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2010年2月

龍馬伝から思うこと

全くといってよいほどテレビを観ない人間が、テレビにはまってしまいました。

 「龍馬伝」が始まったからであります。

 幕末の時代を駆け抜けた龍馬。
 そして今、必要とされるものがこのドラマには隠れています。

 坂本龍馬を一躍日本に知らしめたのは作家の故司馬遼太郎氏でありました。
 それほど「竜馬がゆく」は多くの読者を魅了して、人々は龍馬の生き方に感銘を受け、龍馬のように生きてみたいと強い憧れを感じたのです。

 幕末期、あの当時の日本はまさに激動の時代でありました。尊皇攘夷に、倒幕、佐幕、欧米からの開国を要求されて揺れ動く日本。その中で龍馬は生きたのです。

 
 ・・・それで小生は思うのです。
 このドラマが始まったということは、何か意味があるのではないかと。

 そして、ドラマをドラマで終わらせず、今こそ龍馬の思いを深く知って、彼の生き方に憧れを持つというより、実践に移すときではないだろうかと・・・。

 そして深く知るという意味では、不思議にこの「龍馬伝」の描き方は今までと違うような感覚を感じてしまうからです。
  

 今、日本はグローバル時代の狭間の中で、もがき苦しんでいるかのようです。
 政治とカネ、普天間問題、温暖化、そして百年に一度の大不況などなど。

 あたかも幕末の時代に開国か攘夷で揺れたように、現在、グローバルという国際化の流れの中で、日本もそれに沿っていくのか、それとも国益を守っていくのか。

 政治的な話を致しますと、今の与党の進めようとしている政策は国際化の推進であるかのようです。
 そして、旧与党の基本は保守で、それはすなわち国益を優先させる考えであり、今起きている争いの根はその部分にあるように思えるからです。

 つまり、鳩山政権、小沢氏が中心となって行おうとしている、東アジア共同体や外国人参政権は当時の開国にあたり、それに反発する攘夷というものが国益を重視する考え方だと思えるからです。

 それで「第二の開国」という問題に対して、日本人同士が争い合う。
 それが今の政界なのです。

 そして国民は、深刻な経済不況の真っ只中に置かれたままで「政治とカネ」を争点にした日本人の同士討ちを、眺めているのではないでしょうか。
 
 はたして、どちらが正論なのか・・・・・。

 小生はその中で今こそ多くの国民は坂本龍馬という人物の生き方を深く知って、これからの生き方、新たなる思想とはを、考えなければいけないと思ってしまうのです。

 龍馬の生き方。
 そこには、これからの時代を生きるヒントが、隠されているように感じるのです。

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見えない世界を考える 2

 元気の秘訣といいますか、見えない世界を考えていると、そのヒントが見えてくるようです。

 今回も岡田茂吉の論説を以下に載せさせていただきます。

『 病気とは何ぞや・アメリカを救う 
  昭和27(1952)年10月22日岡田茂吉

ーアメリカを救うー

 私は標題の著書を目下執筆中であるが、左の一文はその中の一項目で、参考になると思うから、載せる事にした。

ー病気とは何ぞやー

 序論にもある通り、現在米国における病気の漸増は何がためであるかを、その根本から説いてみるが、まず病気なるものの発生原因であるが、驚くなかれ病気というものは医療が作るのであって、特に薬剤がその中心をなしているという事実である。

 つまり病気を治し、病人を減らそうとするその方法が、反対に病気を治さないようにし増やしているという、到底信じられない程の迷盲である。そうしてこれは説明の要のない程明らかであるにかかわらず、それに気が付かないのであるから、全く二十世紀の謎といってもよかろう。 それどころか益々医学に信頼し、これを進歩させれば病気は解決出来るものと固く信じているのである。
 ではそのような不可解な原因はどこにあるかというと、それは医学の考え方が逆になっており、病気をもって悪い意味に解釈しているからである。それをこれから徹底的に解説してみよう。

 本来人間なるものは、生まれながらにして例外なく先天性毒素と後天性毒素とを保有している。
 先天性毒素とは無論親からの遺伝であり、後天性毒素とは生まれてから体内へ入れた薬毒である。というと何人も意外に思うであろう。何となれば昔から薬は病気を治すもの、健康を補うものとの観念が常識となっていて、良い薬さえ出来れば病気は解決するものと信じ、それを医療の主眼としているからである。
 特に米国は薬に最も重点を置き、新薬発見に非常な努力を払っているのは誰も知る通りである。ゆえにもし薬で病気が治るとしたら、病気は漸次減らなければならないはずであるのに、逆に益々増えるのはどうした訳か、これ程理屈に合わない話はあるまい。
 元来薬というものは、地球上ただの一つもないのであって、ことごとく毒物であり毒だから効くのである。それはどういう意味かというと薬という毒の作用によって病気症状が減るから治るように見えるので、実は治るのではないのである。

 では薬がなぜ毒物であるかというと、そもそも人間が口へ入れるものとしては、造物主が人間を造ると同時に生を営むべく用意されたのが食物である。
 そうして食物にも人間が食うべきものと、食うべからざるものとは自ら別けられている。すなわち食うべきものには味を含ませ、人間には味覚を与えられているのであるから、人間は食いたいものを楽しんで食えば、それで栄養は充分摂れるので、これだけを考えても造物主の周到なるは分るはずである。
 この意味において生きんがために食物を摂るというよりも、食物を摂る事によって生きてゆけるので、ちょうど生殖と同様子を得る目的で男女が営むのではなく、別の目的の営みで偶然子は授かるのであるから、神秘極まるものである。

 右のごとく人間の体内機能は、食物として定められた物以外の異物は完全に処理出来ないようになっているので、薬は異物である以上含まれている栄養分だけは吸収されるが、他は体内に残ってしまう。これが薬毒であって、しかも厄介な事にはこれが各局部に集溜し、時の経つにつれて固結してしまう。
 その集溜個所としては神経を使うところに限られている。神経を使うところといえば、もちろん上半身特に首から上で、頭脳を中心とし眼、耳、鼻、口等であるから、そこを目掛けて毒素は集中せんとし、一旦頸の周りに固結する。いかなる人でも頸の周り、肩の辺に必ず固結をみるであろう。これが凝りであって、ある程度に達するや自然排泄作用すなわち浄化作用が発生する。その場合発熱によって毒結は溶けて液体となり、咳、痰、鼻汁、汗、下痢、熱尿等になって排除されようとする。これを名付けて感冒というのである。

 ゆえに感冒とは毒素排除の過程であるから、少し苦しいが我慢して自然に委せておけば順調に排泄され、体内は清浄化し治るという実に結構なものであるから、感冒とは全く簡易な生理作用で、神の摂理であるから、大いに感謝すべきであるにかかわらず、それを知らない人間は、この浄化の苦痛を反って悪い意味に解釈し、これを止めるべく考え出したものが医療であるから、いかに間違っているかが分るであろう。

 そうしてこの浄化作用なるものは、人体の活力が旺盛であればある程発り易いので、これを停めるには人体の活力を弱らせるに限る。
 そこで薬と称する毒を用いたのである。
 昔から草根木皮、鉱物、動物の臓器等から探り出し、煎じたり、粉末にしたり、抽出したりして水薬、丸薬、塗布薬、注射薬等色々な形にして浄化停止に応用したのである。それには毒が強いと生命に関わるから、微弱にして、少しずつ服ませる。このため一日何回などと分量を決めたので、よく効く薬とは中毒を起さない程度に毒を強めたものである。

 このように薬毒をもって溶解排除せんとする毒素を固めて来たので、今日の人間がいかに有毒者であり、病気が起り易くなっているかは、近来予防衛生などとやかましく言ったり、感冒を恐れるのもそのためである。
 また人間の寿命にしても六十余歳となったといって喜んでいるが、これも大変な誤りである。というのは人間病さえなければ百歳以上は楽に生きられるのに、百歳以下で死ぬのは病による不自然死のためで、無病となれば自然死となる以上、長生するのは当然である。
 
