺のつい二ヵ月前、龍馬、サトウ、陸奥の三人は長崎にいた。
 長崎で一仕事をすませた龍馬は、約30日にわたる長崎滞在に終止符を打ち、ライフル銃1千丁を船に積み込んで、10月15日、下関へ向う。
 下関で陸奥と別れ、その足で博文、桂小五郎と会合を持つ。ほどなく土佐に入る。そこでライフルを降ろしたのち、土佐藩船「空蝉(うつせみ)」に乗り換え、大坂薩摩藩邸に入ったのは、11月2日のことである。

 一方、龍馬と別れたサトウがエージェントとなった遠藤謹助を密かに乗船させて、横浜を目指したのは、龍馬が長崎を発つ三日前の10月12日だった。

 サトウが横浜から大坂に移動したのは、12月2日である。この段階でサトウは「武力討幕」を積極的に口にしていない。むしろ「模様眺め」という中立に近い。おそらくパークスに釘を刺されていたのだ。

 龍馬が陸奥への手紙に綴った大坂の「情報」とは、一見、大坂にいるサトウからの「情報」のように推測できるが、そうではないと思う。

 サトウであれば簡単に連絡がつくはずだ。手紙文は切羽詰っていて、首を長くして数日待っているが、まだ連絡が取れないといったふうである。

 となると、鹿児島から大坂を目指している西郷隆盛と読み取るのが妥当だ。
 情勢は緊迫の度を増している。時局は、刻々と武力討幕に傾いている。この時、無血革命を目指す龍馬の頼るべきキーマンは、薩摩の西郷しかいなかった。
 ところが西郷は、武力討幕で腹は決まっているという噂がしきりに流れている。
 本当だろうか? 心が乱れる。
 だから龍馬は西郷の大坂到着を待って、真意を確かめたかった。
 その重大な西郷の情報に「脇差」という暗号を使った。

 ならば「短刀」とはなにか?
 おそらく英国、パークスだろう。陸奥はパークスと接触し、英国はあくまでも血を流さない革命を支持するという返事をもらって龍馬に渡した。
 ほっと胸を撫でおろす龍馬。だから、龍馬は陸奥が持ってこさせた「短刀」は、私の上げようとしている「西郷の情報」より「いい品物だ」と綴ったのではないか。
 
 「中心(なかご)の銘及形」とはなにか?中心とは刀の柄(つか)に収まっている部分だ。すなわちパークスの手に握られているサトウを指しているのではないか?パークスとサトウはどうも意見が食い違っているように見えたが、陸奥の報告で両者は一致している。すなわち「中心の銘及形」も「これはまさにたしかなるものなり」と書き綴ったと読み解ける。

 最後の「長脇差」は、そのまま長州の動きということになるだろうか。

 サトウは、大坂から後藤象二郎(土佐藩)と吉井幸輔(薩摩藩)に手紙を出す。後藤はまだ土佐におり、吉井は京都にいる。
 サトウは連日連夜、睡眠を惜しんで仕事に打ち込んでいる。動乱にそなえて、横浜から大坂に詰めるはずの英国第九連隊の兵士、50名のための兵舎の建設手配、各藩からもたらされる絶え間ない情報の処理と分析。
 
 スパイ一人一人に情報の価値は分からない。総合してはじめて状況が浮かび上がってくる。サトウの大阪オフィスは情報分析基地となっていた。

 12月6日、京都にいる吉井から返事がくる。

 多忙をきわめており、手が離せない。土佐から西郷が大坂に入るので、それを待ってはいかがかという内容だ。


 土佐藩とパークスが合意した無血革命。龍馬はそれを、実直に推し進めようとしていた。それが自分の信じる道であった。

 しかし、それを阻む人物がいた。

 岩倉具視だ。人間味に欠けていて冷徹。岩倉は朝廷でなにやら常に蠢いていて、常に黒い噂がつきまとっている男である。この年のはじめに孝明天皇が急死したが、その時も、岩倉による毒殺説が、しきりに流れたくらい危険きわまりない人物だ。

