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日本再生へのビジョン 3 2002年4月号「エノクNO.229」より

では、新たなる日本国家のビジョンとは何か。

   これを知るためには、時計の針を今から百三十年前に戻さなければならない。
 百三十年前と言えば、日本では幕末の動乱期が終わり、明治という年号が始まったときである。そのとき特命全権大使として、岩倉具視を中心とした米欧回覧使節団が日本を出発したのだった。
 
 この目的は、第一に幕末に条約を結んだ国への新政府による国書の奉呈、第二はこの条約改正のための予備交渉、そして第三は米欧各国の近代的な制度・文物の調査と研究だった。

 しかし、第二のことは問題にされず、成功しなかった。もっぱら第一と第三のことを主として遂行したのだった。
 この時、使節団の首脳として参加したのが岩倉右大臣、そして参議であった木戸孝充、大蔵卿・大久保利通、工部大輔・伊藤博文、外務少輔・山口尚芳などであり、各省派遣の専門官である理事官や書記官など総勢五十人に近い大使節団となったのである。

 彼らは約一年十ヵ月にわたって、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、そしてスイスの十二ヵ国を回った。

 彼らはそのときアメリカで、建国後百年に満たないその国を見、自由・独立の民の存在に接した。
 島国であるイギリスでは貿易と工業立国の姿を眼前にし、フランスではパリ・コミューンの中に文明国の階級的矛盾を感じ取り、ドイツでは統一帝国成立直後のありのままの姿を捉え、ビスマルクやモルトケと会見した。そして、彼らの力の論理とその政策に共感したのだった。
 イタリアではこの国がヨーロッパ文明の根源であることを実感し、スイス、ベルギー、デンマークなどの小国では、これら小国が弱肉強食のヨーロッパ国際政治で、いかに中立・独立を保持しているかを知ったのであった。
 帰る道においては、アジア・アフリカの植民地・半植民地化の実態をかいま見、アジアそのものが未開であるという判断を下したのだった。
 さらに、そのようなアジアの中の日本が、ヨーロッパ化=近代化の能力を持たなければならないという自負心に燃え、その発想によって脱亜入欧を図ることがそのまま近代化につながるとしたのであった。
 特に彼らが感動し、力を込めて見たのはイギリスだった。

 当時(今日においてもそうであるが)、イギリスは都市ではなく、地方において非常に美しい田園がどこまでも広がっていた。田園と言っても、いわゆる庭ではなく、国全体があたかも庭園であるかのごとく美しかったのである。
 当時の日本も非常に美しかった。
 それゆえにとでも言おうか、彼らはその美しさには感動しなかったのである。
 イギリス人は昔から今日に至るまで、次の言葉をことわざのようにして捉えている。
 「都市は人間が作ったが、郊外の美しさは神がおつくりになった」
 イギリス人は都市の発達とともに、自分たちの心の安らぎ場、あるいは美意識を満足させる場としての地方の美しさを重んじていたのである。
 その地方の美しさをそのまま各家の庭園、都市の美しさとしていると考えるべきだろう。


  - 国家建設の礎、それは美意識 -

 ついでに述べるならば、オーストリアの町は非常な美しさを作ってはいるが、各居住区としてはそれほど美しくはないヨーロッパの真ん中にある。オーストリアの人々はこのような中で一生を送るのだろうかと私たち日本人は考えがちである。しかし、それは完全なる誤りなのである。

 彼らはほぼ例外なく、郊外の美しい自然の中に別荘を持っている。さらには、冬の寒さを避けて南の暖かい国でのバケーションを楽しむ生活スタイルを保っている。
 ロシアでも同じである。一九九一年十二月にソ連が崩壊した。それまで豊かと思われていたソ連は一気に貧しさの中に陥ったのである。そのとき多くのロシア国民はどのようにしてその苦しさを凌ぐことができたのだろうか。彼らもまたサンクトペテルブルグやモスクワの大都市での生活がすべてではなく、郊外に必ずと言ってもいいほど別荘を持っている。
 ロシア人たちはその別荘で農作物を作り、自然の中で生活を楽しむことを知っているのである。

 それに比べて日本人の多くは都会だけで生活し、その一生を終わっていく。何と狭い住宅で、そして何と公害に溢れた地域で・・・・・。
 しかし、欧米人たちはそれとは全く異なった人生観、自然観、そして美意識を持っていることを知っておかなければならない。
 
 この岩倉具視一行が今から百三十年前、本当に美しいイギリスの郊外に目を奪われていたならば、そして本当の意味での美意識を持っていたならば、日本が進むべきモデルはここにあると考えたのではないだろうか。

 すなわち、郊外の美しさとバランスを取った都市生活である。
 しかし、彼らは日本の美しさを当然とするあまり、地方の美しさに心が向かなかったのである。その代わり、彼らが視察記録に詳細に書いているのは、産業革命を生んだイギリスを重視し、工場地帯や産業施設に心が奪われたのだった。
 その中には鉄道工場があり、紡績工場があり、木綿織物工場があった。
 その他、彼らが時間をかけて見学したのは造船所、兵器工場、火薬製造所、鉄砲工場、鋳型工場、製糖工場などであった。