 右のごとく医療とは病を治すものではなく一時的苦痛緩和手段で、そのための絶対安静、湿布、塗布薬、氷冷、電気、光線療法等々すべての療法は固め手段ならざるはないのである。
 その中に一、二異(ちが)うのは灸点と温熱方法であるが、これも一時的熱の刺戟によって、その個所へ毒素を誘導させるので、楽にはなるが時間が経てば元通りになるから何にもならないし、またラジウム放射で癌を破壊する方法もあるが、これも癌だけの破壊なら結構だが、実は組織をも破壊してしまうから、差引プラスよりマイナスの方が多い訳である。

 以上のごとく現在までの療法という療法は、徹頭徹尾固め方法であって、治す方法とは毒素を溶かして排除させる以外決してないのである。何よりも医師は治すとは言わない。固めるというにみて明らかである。 しかも固め方法の内最も有効なものが薬であり、その薬が病原を作るのであるから、医療を受ける程余病が発り易く悪化するのは当然である。
 その結果ついに生命の危険にまで及ぶのである。それについてこういう事がある。
 治そうとして熱心に高貴薬など用いる患者程成績が悪く、その反対にどうでもいいと思う患者程治りがいいという話は、医師からよく聞くところである。
 また衛生に注意する者程弱く、無頓着の者程健康である事や、医師の家族や病院の看護婦などが多病であるのもよく聞くところである。面白い事には稀な健康者、長寿者に訊いてみると、自分は病気した事がないから、医師や薬の厄介になった事はないなどというが、吾々からみればそれだから健康であり、健康だからそうであるので、この点大いに味わうべきである。 』

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見えない世界を考える 1

意識レベルを研究されているある方のお話を聞いて一冊の本を注文しました。

「パワーか、フォースか」デービッド・R・ホーキンズ著 三五館

 下の写真がその本との御縁であります。

 Image6661_3

 それでこの経緯につきましてお伝えさせていただきます。
 
 実は数年前になりますが、小生は大変お世話になっている方から、天然鉱石ミクロパウダーという貴重なものをいただいたことがありました。
 でも、何に使うというでもなく自宅に置いてあるだけでありました。

 それで話は変わりますが、昨年、勾玉の不思議な魅力について聞く機会があったので、石の不思議に思いを馳せて以下の日記を書いたのです。

 http://tanjyun-tenuki.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-8325.html

 そしたら、ちょうどその頃に冒頭の方からレーベンという天然鉱石活水装置の御縁まで授けていただけたのです。
 真にありがたいことでありました。

 また、これも昨年の話ですが、たまたま足がつったときに、たまたまそのミクロパウダーに触れてみたら、途端に痛みが治まった体験に遭遇しました。
 そして、たまたま知人の趣味が陶芸で、その方にもミクロパウダーを差し上げたら、たまたま奥さんの身体の痛みもそのパウダーで和らいで、ご主人共々驚かれてしまうという嬉しい出来事も重なったのです。

 そして、さらにはその知人が三重県伊賀で産出される400万年前の珍しい土が手に入るという話をされたのでした。
 このように最初はあくまでも点として起きた事柄が知らず知らずにいつのまにか線で結ばれてしまったような、今回の勾玉を作るようになっていった流れとは、今にして思えば、まさにたまたまの連続からたまたま生まれたような、そんな不思議な体験でありました。

 それで出来上がった勾玉の波動的な力というか、意識レベルというものを調べていただくことも出来たのです。
 
 そして結果を聞いて驚きました。
 良い結果が得られたということでした。
 
 そこで、詳細を質問させていただきましたら、以下のサイトを教えていただくことが出来たのです。

 http://plaza.rakuten.co.jp/jifuku/18000

 以上が、今回の日記を書こうと思った経緯であります。


 それでここから本題となりますが、まずは岡田氏の論文をご覧ください。

「 - 無機から有機へ -

『結核の革命的療法』岡田茂吉 昭和26(1951)年8月15日 

 前項に述べたごとく、病気の本体は霊の曇りであり、この曇りから黴菌は発生するという、その順序を詳しくかいてみるが、初め透明体である人霊に曇りが発生するか、または濁血の移写によって曇りが出来る訳は、既にかいた通りであるが、しからば曇りからなぜ病菌が発生するかというと、曇りの濃度化がある程度に達するや、自然に超微粒子が発生する。

 この原理こそ最高科学であって、一層判り易くするため、反対に考えてみる。
 すなわち天空の広さを仰ぎ見る時、これは無限大である。としたら今度は小さく考えて見ると、地上の一切は無限小である。
 というように積極即消極である。としたらこの理は人体にも当はまる。
 すなわち霊の曇りといえども超極微粒子から成立っている。すなわち不断の浄化作用によって濃度化し、個体化した霊に植物性超微粒子が発生するのである。
 これは何がためかというと、元来曇りとは水素の集合である以上、植物発生には都合がいいからである。
 そうしてこれが漸次成育し、ついに有機化してしまう。すなわちこれが黴菌の卵子であって、この卵子が成育して最初の黴菌となるが、この程度ではもちろん顕微鏡では視る事は出来ない。しかし最早生物となった黴菌は、食物が必要となり、互に食い合いを始める。
 すなわち弱肉強食的生物の自然原則である。言うまでもなく生存競争である。もちろん黴菌群中にも強者が現われ、弱者は淘汰され、強者は益々太るという訳で、この強者こそ顕微鏡で捕捉されるまでになった黴菌であって、この点人間社会と酷似している。

 右のごとくであるから、病原とは全く最初に発生した霊の曇りであるとすれば、この曇りを解消する以外、根本的治病の方法はあり得ないのである。ところが現代医学は再三説明した通り、病原である曇りの発見までには到達していない以上、真の医学とは言えないのである。

 最後に、結論として言いたい事は、右の曇りを解消するその方法である。これが可能でなくては、いかに病理の根本が判ったとしても、何ら意味をなさないのはもちろんであるが、私はこの方法を発見したのである。
 すなわち、浄霊法と言って、現に絶大なる効果を挙げつつあるのである。しからば浄霊によって、なぜ曇りが解消されるかというと、実はこの原理こそ最高の科学と言うよりも、最高の宗教原理であって、これを追求すれば神霊の実体にまで到達するのであるが、この著は第三者に読ませるのが目的である以上、出来るだけ科学的に解き、宗教的解説を避けたので、読者は諒せられたいのである。 」

 この論文に対して医学博士の三好基晴氏は次のように述べられました。

 「長年、多くの科学者は物質を細かくしていくとどこに行き着くのか、との疑問から物質の最小単位の粒子の存在を研究し続けています。
 そして分子、原子、陽子、中性子、電子まで判ってきました。しかし、これらは究極の最小物質の粒子ではないことが証明されました。
 
 中性子や陽子は六種類のクォークと呼ばれる粒子から成り立っています。その六種類はアップクォーク、ダウンクォーク、ストレンジングクォーク、チャームクォーク、ボトムクォーク、トップクォークと命名されました。
 また、電子も六種類のレプトンと呼ばれる粒子から成り立っています。その六種類は電子、ミューオン、タウ粒子、電子ニュートリノ、ミューニュートリノ、タウニュートリノと命名されました。今後研究が進めばさらに小さい粒子が発見されるでしょう。

 御教えに「すなわち天空の広さを仰ぎ見る時、これは無限大である。としたら今度は小さく考えて見ると、地上の一切は無限小である」と示されています。
 このことは現代科学においても「物質をどんなに細かく分けても、次々と無限の粒子があるだけで究極の最小物質を見つけることはできない。その理由は物質の最小単位は無限小であるからだ」と物質無限小を唱えている学者もいます。また、これまでの理論では説明つかない未知の粒子が存在していると分かってきました。
 物質の粒子が無限小であることが科学的に明らかになれば、どこかで霊子を発見することが出来るでしょう。そして人体は身体と同じ形と大きさの霊体があることを証明できます。