 孝明天皇というのは、日本の開国を徹底的に遅らせた張本人である。その偏狭なまでの攘夷思想は、諸外国にとって、まさに厄介な存在以外のなにものでもない。孝明天皇の死に、外国工作員の影がちらついているというのは、決して除外できる噂ではないが、孝明天皇が除かれると、岩倉があっという間にのしてきた。
 彼は薩摩の大久保と武闘派路線で一直線につながっている。どちらが持ちかけたかは不明だが、両者は人を殺して幕府を潰す、という過激思想で完全な一致をみていたのだ。
 反体制勢力は、大雑把に見ると二派に分裂していた。

 後藤、龍馬をはじめとする無血革命派。それに岩倉、大久保の武力革命派だ。
 長州の桂小五郎、品川弥二郎、広沢真臣も、過激派に傾いている。西郷の気持ちは揺れている。
 龍馬とのせめぎ合いになった。

 「大政奉還」などという余計なことをされては、武力蜂起の大義名分がなくなる。ところが龍馬はしぶとく実行した。
 それで風向きが変わった。徳川慶喜が穏便に辞職したわけだから、これ以上追撃することもなかろうと、おおかたの大名が矛を収めるかに見えた、その瞬間だった。岩倉、大久保一派は、崖っ縁でものすごい切り返しを見せる。
 「討幕の密勅」だ。すなわち辞表など認めない。あくまでも慶喜は処刑以外にないという朝廷の命令書である。

 これも岩倉たちのでっち上げ、偽装文だというのが今や定説だが、でっち上げでもなんでも、その文は過激だ。

 慶喜を賊と呼んで殺害を命じ、さらに京都守護職にあった松平容保(会津藩主)とその弟、京都所司代、松平定敬(桑名藩主)に対しても、速やかに処刑することが書かれているのである。
 かくして後藤、龍馬の「大政奉還」は紛い物として踏みつけられ、錦の御旗を高々と上げて皇軍となった薩長が武装蜂起したのである。 


 12月10日(新暦。旧暦では11月15日)夜、龍馬は近江屋にいた。

 土佐藩士、中岡慎太郎と二階の奥で話し込んでいた。

 その時何者かが、二人を斬殺。ボディガードの藤吉もやられた。

 この事件は、不可思議な点だらけだった。最たるものは、記録らしいものがなに一つないことだ。
 殺されたのは海援隊の坂本龍馬であり、陸援隊の中岡慎太郎だ。両人は組織の隊長であって、もはや小者ではない。その二人が斬殺されたというのに、その状況を留める書き付けがないのだ。

 事件直後、現場に駆けつけたと言われているのは、谷千城(土佐藩)、毛利恭助(土佐藩)、田中光顕(土佐藩、陸援隊)、白峰駿馬(海援隊)、川村盈進(土佐藩医)、そして吉井幸輔(薩摩藩)。
 他には龍馬の使いから戻ったという本屋の倅、峯吉がいた。

 調べてゆくと、公に伝わっている証言の多くはそれ自体、めちゃくちゃである。他の証言としては事件後、30年、50年とへて、現場に駆けつけた人達によってぼそぼそと語られたものが拾えるくらいで、それにしても辻褄の合わないものばかりである。

 このことは重要だ。まさに、そこにこそ龍馬事件の本質があると言える。


 土佐藩邸は通りを挟んで近江屋の目と鼻の先だ。すぐ隣で、鮮血飛び散る大立ち回りがあった。しかし土佐藩の記録もない。医者、川村の証言もない。そしてなんども言うが、海援隊も陸援隊も駆けつけているが、どちらも記録を残した形跡はないのだ。
 
 龍馬と藤吉は絶命していたが、中岡慎太郎は、どうやら二日間生きていたという。これが本当だとしたら、当時の稚拙な手当てで、生存していたのだから、はじめはかなりの意識があったのではないだろうか。ということは、もっと慎太郎はしゃべっていたはずである。しかし、霧の中だ。

 傷の具合はおろか、刺客の人数すら特定できていないのだ。さらに言えば、近江屋の主人、井口新助夫妻が一階の奥にいたというのに、彼らからもまともな証言は聞こえない。
 およそ10名近くが事件後、現場を囲んでいた。その10名が10名とも固く口を閉ざしている。いったいどうしたことか。

 だれが考えても口止めされていた、としか思えないではないか。そう、しゃべることを断ち切られていたならば、すべてのことが納得できるのだ。
 
 では、だれが口を封じたのか?集まった10名近く全員を完璧に抑えられるほど、強力なパワー、力をもった組織だということになる。

 明治を迎えても、事件に関する証言はない。このことから、明治新政府になっても怖ろしいほどの権力を持ち続けた連中だということが推測される。

 そうなれば岩倉、大久保だ。そうとしか思えない。彼らは龍馬抹殺を決断し、肝の据わった殺し屋を夜の近江屋に送りつけた。この確信は揺るがない。

 その殺し屋とは誰か?