 また、現代科学においてはトマトに含まれているビタミンCも、トマトから抽出精製した高純度のビタミンCも同じ物質であると考えられています。しかし、未知の細かい粒子が発見されてくるとこの違いが明らかになり、トマトに含まれているビタミンCは人体に有害ではないが、精製したビタミンCは人体に有害であることが証明されるでしょう。
 さらに薬剤の有害な薬毒粒子が発見され、薬剤を飲むと薬毒粒子が細胞内に残留することが明らかになれば薬毒が証明されます。
 そして、病気をすることによって細胞内の薬毒粒子が消滅することも明らかになれば、病気は浄化作用であることが証明されます。

 つづく

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ある方の日記より・・・

  小生のお世話になっている方が「龍馬伝」の感想を日記にされたのですが、小生はなるほど仰るとおりだなぁと強く感じてしまいました。
 それで以下に紹介させていただきます。



『 ある方の日記より  

たっくさんの人が、龍馬伝について書いてます。

大河ドラマ見たことがない妹一家が、
小2の甥っ子含め、皆で見ているそうです。

おもしろいです。

最初、福山くんが龍馬をやると聞いた時には、
えっえ~ん、イメージちゃうし~と思ったのですが。

これが、見ているうちに、
もう福山くんしかないやろうと。
そう思ってしまうくらい、良い感じです。
予想を遥かに上回ってました。

むっかし、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んで以来、
幕末の中では、竜馬と西郷さんと勝海舟が好きになったのですが、
竜馬が活躍してからのストーリーだったので、
今回のように、まだ土佐にいた時の、幼いころからのストーリーを追っていくというのは、竜馬という人間を知るということでは、とても新鮮な感じがします。

何を成し遂げた人か…ではなく、どんな人間だったか。
どうして、あんなことを成し遂げられたのか。
ヒーロー的にではなく、人間としての成長を追っていく楽しみがあります。

昨日見たストーリーで印象に残ったのは、
同じ「黒船の脅威」を、どう捉えるかが、人それぞれだったことです。

幕末の歴史でややこしいのが、尊王攘夷派や、倒幕派や、開国派や、色々な派が入り乱れて、誰がどれかわからなくなるところだったんですが。

そういう側面からではなく、
それぞれの反応によって、そもそもその人がどういう考え方をする人間なのかっていうのが、よく表れていたような気がします。

黒船を見て、「アメリカをこの目で見るチャンス!」と捉えたのが、吉田松陰。
どう対処するべきかを「商人が膝を打つ」視点から考えたのが岩崎弥太郎。
とにかく外国人をやっつけなくちゃって考えたのが武市半平太。

人間って、ひとつの出来事にぶつかった時、
それまで育った境遇や、養われた考え方、現在置かれた境遇なんかが、どばっと出てくるんだなってすごく実感してしまいました。

竜馬は、「刀なんか役にたたない。剣術なんてやってても何の意味があるのか。何かしなくちゃ、何かしなくちゃ」って思うわけなんだけど、その「刀なんか役にたたない」って思っちゃうとこが竜馬らしい。
既存の価値観を疑ってかかれる。
ま、そこが未熟だってんで、松陰さんにも、千葉先生にも怒られちゃうわけなんですけども。

けどけど、もがいてもがいて、松陰先生に
「お前にはお前にしかできない使命がある。それはお前の心の中にある。自分の心を深く深く、よぉ~っく見てみろ!」って言われ、
気付いちゃうの巻。
千葉先生に、
「黒船には、刀では勝てないか?」
と聞かれて、
「勝てるかどうかは、この坂本龍馬という人間にかかってます。剣術は、その己の心を深く見つめ、鍛えるためのものでした!」
と答えちゃったの巻。

あ~、ささった~!
今の自分にみごとにささった~

今、この時、自分の身に起こることにどう立ち向かうかは、人それぞれ己次第。
自分がどうありたいか。
この先どうなるか、どうするかじゃなくて。
今どうありたいか。
そうあるために、今何をするか。
ありたい自分であるために、どう己を鍛えるか。
どひゃ~ん。
やっぱりそこか~exclamation

江戸にいた龍馬が、なんで下田から密航しようとしていた松陰に会えたのか?とか、色々ありますが。
実際龍馬は黒船は見ていないらしいですし。

けど、この龍馬伝は、歴史物語というより、人間物語として楽しみたいと思います。

福山龍馬、かわいいしハート達(複数ハート)
武市くんいじらしいし。
桂くん、男前やし。
あれがー人切り以蔵になっちゃうんや~って楽しみもあるし。
吉田松陰、意外なキャスティングやし。
龍馬暗殺の謎、どうするんやろって感じやし。

ところで…坂の上の雲、続きいつやろ… 』

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坂本龍馬と終末期の日本 2

『 「 日と月 」   昭和24(1949)年10月25日 岡田茂吉

 宗教上より見たる日と月について説明してみるが、これははなはだ神秘幽玄にして、コジツケとみらるる節なきに非ず、しかしこれは真理である以上、心を潜めて判読されたいのである。

 日本古代に三種の神器がある。これは璽(たま)、剱(つるぎ)、鏡という事になっているが、すなわち玉は日であり、剱は月であり、大地は鏡によって表徴されている。玉は太陽の形であり、剱は三日月の形であり、鏡は八咫(やた)の鏡と唱え八凸(はっとつ)に分れている。
 すなわち東西南北、艮(うしとら)、辰巳(たつみ)、坤(ひつじさる)、戊亥(いぬい)の八方を型どったものである。
 この三種の中で大地は判り切っていて説明の要はないが、日月については深い意味があるから、それを書いてみよう。

 ここで解りやすくするため、天理教で唱える説を借りてみるが、それは月は突きであり、日は引くという意味で、日月とは引きと突きであるという。
 これはなかなか面白い解釈と思う。それは夜の世界においては何事においても突く事を好む。大にして国と国とが互いに突き合う。
 戦争がこれである。衝突という事も突き合いである。古代における戦争は剱で突き合った事は明らかである。
 それが転化して交際することもつき合いという。文字が違うだけで言霊は同一である。突進むという言葉は勝利を意味する。全く月の働きであり、夜の世界を表わしている。

 右に引換え、ヒキ、ヒクは、退く事である。引寄せる、陣を退く、敗北する、腰を低くする――というようにすべて月と反対であり、この理によって昼の世界はすべてがヒキの働きであるから、負ける事を善しとする。
 人間では謙譲である。これでは争いの起りようはずがない。
 吾々の方では風邪を引く事を良いとしている。
 
 目的が病貧争絶無の世界をつくるというその争がなくなるのは、以上の意味から考えらるるのである。日すなわち火素の活動が主である以上、月でなく引きを心に銘じて活動すべきで、それによって多くの人が引寄せらるるのである。

 また日は玉であるから、円満清朗、円転滑脱でなくてはならないのはもちろんである。 』

 

 ・・・小生は世界救世教の開祖であった岡田茂吉という方と、リバティ情報研究所の宇野正美氏が述べられることはこれからの時代を読み取る貴重な情報ではないかと思っております。

 岡田茂吉氏は何よりも”自然界の摂理”を”規範”にすることを説かれていますが、そもそも自然界そのものは偶然に出来上がったものではなく、大いなる意思のもとに造られたものであるということに立脚しています。そして、その捉え方こそ聖書的な発想そのものであるのでしょう。

 一方、宇野正美氏は”聖書”に重きを置いております。

 それで自身の絶え間ない聖書研究によって、世界の人々の考え方や、様々な問題の根底を探り出されておられます。
 その聖書の中で、まず旧約聖書では天地創造から始まって人類の誕生、ノアの艱難、そしてユダヤ人の登場に至り、その歴史や未来感が多くの預言者たちによって記録され、救世主が現れることも預言されていたのでした。

 そしてユダヤ人の中からイエスという人物が登場します。

 そして彼の生き方、彼の行い、さらには未来感が新約聖書に記録され、彼こそ救世主であったことが、その中に述べられていたのでした。

 宇野氏はこの聖書を知ることが非常に重要であると言われました。
 そして世界の歴史の多くには、その暗部においてユダヤ問題が絡んでいたことは真実であろうと述べています。

 しかし、岡田氏自身は宗教家であり、また多くの日本人は聖書というと宗教というイメージを強く抱いてしまう傾向があります。そして、これが大きな壁となってしまうのですが、その壁を越えた向こうに、これからの時代に必要とされる大きなヒントが隠されているように感じるのです。

 宇野氏は日本の再生を考えたときに、明治政府が目指そうとした当時の国家ビジョンを見直さなければならないというような主張をされていました。

 それで前回紹介させていただいた日記がその内容でありました。その中でイエスをはじめ、吉田松陰、西郷隆盛、大西瀧治郎といった方々を取り上げられてはいるのですが、坂本龍馬という人物も、その範疇にあると思われるのです。

 それで、今年始まった「龍馬伝」には、不思議なものを感じます。それはドラマという脚色されたものではあるのですが、これからの時代を探る上で、彼の生き様というものが重要なヒントになるのではないかと思われるからです。

 そして当時を探る上で、以下のサイトを紹介させていただきます。

 1. ユダヤの日本侵略450年の秘密 太田龍・著 

  http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/library408.html

 2.属国・日本論 副島隆彦・著 

 http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/zokkoku.html

 3.坂本龍馬とフリーメーソン  鬼塚五十一・著

 http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/hitokuchi023.html

 4. あやつられた龍馬  加治将一・著(以前の日記で紹介)

 http://tanjyun-tenuki.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-f2c8.html

 おそらくこのようなサイトの内容は「龍馬伝」では描かれないと思います。
 しかし、龍馬が駆け抜けた時代の歴史の表裏を眺めながら、今の時代と照合すると大事なものが浮かんでくるように思えるのです。

 そして、あの当時の日本の情勢というものが、今現在においても当てはまるのではないかと思えてしまうことなのです。

 人に押し付ける気持ちはありませんが、そのような視点でさらに見つめていきたいなぁ・・・と小生は思うようになったのであります。

 

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日本再生へのビジョン 3 2002年4月号「エノクNO.229」より

では、新たなる日本国家のビジョンとは何か。

   これを知るためには、時計の針を今から百三十年前に戻さなければならない。
 百三十年前と言えば、日本では幕末の動乱期が終わり、明治という年号が始まったときである。そのとき特命全権大使として、岩倉具視を中心とした米欧回覧使節団が日本を出発したのだった。
 
 この目的は、第一に幕末に条約を結んだ国への新政府による国書の奉呈、第二はこの条約改正のための予備交渉、そして第三は米欧各国の近代的な制度・文物の調査と研究だった。

 しかし、第二のことは問題にされず、成功しなかった。もっぱら第一と第三のことを主として遂行したのだった。
 この時、使節団の首脳として参加したのが岩倉右大臣、そして参議であった木戸孝充、大蔵卿・大久保利通、工部大輔・伊藤博文、外務少輔・山口尚芳などであり、各省派遣の専門官である理事官や書記官など総勢五十人に近い大使節団となったのである。

 彼らは約一年十ヵ月にわたって、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、そしてスイスの十二ヵ国を回った。

 彼らはそのときアメリカで、建国後百年に満たないその国を見、自由・独立の民の存在に接した。
 島国であるイギリスでは貿易と工業立国の姿を眼前にし、フランスではパリ・コミューンの中に文明国の階級的矛盾を感じ取り、ドイツでは統一帝国成立直後のありのままの姿を捉え、ビスマルクやモルトケと会見した。そして、彼らの力の論理とその政策に共感したのだった。
 イタリアではこの国がヨーロッパ文明の根源であることを実感し、スイス、ベルギー、デンマークなどの小国では、これら小国が弱肉強食のヨーロッパ国際政治で、いかに中立・独立を保持しているかを知ったのであった。
 帰る道においては、アジア・アフリカの植民地・半植民地化の実態をかいま見、アジアそのものが未開であるという判断を下したのだった。
 さらに、そのようなアジアの中の日本が、ヨーロッパ化=近代化の能力を持たなければならないという自負心に燃え、その発想によって脱亜入欧を図ることがそのまま近代化につながるとしたのであった。
 特に彼らが感動し、力を込めて見たのはイギリスだった。

 当時(今日においてもそうであるが)、イギリスは都市ではなく、地方において非常に美しい田園がどこまでも広がっていた。田園と言っても、いわゆる庭ではなく、国全体があたかも庭園であるかのごとく美しかったのである。
 当時の日本も非常に美しかった。
 それゆえにとでも言おうか、彼らはその美しさには感動しなかったのである。
 イギリス人は昔から今日に至るまで、次の言葉をことわざのようにして捉えている。
 「都市は人間が作ったが、郊外の美しさは神がおつくりになった」
 イギリス人は都市の発達とともに、自分たちの心の安らぎ場、あるいは美意識を満足させる場としての地方の美しさを重んじていたのである。
 その地方の美しさをそのまま各家の庭園、都市の美しさとしていると考えるべきだろう。


  - 国家建設の礎、それは美意識 -

 ついでに述べるならば、オーストリアの町は非常な美しさを作ってはいるが、各居住区としてはそれほど美しくはないヨーロッパの真ん中にある。オーストリアの人々はこのような中で一生を送るのだろうかと私たち日本人は考えがちである。しかし、それは完全なる誤りなのである。

 彼らはほぼ例外なく、郊外の美しい自然の中に別荘を持っている。さらには、冬の寒さを避けて南の暖かい国でのバケーションを楽しむ生活スタイルを保っている。
 ロシアでも同じである。一九九一年十二月にソ連が崩壊した。それまで豊かと思われていたソ連は一気に貧しさの中に陥ったのである。そのとき多くのロシア国民はどのようにしてその苦しさを凌ぐことができたのだろうか。彼らもまたサンクトペテルブルグやモスクワの大都市での生活がすべてではなく、郊外に必ずと言ってもいいほど別荘を持っている。
 ロシア人たちはその別荘で農作物を作り、自然の中で生活を楽しむことを知っているのである。

 それに比べて日本人の多くは都会だけで生活し、その一生を終わっていく。何と狭い住宅で、そして何と公害に溢れた地域で・・・・・。
 しかし、欧米人たちはそれとは全く異なった人生観、自然観、そして美意識を持っていることを知っておかなければならない。
 
 この岩倉具視一行が今から百三十年前、本当に美しいイギリスの郊外に目を奪われていたならば、そして本当の意味での美意識を持っていたならば、日本が進むべきモデルはここにあると考えたのではないだろうか。

 すなわち、郊外の美しさとバランスを取った都市生活である。
 しかし、彼らは日本の美しさを当然とするあまり、地方の美しさに心が向かなかったのである。その代わり、彼らが視察記録に詳細に書いているのは、産業革命を生んだイギリスを重視し、工場地帯や産業施設に心が奪われたのだった。
 その中には鉄道工場があり、紡績工場があり、木綿織物工場があった。
 その他、彼らが時間をかけて見学したのは造船所、兵器工場、火薬製造所、鉄砲工場、鋳型工場、製糖工場などであった。

 このように岩倉一行がイギリスから学んだ見習うべき点というのは、商工業を盛んにし、貿易を行い、利益を上げ、国力や軍事力をつけ、列強の仲間入りをするということだったのである。すなわち、産業や経済的側面に一番眼を開かれ、これが大きな刺激となって、やがて日本は殖産興業、富国強兵への道をまっすぐに突き進んでいったのである。

 以後、日本国家の辿った道は、この岩倉具視たちが敷いたレールそのものだったのである。
 確かにその成果は日清戦争、日露戦争勝利によって伺い知ることができる。やがて日本はその延長線上で、いわゆる世界の一等国に属するようになったのである。

- 一等国への道、戦争への道 -

 しかし当時、欧米を中心とした一等国というのは白人社会に過ぎなかった。それゆえ黄色人種の日本国家にいつまでも温かく参加が許されるはずはなかったのである。

 確かに日露戦争で勝利した。当時、世界第一の陸軍国と言われたロシアに勝利した。しかし、日本国家はこれを境にゆっくりと崩壊への道を歩み始めたのであった。
 なぜならば、第一に日露戦争勝利によって日本国民は非常に傲慢になった。それまでは多くの国から学ばなければならないという謙虚な心があり、向学心といったものがあった。しかし、この戦争を契機にして、日本国民は傲慢な心に取りつかれ、自分たちもまた世界を指導することのできる国家になり得たと考えたのである。