 わずかな状況や口伝から、どうやら共通点が見えてくる。
 まず、多人数で押し入った形跡がないということだ。そしてもう一つ、龍馬も慎太郎もほとんど反撃する間もなく、斬られている事実だ。
 剣の心得のある二人が、そろいもそろって満足に打ち返せなかったというのである。
 そして最後の疑問は、龍馬のピストルだ。撃っていないのである。
 ピストルは寺田屋事件で落とし、持っていなかったのではないか、という見方もあるが、それは違う。その二ヵ月後、龍馬は新婚旅行先の鹿児島で、ピストルを手に鳥撃ちに興じている。

 ピストルを撃ちまくって助かった経験を持つ者は、誰でもその威力を知ることになる。
 そうなれば、物騒な京都、なにをおいてもピストルを保持するのが心理だ。肌身離さず龍馬の元にあった。だが撃てなかった。それほど、あざやかに斬られたのである。そしてそれほど、至近距離での暗殺だった。

 そこまで近寄れる相手は誰か?一瞬の隙を突けるのは誰か?
 顔見知りである。警戒心を解く人物。龍馬にとって、あってはならない”まさか”が起こったのだ。

 不審の斬り合いで浮かび上がるのは、ただ一人をおいて他にはいない。
 中岡慎太郎、その人である。話し込んでいた慎太郎なら、龍馬がピストルを抜く暇もなく斬りつけられるはずである。

 では中岡慎太郎とは何者か?
 鍵は陸援隊にある。

 陸援隊は、その名前から龍馬ひきいる海援隊の陸上バージョンだと思いがちだが、ぜんぜん性格が異なる。
 海援隊が、営利を目的としているいわば「会社」のようなものであるのに対し、陸援隊は完全な「戦闘軍」だ。新撰組や京都見廻組に対抗する形で結成され、その任務は諜報と戦闘である。
 人員も海援隊よりずっと多く、人斬り部隊は約300名を数えている。新撰組さえ凌駕している人数だ。
 
 その隊長が中岡慎太郎である。

 では慎太郎はどういう思想の持ち主だったのか?
 ずばり、判で捺したような武力討幕派である。幕府を倒すために武器を取って立つという視点だ。とうぜん薩摩の大久保、西郷とつながっている。

 薩長土による武力討幕という流れは、水面下であらかた決していたと言っていい。バックは英国工作員、サトウである。

 大きく舵を切ったのは、龍馬暗殺の半年前だ。土佐と薩摩が手を結んだ「薩土倒幕密約」。この「密約」こそ、武闘派の要だ。「イカルス号事件」の約40日前に当たる・
 薩摩側の出席者は小松帯刀、西郷隆盛、吉井幸輔だが、土佐側は中岡慎太郎と板垣退助ら。
 その密謀の場で中岡慎太郎と板垣は、土佐藩が佐幕派(幕府派)に傾くなら腹を切る、と命をかけて言明したとおり、「薩土倒幕密約」は、土佐藩を過激な共同戦線に引きずり込むための密約だったのである。

 それからおおよそ一ヵ月後、今度は密約でない「薩土盟約」が結ばれる。こちらはなに憚ることのない陽の当たる薩摩と土佐の協力同盟で、後藤象二郎など土佐藩の重役が出席、龍馬も陪席している。

 陰では過激派同盟を結び、表では穏健派同盟を築くというダブルスタンダード。岩倉、大久保の歪な戦略だ。

 中岡慎太郎は岩倉具視とねんごろだった。
 11月13日には岩倉を伴って、薩摩藩邸を訪問し、吉井幸輔と会見している。
 この時期に注目して欲しい。後藤、龍馬によって鳴り物入りの「大政奉還」建白書が提出された二週間後である。その時期に、武力討幕の頭目、岩倉具視を伴い、これまた武力討幕の牙城、薩摩藩邸に中岡慎太郎が入ったのだ。どう見ても反大政奉還、後藤、龍馬を裏切る武力蜂起への意思統一としか思えない。
 