 ますます軍事費は増強され、一般国民の生活は依然貧しい状態に置かれることになったのである。
 第二に、今から思えば日露戦争は一回で終わっている。しかし、当時としては敗北したロシアは必ず第二次日露戦争を仕掛けてくるだろうと考えられていたのである。
 そのため、軍事力増強をバネにして、日本国家の成長を図る路線が取られたのである。

 このようなことで分かるように、日本は一等国になったとはいえ、文化面や美意識においてはそうではなかった。軍事力増強がすべてだったのである。
 厳密に言えば、確かに第二次日露戦争は起きた。それは第二次世界大戦末期。一九四五年(昭和二十年)八月九日のことだった。


 八月九日と言えば、長崎に原爆が投下された日である。世界歴史において原爆の第二弾が投下されたその日である。しかも、八月十五日の終戦まで、あとわずか一週間という時であった。
 当時、満州では多くの日本人が軍人として、開拓民として滞在していた。
 その八月九日、ロシア軍(ソ連軍)は全力投球でその満州に入ってきた。それまで長きにわたって精鋭軍団と言われていた関東軍はたちまちのうちに崩壊し、多くの難民が生まれ、六十万人にも及ぶ日本兵はシベリア方面へと連れて行かれたのだった。
 それよりも約三ヵ月前にドイツは崩壊し、降伏していたので、ソ連軍は西からの攻撃を一切心配することなく、全力で満州に入り込むことができたわけである。しかも、対ドイツ戦で使った多くの兵士をそのままシベリア鉄道に乗せて東に移したのである。
 
 この八月九日の日ソの戦いは独立した戦争であるかのごとく捉えられている。しかし、これこそが第二次日露戦争だったのである。
 ソ連という名に変わろうとも、ロシア人はロシア人だったわけである。
 彼らはかつての恥辱を果たすために、死力を尽くして日本軍を攻撃したのである。
 日本軍の惨敗は目に余るものがあった。かつてのノモンハンでの戦いによる敗北以上に、この時の敗北は惨めなものだった。

 戦争とはこのようなものである。血は血を呼び、戦いは戦いを呼ぶ。
 日露戦争の勝利で日本国民は酔っていた。多くの花電車や提灯行列が出ただろう。何よりも軍人が傲慢になり、幅を利かせたのである。
 日露戦争の講和条約を結ぶために、日本からポーツマスに遣わされた小村寿太郎外相は、日本に帰ってきた時どのような仕打ちを受けたことだろうか。彼の家は焼き払われ、暴徒によって取り囲まれていたのである。
 岩倉具視使節団の敷いたレールは、このような結末を日本にもたらした。


 - 強欲か、足るを知るか -

一九四五年(昭和二十年)八月十五日、日本全土が焦土と廃墟に帰していたと言っても過言ではない。
 しかし、事はそれで終わったのではない。その戦争の五年後、一九五○年六月二十五日、朝鮮戦争が勃発した。

 このとき国連軍と言っても、アメリカ軍を中心とした連合軍はやがて対北朝鮮攻撃を本格化させていった。その後方基地として日本が重宝がられたのである。
 この朝鮮戦争は日本を活気づけるために大きな役割を果たした。言葉を換えれば、この戦争がなかったならば、日本における高度経済成長はあり得なかったかもしれないのである。
 しかし、よく考えてみれば、これもまたあの岩倉具視使節団が敷いたレールでしかなかったのである。
 経済を強くすることがそのまま日本国民の幸せになる、工業力を付けることがそのまま日本を先進国にさせる・・・このような考えが先行し、そこには美意識というものは一切なかったのである。

 一九六六年(昭和四十一年)を過ぎる頃から高度成長の結果が日本列島全体を覆うようになった。公害の発生である。水俣病、イタイイタイ病、四日市公害問題、各都市での自動車排気ガスや工場からの煤煙・・・。

 やがて美しかった瀬戸内海は汚濁の運河となり、大阪湾も死の海となっていった。
 このようなことは日本各地で見られるようになった。その上、日本人の身体の中からその結果が生じてきたのである。
 農薬が使われ、化学肥料が使われ、さらには公害の結果として、それまでなかった病気が多くの日本人の身体を蝕むようになった。
 今日、日本国家で最も多くの出費がなされているのは他でもない医療関係費である。すでに三十兆円に手が届こうとしている。
 今日ほど、いわゆる科学が進歩した時代はない。同時に医療が進歩した時代はないだろう。
 しかし、今日ほど多くの日本人が病に冒された時もなかったのである。
 新たなる問題もやがて出てくるかもしれないが、その起点が今から百三十年前の岩倉具視一行が敷いたレールであると言っても過言ではないだろう。

 今ここで日本は新たなる国家ビジョンを描かなければならない。
 小泉政権は必死になってデフレ政策を講じようとしている。不良債権の処理、株式市場対策、中小企業対策、そして財政・税制問題である。
 しかし、よく考えてみればこれらはかつての路線の延長線上に過ぎないのである。

 では新しい国家ビジョンとは何なのか。
 やはり百三十年前に私たちの心を戻さなければならない。

 すでに当時のイギリスに完全なるモデルがあった。都市は確かに便利に作られていた。そこでは工業が起き、多くの建造物が造られ、時代の先端を行った運河も切り開かれていた。
 しかし、同時にイギリスの郊外は絵のように美しかったのである。その美しさは今も変わることなく、いっそう磨きがかけられている。
 工業とともに、庭園国家がそのビジョンとなるべきなのである。

 - かつての日本は「庭園国家」 -

 日本があたかも世界の工場であるかのように、より安いモノをより多く作り、世界にばらまくことがこれから日本の進むべき道ではない。

 より安いモノをより多く世界にばらまけば、対日貿易摩擦が起きたように、世界各国との間に貿易摩擦が起きることは目に見えている。しかもいつまでも日本が世界の工場であり得るはずはない。中国に代表されるように、多くの国々が日本の後を追い続けている。


 日本人口一億二千万人の生活に必要な分だけ使わせていただいて、その中の余った部分を海外に輸出すればよい。
 石油などエネルギーを輸入しなければならないだろう。しかし、日本国家のある部分を庭園国家として育てていくならば、新しいエネルギーの開発にも臨まなければならないのである。

 日本列島の周りには素晴らしい海が広がっている。黒潮も流れている。そして、エネルギーを生み出すであろう良き風が日本列島の上に吹いている。
 ここに新たなるエネルギーのヒントが控えているように思える。


 日本を新たに庭園国家にする・・・明治の初め、日本を見たイギリス人たちの感動の言葉は、今から思えば皮肉のように聞こえてくるのだろうか。

 「 私はイングランド、スコットランド、アイルランド、スイス、イタリアの湖という湖のほとんどすべてを訪れているが、ここはそれらのどこよりも素晴らしく。それら全部の最も良いところだけとって集めて一つにしたほどに美しい。奇妙な形をした山や丘陵のいくつもの集合は、どれも藪や茂みや樹木に豊かに覆われて、光輝く緑の絨毯のような空隙地と調和を保ち、それらのたたずまいが間を縫って走る狭い水路や湾や入江をあまりにも魅力的に見せ、もっと奥を見たいという誘惑に耐えるのは容易ではなかった。我々は余りにも豊かな自然の恵み、次々に移り変わって終わることを知らない景観の美しさに呆然としてしまった 」(トマス・クック)

 「『岸辺に寄する波風は 疲れ果てしか、絶えだえに うめくが如く泣くばかり 平穏の日ぞ、 遂に来たれり』

 平穏以上の日であった。天国の朝かと思う日であった。紺色の空はあくまでも雲一つなく、青い海はダイヤモンドのように輝き、美しい小さな湾の黄金色の砂浜は、多くの輝く微笑を浮かべているかのようにきらきらしていた。

 四十マイル離れた向こう側には、噴火湾の南西端を示す駒ヶ岳の桃色の頂上が柔い青霞の中にそびえ立っていた。すがすがしいそよ風が吹き、山は黄褐色に色づき、森は黄金色にきらめき、あちらこちらに真っ赤な色が散っていて、深まりゆく秋の紅葉の先駆となっていた。一日が美しく幕を開けたように、美しく日は閉じた。

 私は刻一刻と過ぎゆく時間をどんなに引き止めたいと思ったことだろう。私は自然の美しさを満喫した」(イザベラ・バード)

 これは北海道の噴火湾を見た感想である。今日でもこの噴火湾は非常に美しい。しかし、そこでどのようにして漁業を営むかが考えられている。日本人がこのイギリス人のように、その美しさに心が奪われるほどになるのはいつのことなのだろうか。

- 今こそ美意識の教育を -

日本人がその美意識を高められ、その自然の美しさに心を奪われるようになるならば、日本国家のあり方、経済のあり方、生活のあり方、教育のあり方・・・等に大きな変化が起きることは間違いないのである。

 なぜ日本人はその美意識を失ってしまったのだろうか。

 はるか昔から日本人は俳句を作り、なお昔から短歌を作ってきた。
 今日、日本人はその俳句や短歌をはるか昔のもののように考えている。
 俳句などは右脳を働かせる最高の芸術品なのである。
 右脳は直感力、美意識、情緒・・・などを受け持つ部分である。

 かつての日本人はその右脳が非常に発達していた。それゆえに、江戸時代が鎖国の時代であろうとも、その中から生まれた芸術品は、世界のいかなるものとも比較することができないほどに素晴らしく芸術性の高いものだったのである。

 誰もが知っているあの芭蕉の俳句。
 「古池や 蛙飛び込む 水の音」

 もしこの俳句を単に英語で翻訳するならば、何の意味もないものになってしまう。
 多くの欧米人たちはこのようなものは芸術ではないと抗議するに違いないだろう。
 しかし日本語でしかも右脳で感じるとき、それが素晴らしい芸術の極致、また俳句の極みであることに気が付くのである。
 蛙が古い池に飛び込んだ、その音が素晴らしいのである。またそれ以上に静けさを強く感じることができるのである。

 今からわずか六十年ほど前、日本の多くの若者は兵士として戦場に赴いていった。
 そのとき彼らは辞世の句を詠んだ。
 特に特攻隊員が作った辞世の句には非常に美しく、素晴らしいものが多い。
 なぜ彼らは死に臨んで、そのような美しい辞世の句を作ることができたのだろうか。彼らはそのような教育を受けていたのである。
 このことは非常に重要なことを表している。

 今日でも日本人が、それも学校教育の時代に、より多くの時間で古典を教えられ、俳句や短歌を作ることを教えられ続けるならば、あるいはかつて作られたそれらを暗記する教育を与えられたならば、自然に対する感覚が全く異なってくるのである。
 日本全体がどれほど美しい芸術作品そのものであるかを発見するのである。
 しかし、第二次世界大戦が終結し、GHQ(連合軍総司令部)が日本にやって来て、その教育方針を定めたとき、これらを教えさせないようにしてしまった。

 残念なことに、その瞬間から日本人は自らの歴史、自らの芸術の美しさを感じることができなくなってしまったのである。
 民族がその歴史を失うとき、民族は漂流すると言われている。
 そのことを知っていたGHQのメンバーは、まさに日本において、しかも憎しみを込めて学校教育を変貌させてしまったのである。

 - 日本人よ、美と感動を -

 いまや日本人は美しい国にいながら、その美しさが分からない。さらに、その美しさをいわゆる生活の便利さのためという口実で崩壊させていくことに、何の咎めも感じることができなくなってしまったのである。
 丘が切り開かれていく。そのとき建設会社は美しい雑木を一本も残すことなく切り倒していくのである。
 そして、あたかも将棋盤のような住宅地を作っていく。確かに見晴らしはよいかもしれない。しかし、そこには自然という不思議なメカニズムの中で作られた美は失われてゆくのである。

 人間が優先され、人間の考えによって作られていく・・・・そこには本当の美はない。

 そのような所で生活する日本人たち、なかでもそこで生まれ育った子どもたちは、自然そのものの美しさに触れることができなくなってしまう。
 かつては都会でも自然の美しさというものがあった。道は土だったし、海には海水浴場があった。川ではウナギの稚魚まで上っていく光景を見ることができたのである。
 しかし、今日の都会はどうだろうか。車が優先され、アスファルトが敷き詰められている。確かに公園はある。しかし、それは作られたものであって、自然の草は生えていない。
 都会の公園では蛇などを見ることはできないのである。

 私たち日本人は余りにも間違ったコースを歩き続けた。百三十年間、今日に至るまで何の疑いもなくその道を歩いてきたのである。
 それは先祖たちが築いた歴史との決別であったことも知らなかったのである。
 日本人は何と単純な意識を持たされたことだろうか。テレビを見、あの小さな画面の中に映し出されるものが本当の自然であるかのような錯覚を持つようになった。
 自然は破壊され、都会はいよいよ荒廃したものとなり果てていく。
 このまま日本は崩壊の道を辿るべきなのだろうか。決してそうではない。日本は新しいビジョンを持って蘇生しなければならないのである。

 新しい政治家たちはこの新しいビジョンによって日本を作り直すべきだろう。
 今までのようないわゆる国民総生産を生み出す必要はない。生活レベルがダウンしてもよい。
 この日本を美しく保つならば、衣食住は満たされるはずである。
 今日、多くの日本人は海外旅行をする。年を取った多くの人たちは結局、「やっぱり日本が良かった」という感想を述べるだけである。
 それならば、よりいっそう美しい日本を作り、そのための教育課程を作ればよいのである。

 では、新しい日本建設のエネルギーはどこから出てくるのだろうか。

 それは偉人たちが残していったエネルギーによってである。

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日本再生へのビジョン  2 岡田茂吉氏の論文より

日本再建の指針 

「 私は今日本今後の国策を論じてみようと思うが、その前に先ず日本という国の使命を語らなくてはならない。
 
 抑々この世界に於いて数多くの国があるが、何れの国といえども神が世界経綸の必要上、それぞれ本来の使命を与えてある。固より日本といえどもそれに漏るるはずはなく、特殊の使命のあることも当然である。

 然るにその使命が今日まで判然していなかった為、人間の勝手な解釈の下に甚だしい間違いを行い、その結果現在見る如き惨澹たる国家となった事は今更言うまでもない。
 日本歴史をひもといてみれば明らかなる如く、昔から英雄や豪傑が輩出し、その殆どは戦争という暴力を振るって権力を掌握し、人民を塗炭の苦しみに遭わせ、国土を荒廃に帰せしめた罪悪は随処に見らるるのである。
 これを一言にして言えば、日本歴史は権力者の権力奪い合いの記録でしかなかったと言ってもいい。
 そうしてその最後の大詰めが今次の太平洋戦争であった事は疑う余地のない事実である。それが為、建国以来人民は権力争奪の為に如何に大なる犠牲を払わせられたであろう。全く日本には人民の歴史というものが無かったにみても明らかである。

 しかし右の如き長い期間中に間歇的に平和時代もあった。飛鳥、白鳳、天平、平安、足利、鎌倉、桃山、元禄、享保、文化、文政、明治等で、その間短いながらも平和文化の発達があり、その遺産として今日僅かに残っているものもあるが、それはその時代を語る絵画、彫刻、美術工芸品等であるが、この僅かな平和期間にして尚且つ今日見るが如き素晴らしい美術品が製作されたという事は、日本人が如何に卓越せる美的要素を有しているかが知らるるのである。
 