 静かな殺気が流れている。慎太郎はこのころから、邪魔な龍馬の動向を監視する役目を負っていた、と見るのが妥当だ。

 慎太郎の性格は冷厳だ。彼の陸援隊勧誘文たるや、苛烈そのものである。
 「邑(とも)ある者は邑を投げ捨て、家財ある者は家財投げ捨て、勇ある者は勇を振るい。智謀ある者はその智謀を尽くし、一技一芸ある者はその技芸を尽くし、愚ある者はその愚を尽くし、公明正大、おのおの一死をもって至誠を尽くし、しかるのち政教をたつべく、武備充実、国威張るべく、信義は外国におよぶべきなり」

 龍馬にこれほどの過激さはない。慎太郎の方は死をもって誠を尽くせとぶち上げ、そして信義は外国におよぶべきと、きちんと開国を押えている。
 正々堂々たる「武力討幕開国派」だ。

 「議論周旋も結構だが、しょせん武器をとって立つ覚悟がなければ空論に終わる。薩長の意気をもってすれば近日必ず開戦になる情勢だから、容堂公もそのお覚悟がなければむしろ周旋は中止されるべきである」

 陸援隊員、本山只一郎にあてた手紙だ。容堂に、武力討幕の覚悟がなければ、幕府との話し合いなど無用だ、と反駁しているのだ。
 これはアーネスト・メーソン・サトウの路線とぴたりと一致する。
 武力派と穏健派のつばぜり合いが続く。裏表のない、見たままを歩く慎太郎の目に、龍馬の無血革命路線は、もはや幕府に加担する、慶喜延命策と映っていた。

 サトウは大坂に情報本部を構え、公然と情報をかき集め、かつ矢継ぎ早に指令を発していた。

 サトウの日記に、吉井幸輔が登場する。龍馬暗殺の四日後のことである。
 武者震いをしながら、まず戦線の報告を先に受ける。
 
 「12月14日、吉井幸輔が来た・・・吉井は次のように語った・・・薩摩、土佐、宇和島、長州、芸州(広島)の間で連立が成立しており、われわれは主張を貫徹するため、事態をとことんまで推し進める決心でいる・・・」

 吉井の語った「事態をとことん進める」というのは、戦いの幕は切って落とされようとしている、倒幕までやりとげるということだ。
 それから、吉井は龍馬暗殺についても声をひそめて言及する。それを受けたサトウは、そのことをこう綴っている。

 「わたしが長崎で知った土佐の才谷梅太郎(坂本龍馬の生家の姓だが、偽名として使用)が、数日前、京都の下宿先で、まったく姓名不詳の三名の男に殺害された」

 吉井は事件現場に駆けつけている。その吉井から詳しい説明がなされているはずである。だから犯人は三名などと断定しているのだが、サトウが記したのは、たったこれだけで、すこぶるそっけない。

 サトウが日記で扱った龍馬は、知る限りでは三回、それもほんの数行だ。
 最初はイカルス号事件捜査で、サトウが土佐から「夕顔」に乗って長崎に帰ってきた時点である。
 「最初平山(外国総奉行)らは、佐々木か才谷(龍馬)かが、長崎丸に同船してゆくことを望んだのだが、ふたりとも忙しくてその暇がないと断ったらしい。土佐に対して政府(幕府)がいかに権威をもっていないかを知るのは、じつに気持ちがよい」

 ここでは思い切り佐々木と龍馬の味方だ。
 ところが翌日の日記で、トーンはがらりと変わる。

 「さらに才谷氏(龍馬)も叱りつけてやった。かれはあきらかにわれわれの言い分を馬鹿にして、われわれの出す質問に声を立てて笑った。しかし、わたしに叱りつけられてから、かれは悪魔のようなおそろしい顔つきをして、黙りこんでしまった」