 次に日本の風土である。日本くらい風光明媚なる国はほかにないという事は、外客の絶讃おかない処である。また草木、花卉類の種類の多い事も世界に冠たるものがあり、四季の変化も他国にその比を見ないそうである。それが山川草木の変化に現れ、春の花、夏の青葉、秋の紅葉、冬枯れ等それぞれの季節美を発揮している。また建築に於いての木材その他の自然美を活用する技術も特有のものであり、美術及び美術工芸品に於いての、淡白と気品に富んだ香り高い日本画や、独特の蒔絵、陶磁器等に至るまで、外人の垂涎措(すいせんお)く能わざる処のものである。
 戦争中、京都・奈良の美を保存すべく彼のウォーナー博士の努力によって空襲を免れたという事も、外人としての日本美術の理解による為であった事は勿論である。その他食物に於いても魚介野菜の種類の多い事と、調理法のその一つ一つが自然の味を生かす技術も独特の文化であろう。

 以上によって考える時、日本本来の使命が那辺にあるかを窺い知らるるのである。それはいうまでもなく、自然と人工を美を以て世界人類の情操を養い、慰安を与え、平和を楽しむ思想を豊かなしむべき大使命のある事である。これを具体的にいえば、日本全土を挙げて世界の公園たらしめ、凡ゆる美の源泉地たらしむる事である。

 然るに何ぞや。本来の使命と凡そ反対である処の軍国主義をモットーとし、長い間それに没頭他を顧みなかった事で、以上の意味に目覚めて深く考える時、如何に誤っていたかを知るであろう。見よ、敗戦の結果軍備撤廃という空前の事態も、全く日本の真の使命を悟らしむべき神の意図でなくて何であろう。
 そうして軍備廃止に就いて日本人中無防備国家として憂慮する向も相当あるであろうが、それは杞憂に過ぎないと思うのである。何となれば、日本が世界の公園として、善美を尽くし、地上楽園の形態を揃える事になるとすれば、万一戦争の場合、敵も味方もこれを破壊する勇気は恐らくあるまいと思うからである。
 
 本教団に於いても、ここに見る処あり、己に着手し、または準備中のものに箱根・熱海の風光明媚なる地点を選み、庭園美、建築美の粋を尽くした小規模ながら将来における地上天国の模型を建造製作し、それに付随して美術及び美術工芸品の海外紹介所ともいうべきものを設置し、また花卉栽培とその輸出を目的とする一大花苑を企画し、熱海の隣接地に目下三万坪の土地を勤労奉仕隊の手によって開発中である。
 これに就いて特に言いたい事は、日本の多くの輸出品中最も特色ある繊維品は或限度を越える事は困難であり、機械類、造船、汽車、電車、自動車、自転車や雑貨等も高度の文化国へは大衆向の普通品に限られ、民度の低い国の需要を漸く満たす位である。高級機械類、雑貨、文化資材等に至っては米国始め他の先進国に追いつく事は前途遥遠であろう。

 以上の意味によって、今後日本のとるべき国策としては、観光事業と美術及び美術工芸品、花卉類の輸出において、将来性のあるものは殆ど無いと言っても過言ではなかろう。
 しかしながら最も関心事であるものとして日本人の健康問題がある。
 如何に観光施設が完備し、外客憧憬の的となったとしても、伝染病や結核が瀰漫(びまん)していては、折角招待しようとしても美邸の門を閉ざしているようなものであろう。また今一つは日本産の野菜である。日本古来の人肥の如き寄生虫伝播の恐れあるものを使用する一事は、外客誘致上少なからぬ障害となろうから、本教の主唱する無肥料浄霊栽培を実施すべきで、この点実に理想的である。これによって右何れもの障害は除去され得るのである。
 
 大体以上の説明によって略々認識されたと思うが、日本の国土にこれ等計画や施設が完成された暁、吾等が唱える地上天国は如実に出現さるるのであって、如何なる国といえどもこの事を歓迎しない筈はあるまいと思うのである。 」

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日本再生へのビジョン  1  イエス・松陰、そして大西瀧治郎

来週の「龍馬伝」では吉田松陰が登場します。

 この吉田松陰という人物にイエスの姿を見ることができると思えるのです。

 来週の「龍馬伝」はこの吉田松陰の言葉のひとつひとつが龍馬の心を揺さぶるそうです。
 ちなみにこのシーンは台本9ページあったそうですが、最初から最後までNGなしでイッキに撮影ができたそうです。

 イエスは自分の命を種に例えて語りました。
 また同じように松陰も種に例えました。

『 - 「一粒の麦」、豊かな実を結ぶ -

  そのことを述べる前に、有名なイエスの言葉を考えてみよう。
  イエスはその死を前にして、すなわち十字架刑を前にしてギリシャ人たち(ユダヤ人からすれば異邦人)が自分を訪ねてきたとき、新しい時代の到来を感知したのである。

 その時代の節目で次のように述べた。
 「わたしが栄光を受けるその時が来た。
  まことにまことにあなたがたに告げる。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままである。しかし、もし死ねば、豊かな実を結ぶことになる」(「ヨハネ福音書」12・23・24)

 イエスは十字架刑を持って「自分が栄光を受けるその時」と述べた。それは旧約聖書の預言であり、その預言を成就させることによって、世界の多くの人々がどれほど大きな変化を遂げるかを知っていたことを示しているのである。
 しかもイエスはその十字架刑を「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」と述べている。
 麦でも何でも、種が死ななければ次の命が出てくることはない。しかも、一粒の麦が死ねば、やがて多くの実を実らせるという自然の摂理から学ぶことができる。
 イエスは十字架刑を決して犬死であるとは思っていなかった。なお多くの人々に新しい人生が始まることのきっかけになると信じていたのである。
 その意味で。このイエスの言葉は不思議である。そして、不思議な法則であることが分かるのである。
 イエスはその有名な言葉のあとすぐに次のような言葉を述べている。
 「自分の命を愛する者はそれを失い、この世でその命を憎む者はそれを保って永遠の命に至る」(12・25)
 このことはイエスのように死を選ばなければならなかった過去の偉人たち、すべてにおいて当てはまることである。
 例えば吉田松陰。彼は意志半ばにして武蔵の野、すなわち江戸において刑死せざるを得なかったのである。
 だからといって彼は絶望していたのではない。彼は自らの意志を次の世代に委ねたのである。
 吉田松陰はその刑死を前にして、小伝馬町の牢獄で遺書・留魂録を書いている。わずかな紙、わずかな光の中で全身全霊を込めてその遺書は書かれたのだった。
 罪人としての自分が書いた遺書は、役人たちによって葬り去られるだろうと考えていた。
 それゆえに、遺書を二通書いておくならば、少なくとも一通は残ると考えたのである。
 吉田松陰は美しい字で、美しい文章を書いた人物である。しかし、この留魂録の原文を見るとき、非常に不便な中で書き留めていったことが分かる。それでもその遺書の題字のごとく、自らの魂を留め置いていったのである。
 
 そのことが後の幕末から明治維新にかけての彼の弟子たち、長州の藩士たちに大きなエネルギーを与えることになったのである。
 吉田松陰が刑死しても、その意志は受け継がれていったわけである。

 「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

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 吉田松陰の死は貴重であり、そのエネルギーは新しい時代を作る起爆剤となった。そして、今日においてもその意志は受け継がれているのである。
 また西郷隆盛においてもしかりだろう。
 彼は反逆者として鹿児島・城山で自刃したのではなかった。彼には彼の思想、そして彼のビジョンがあった。そして、彼はそれを途中で停止せざるを得なかった。
 しかし、自らの願いは将来必ず成就すると信じていたのである。
 西郷隆盛は理性の人である。そして、なお先を見通すことのできる人物だった。

 - 大西瀧治郎中将の自刃 -

大西瀧治郎中将という人物をご存じだろうか。
 彼は昭和二十年(一九四五年)八月十六日未明、自刃した。
 八月十六日といえば、終戦の翌日である。しかも、終戦の日が暮れて、新しい日が訪れるまでに彼は自らの腹を掻き切ったのである。
 八月十六日午前四時四十五分に、彼は軍令部次長官舎で、まさに武士の作法通り、肚を十文字に掻き切り、かえす刀をもって首と胸を突き刺した。
 急報によって海軍次官が軍医を連れて駆けつけてきたが、大西中将は近寄る軍医を手で制し、「生きるようにしてくれるな」と言い、介錯をも拒んだのだった。そして「これで、私が送り出した部下たちとの約束を果たすことができる・・・」と、大量出血の中で激痛に耐えること実に十五時間余り、しかも笑みをたたえつつ午後六時に絶命したのであった。

 彼が約束を果たすことができるとは、何を指しているのだろうか。
 大西中将こそがあの特攻戦法を生み出さざるを得なかった人物である。
 一人一人の特攻隊員が飛び立っていくとき、彼は「自分も必ず後で行く」と言い続けた。
 そして、彼は終戦の日の後、その約束を自刃によって果たしたのである。
 十五時間にも及ぶ大量出血の中の激痛、しかし彼はそれを耐えると言うよりも、特攻隊員として死を遂げていった者たちの苦しみを自分の身をもって味わい続けたのだろう。
 大西瀧治郎中将の副官は門司親徳氏だった。彼はその回想録の中で、次のように述べている。
 「大西長官が、いつ体当たり攻撃を決意したのか私にはわからない。ただ私が確実に思ったことは、もし長官自身が若かったら、自分が真っ先に体当たりをやったのではないかということであった。台湾沖航空戦で、多数の消耗を目のあたりに見た上、フィリピンに着任してみたら、使用できる飛行機が三、四十機しかない・・・」
 このようにして特攻攻撃は実行に移された。それを編み出し、若い隊員たちを送り出す大西中将の心中はいかばかりだったろうか。
 今日、多くの日本人は特攻隊員たちが犬死をしたと思っている。ある者たちは大西中将を外道の指揮をとった人物であると軽蔑している。
 しかし、彼は特攻をやらなければならなかった。まさに戦術にない「統率の外道」であることを誰よりも知っていながら、なお特攻戦法を取らなければならなかったのである。
 特攻によって日本はアメリカに勝たないまでも負けない、その精神が続く限り日本は亡国にならない・・・。

 大西中将のいわゆる特攻精神は「身を殺して仁をなす、わが身を捨て、公を助ける」ということだったのであろうが、彼はその言葉を吐きつつも、最後まで最高指揮官として孤独であり続けた。
 大西中将はその副官の門司氏に「わが声価は棺を覆うて定まらず、百年のち、また知己ならん」と語って、その特攻そのものについて一言も弁明することなく、自刃を選んだのだった。

  - 戦わずして亡国となるのか -

しかし、この大西中将が考えていたこと、あたかも「召命」のごとくに感じたことは何だろうか。おそらく先ほどのイエスの言葉と同じことではないだろうか。
 彼自らはこの戦争の開戦のときから、この戦争ではアメリカに勝利することはとてもできないと感じていたのである。真珠湾攻撃のとき、彼は真っ向からその作戦に反対していた。
 しかし、戦争は開始されてしまった。
 軍人として、また指揮官として、その戦争が始まった限りは勝つ戦争をしなければならない。頭では負けることが分かっている。しかし、日本のために勝つ戦争を実行しなければならなかったのである。
 大西中将はこのような矛盾の中で、自らの職務を全うしなければならなかったのである。
 彼が多くの軍人たちに訓示した言葉が残っている。
 「・・・今まで我が軍には局地戦において降伏というものがなかった。戦争の全局においてもまた同様である。局地戦では全員玉砕であるが、戦争全体としては、日本人の五分の一が戦死する以前に、敵の方が先に参ることは受け合いだ。米英を敵とするこの戦争が、極めて困難なもので、特質的に勝算のないものであることは、開戦前から分かったのであって、現状は予想よりも数段我に有利なのである」
 
 そうであると分かっていながら、困難な戦いが始まってしまった。勝ち負けを度外視して、彼は戦いに挑んでいった。

 「・・・敵の圧迫に屈従して戦わずして精神的に亡国となるか、或いは三千年の歴史と共に亡びることを覚悟して、戦って活路を見出すかの岐路に立ったのである。ところで、後者を選んで死中に活を見出す捨身の策に出たのである」
 
 では、彼は捨て身の策というのをどのように考えていたのだろうか。それは決して何とかなるだろうという漠然としたものではなかった。いかなる筋道において勝つかの見当はついていると述べたのである。

 「・・・純然たる武力戦による、海の上で勝つ見込みは殆ど無いが、長期持久戦による思想戦に於いて勝たんとするものであって、武力戦はその手段に過ぎないのである。
 即ち、時と場所とを選ばず、成るべく多く敵を殺し、彼をして戦争の悲惨を満喫せしめ、一方国民生活を困難にして、何時までやっても埒のあかぬ悲惨な戦争を、何が為に続けるかとの疑問を生ぜしめる。この点、米国は我が国と違って明確な戦争目的を持たないのであって、その結果は、政府に対する不平不満となり、厭戦思想となるのである。
 彼米国が、日本を早く片付けねばならぬと焦っている原因は、実に此処にあるのである」

 彼は百の戦いにおいて日本が九十九敗北したとしても、最後の一戦でアメリカを叩けるならば、引き分けに持ち込むことができると考えていたのである。


 - 何を語るか、中将の「遺書」 -

責任ある軍人の立場として、特攻作戦を実行に移さなければならない立場として、このような見望を持っていた。しかし、戦いは日本敗北に終わってしまった。
 八月十五日、あの終戦が発令される直前まで御前会議が行われていた。はたして連合国側が差し出しているポツダム宣言を受諾するべきかどうか、日本の国体はその後、どうなるのか・・・多くの議論が行われていた。しかし、大西中将は戦いを始めた限り、最後まで戦いを勝利に導かなければならないとしてポツダム宣言受諾に頑として反対し続けていたのである。
 最後の一戦において勝利する。そうすることで日本は生き残ることができると信じていたのである。
 しかし、そのようにはならず、彼の意見は退けられたのである。
 というのは大西中将は、中将なるがゆえにこの御前会議の席に連なることはできなかった。彼は海軍大臣の下に仕え、海軍大臣に自らの意見を言い続けていたが彼の意見は退けられたのである。
 彼は自刃を遂げる前、遺書を残している。
 今日、靖国神社の資料館にその遺書が保存されている。見学者はそれを目にすることができる。
 誰もがその遺書を見るとき感動させられる。なぜならば、もう数十分もすれば自刃を遂げる人物でありながら、その筆先が全く動揺していないからである。
 何という落ち着いた確信に満ちた字・・・。

 彼は昭和十九年(一九四四年)十月二十五日、初めて特攻機が飛び立ったその時から特攻隊員と共に死を覚悟していたのであろう。
 やはり、副官であった門司氏はその点を次のように述べている。

 「翌日、大西長官が自刃された旨の無電が入った。私は悲愴な思いも、悲惨な感じもしなかった。むしろ、長官は死んだというより、充分に生きたのだという印象を強く受けた」
 
 大西中将の遺書は次のとおりである。

 『 特攻隊の英霊に曰す   善く戦いたり深謝す 

   最後の勝利を信じつつ  肉弾として散華せり

   然れ共其の信念は    遂に達成し得ざるに到れり

   吾死を以て旧部下の   英霊と其の遺族に謝せんとす

   次に一般青壮年に告ぐ  我が死にして軽挙は

   利敵行為なる思い    聖旨に副い奉り

   自重忍苦するの誠とも  ならば幸なり

   隠忍すとも日本人たるの 矜持を失う勿れ

   諸子は国の宝なり    平時に処し猶克く

   特攻精神を堅持し    日本民族の福祉と

   世界人類平和の為    最善を尽くせよ 』

 この遺書を読むと、誰もが彼が日本の再生を信じていたことを知るのである。
 いま日本国家はデフレ・スパイラルである・・・。
 しかし、日本は苦しさの中、なお次の新しいビジョンを生み出すチャンスをつかもうとしている。
 ここにイエスの「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ一粒のままである。しかし死ねば多くの実を結ぶことになる」という言葉を思うとき、どれほど多くの人々がこの日本再生を信じて、自らの命を捧げていったことだろうか。
 特攻隊員約四千名はまさにそうだった。若い命のすべてを未来の日本のために捧げていったのである。
 それは決して無駄な死ではなかった。彼らの多くは日本の再生を信じていたのである。  』

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