 この描写は驚きだ。英国人が「悪魔のような」と形容する場合、ほんとうに憎悪した相手の場合に限られる。
 文に温もりがない。エージェントの龍馬を、サトウは大筋ではかばっているものの、伊藤博文や五代友厚を書く時のような血の通った表現は見られないのだ。
 そこには、龍馬は最初から遠い人間だ、といった突き放した感情がにじみ出ている。
 
 「まったく姓名不詳の三名の男に殺害された」
 これにしても同情のない、無機質な言い方だ。
 これには深い訳がある。サトウという男は、武力討幕工作に深く没頭してきている。
 しかし、龍馬は無血革命にこだわった。

 須崎に停泊中、サトウは訪ねてきた後藤と龍馬を説得した。龍馬は突っぱねる。あくまでも強気で「大政奉還」路線を曲げない。強気の源はなにか?
 サトウより権力のある人物が、龍馬の後ろにひかえていたとしか考えられない。そうなればパークスただ一人である。
 そこから龍馬は、パークス直々の諜報部員だった可能性が導き出される。自分の上司直属のエージェント。それだけにサトウはやりづらかった。

 イカルス号事件でも、龍馬はパークスに影のように付いて回っている。パークスが大坂に行けば大坂に現れ、土佐に来れば、土佐に来る。そのとき徳川慶喜の親書すら携えているのだ。

 英国、幕府、そして土佐。なんども言うが、龍馬はジェームズ・ボンドを彷彿とさせる優秀な諜報部員で、それで飯を食っている。そう考えれば、サトウが煙たがり、あくまでも距離を置いたというのはとことんうなずける話である。

 おおまかに分けてパークスは幕府を、サトウは反幕色の強い地方の大名を受け持った。
 二元外交だが、どちらも独自の諜報部員が必要なことに変わりはない。
 パークス直属の諜報部員の代表格が勝海舟であり、坂本龍馬であり、フリーメーソンの西周だった。
 これは勝手な存念、出すぎた邪推ではない。どう考えても、二つの路線が存在していたのだ。
 
 パークスは公使としての立場がある。外交官の特質上、さらには幕府の情報を取り入れるためにも、公平中立を公言しなければならない。薩長が台頭しても、過激な言動は慎み、せいぜい口にしても無血革命までである。
 その考えは、後藤、龍馬と通じている。そして龍馬は、最後の最後までパークスのソフトランディングを信じていた。だから龍馬は、サトウの武力討幕に逆らい、与しなかったのだ。サトウは蟠(わだかま)った。その様子をサトウは「悪魔のような顔つき」と形容し、憎悪したのではないだろうか。
 闇にまぎれた土佐でのやりとりで、サトウの心から平和革命をうたう龍馬がすとんと外れた。
 龍馬が錯覚していたのは、パークスの態度だ。パークスは平和路線で徳川慶喜を手玉にとり、龍馬、勝、西たちを動かす一方、部下、サトウを放し飼いにしており、武闘派の謀略を事実上容認していたのである。
 無血革命と武力革命の明瞭な区別なく、両方にカードを置く。どちらに転ぶにせよ、倒幕という目的は達成する。大事の前の小事。権力者というのは往々にしてそういうことをするものだ。
 龍馬は読み取れなかったが、サトウはパークスを読み切っていた。

 
 ではもう一人、民間英国諜報部員グラバーは革命をどう見ていたか?
 やはり武力と無血の両睨みだった。そしてその二つをつないでいたのは、ただ一人グラバーである。民間人なら、武力であろうが、無血であろうが自由である。
 
 さらに龍馬に対する思いはどうであったか?

 そもそもグラバー関係の書類は皆無に近いのだが、晩年彼自身を語ったインタビュー記事が唯一、残っている。その中のある部分、ほんの少しだが龍馬に触れる行がある。

 亀山社中隊員、近藤長次郎(土佐藩士)の切腹についての箇所だ。
 近藤切腹事件は、亀山社中のまったくの恥部である。
 近藤は土佐藩の人間だが、薩摩の家老、小松帯刀経由で、グラバーに単身イギリスに密航することを頼み込んだ。グラバーはそれを快く引き受ける。しかし、それが亀山社中の仲間に露見した。

 亀山社中の規定により近藤は断罪、即切腹させられたのである。
 グラバーのインタビューは、その事件に及んでいるが、そこから龍馬へのいい感情は決して伝わってこない。むしろ逆である。

 つまり純真な若者を死に追いやった冷徹な責任者として、龍馬への嫌悪感さえ漂っているのだ。
 インタビューはグラバーの晩年だから、龍馬はすでに暗殺という同情されるべき結果を招いていたにもかかわらず、グラバーの感情はまだ許すことをやめない。
 グラバーもまた、ある時期から龍馬を煙たく感じていたようである。商売を教え込み、自分の下で使いたかったが、龍馬はするりと抜けて、天下国家の方へ駆け出していった。
 ともあれ龍馬はグラバー、サトウ、薩摩、長州、そして同志だと思っていた後藤象二郎にまで、撥ね除けられていたのである。自由に生きたが故に、龍馬は行き詰った。
 暗殺の直前まで、交信し合う陸奥。彼にしても、そのころのサトウの日記に登場しており、英国武闘派の息がかかっている。

 しかし龍馬は、武装蜂起を止めようと獅子奮迅の働きを見せていた。

 - 薩摩軍はどう動いているのか? 長州は?  西郷は?
 サトウは仮面を脱ぎ捨て、露骨に武力蜂起を促していると聞くが、本当だろうか?
 パークスはどうした。平和革命を唱えていたではないか。いったいどうなっている。パークスさえ捕まえられれば、薩長の過激な蜂起は防げる -

 
 京都近江屋に陣取った龍馬は、あえいでいた。
 陸奥と連絡を取った。陸奥は神戸塾時代から勝海舟ともつながっており、大物スパイの一人だが、使いの者に虚飾をほどこした聞き心地のよい返事を記す。

 「パークスは仲裁に入るはずだ」
  龍馬は喜び、手紙を書いた。

 「受け取った短刀はすばらしい」

 次は未来を握る西郷だ。3000の兵を連れ、大坂に入ると聞いている。しかし使いは、まだ帰ってこない。

 「さしあげんと申した脇ざしハ、まだ大坂の使がかへり不 申故、わかり不 申 ・・・ 大坂より刀とぎかへり候時ハ、見せ申候」

 その大坂の使者とは、想像力を膨らませれば吉井幸輔ではなかったか。しかし、その吉井とてサトウの手駒、武力討幕派のために動いている。
 暗殺の約一ヵ月前の11月13日(旧暦10月7日)、望月清平に出した龍馬の手紙が残っている。

 それには、昨夜、龍馬は吉井の伝言を受け取ったと書かれている。吉井は、近江屋は危ないから薩摩藩邸に居を移すよう龍馬にすすめたというのである。
 しかし龍馬はそれを断る。龍馬の手紙には薩摩藩邸は嫌だと書いてある。命を狙われていると知っている龍馬がなぜ、かたくなに拒否し、もっとも無用心な近江屋に潜伏したのかは、もうお分かりだろう。

 武力一色の薩摩藩とは、決定的に対立していたからだ。
 龍馬は続いて土佐藩邸にも泊まりたくはないと書いているが、これも理解できるはずだ。手紙の中では「御国表の不都合の上」という表現を使っているが「土佐藩の不都合」というのは、土壇場になって龍馬を無視し、薩長が掲げる暴力革命やむなしに傾いたからである。

 四面楚歌だった。

 対立の序曲は「大政奉還」の建白書を出した時(旧暦1867年10月3日)に始まっていた。その刹那、龍馬は邪魔な存在として彼らの前に立ち塞がったのである。

 龍馬は、同じ日本人の殺し合いがいやでたまらなかった。目指すは無血革命。彼にとってはかけがえのないものだった。そのためには孤軍奮闘、命にかえても守るべきものだった。誰にも律することのできない大物諜報部員、それが龍馬だった。

 「大政奉還」を葬るために、薩摩と岩倉は「討幕の密勅」を偽造し、しゃにむに武力革命をぶち上げる。それは「薩道(サトウ)」を名乗り、薩摩に同化しているサトウも承知の上だ。

 英国、薩摩、岩倉、長州の足並みはそろっていた。あまつさえ土佐の後藤象二郎さえもだ。

 邪魔者はただ一人、龍馬だった。』

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