 このように岩倉一行がイギリスから学んだ見習うべき点というのは、商工業を盛んにし、貿易を行い、利益を上げ、国力や軍事力をつけ、列強の仲間入りをするということだったのである。すなわち、産業や経済的側面に一番眼を開かれ、これが大きな刺激となって、やがて日本は殖産興業、富国強兵への道をまっすぐに突き進んでいったのである。

 以後、日本国家の辿った道は、この岩倉具視たちが敷いたレールそのものだったのである。
 確かにその成果は日清戦争、日露戦争勝利によって伺い知ることができる。やがて日本はその延長線上で、いわゆる世界の一等国に属するようになったのである。

- 一等国への道、戦争への道 -

 しかし当時、欧米を中心とした一等国というのは白人社会に過ぎなかった。それゆえ黄色人種の日本国家にいつまでも温かく参加が許されるはずはなかったのである。

 確かに日露戦争で勝利した。当時、世界第一の陸軍国と言われたロシアに勝利した。しかし、日本国家はこれを境にゆっくりと崩壊への道を歩み始めたのであった。
 なぜならば、第一に日露戦争勝利によって日本国民は非常に傲慢になった。それまでは多くの国から学ばなければならないという謙虚な心があり、向学心といったものがあった。しかし、この戦争を契機にして、日本国民は傲慢な心に取りつかれ、自分たちもまた世界を指導することのできる国家になり得たと考えたのである。

 ますます軍事費は増強され、一般国民の生活は依然貧しい状態に置かれることになったのである。
 第二に、今から思えば日露戦争は一回で終わっている。しかし、当時としては敗北したロシアは必ず第二次日露戦争を仕掛けてくるだろうと考えられていたのである。
 そのため、軍事力増強をバネにして、日本国家の成長を図る路線が取られたのである。

 このようなことで分かるように、日本は一等国になったとはいえ、文化面や美意識においてはそうではなかった。軍事力増強がすべてだったのである。
 厳密に言えば、確かに第二次日露戦争は起きた。それは第二次世界大戦末期。一九四五年(昭和二十年)八月九日のことだった。


 八月九日と言えば、長崎に原爆が投下された日である。世界歴史において原爆の第二弾が投下されたその日である。しかも、八月十五日の終戦まで、あとわずか一週間という時であった。
 当時、満州では多くの日本人が軍人として、開拓民として滞在していた。
 その八月九日、ロシア軍(ソ連軍)は全力投球でその満州に入ってきた。それまで長きにわたって精鋭軍団と言われていた関東軍はたちまちのうちに崩壊し、多くの難民が生まれ、六十万人にも及ぶ日本兵はシベリア方面へと連れて行かれたのだった。
 それよりも約三ヵ月前にドイツは崩壊し、降伏していたので、ソ連軍は西からの攻撃を一切心配することなく、全力で満州に入り込むことができたわけである。しかも、対ドイツ戦で使った多くの兵士をそのままシベリア鉄道に乗せて東に移したのである。
 
 この八月九日の日ソの戦いは独立した戦争であるかのごとく捉えられている。しかし、これこそが第二次日露戦争だったのである。
 ソ連という名に変わろうとも、ロシア人はロシア人だったわけである。
 彼らはかつての恥辱を果たすために、死力を尽くして日本軍を攻撃したのである。
 日本軍の惨敗は目に余るものがあった。かつてのノモンハンでの戦いによる敗北以上に、この時の敗北は惨めなものだった。

 戦争とはこのようなものである。血は血を呼び、戦いは戦いを呼ぶ。
 日露戦争の勝利で日本国民は酔っていた。多くの花電車や提灯行列が出ただろう。何よりも軍人が傲慢になり、幅を利かせたのである。
 日露戦争の講和条約を結ぶために、日本からポーツマスに遣わされた小村寿太郎外相は、日本に帰ってきた時どのような仕打ちを受けたことだろうか。彼の家は焼き払われ、暴徒によって取り囲まれていたのである。
 岩倉具視使節団の敷いたレールは、このような結末を日本にもたらした。


 - 強欲か、足るを知るか -

一九四五年(昭和二十年)八月十五日、日本全土が焦土と廃墟に帰していたと言っても過言ではない。
 しかし、事はそれで終わったのではない。その戦争の五年後、一九五○年六月二十五日、朝鮮戦争が勃発した。

 このとき国連軍と言っても、アメリカ軍を中心とした連合軍はやがて対北朝鮮攻撃を本格化させていった。その後方基地として日本が重宝がられたのである。
 この朝鮮戦争は日本を活気づけるために大きな役割を果たした。言葉を換えれば、この戦争がなかったならば、日本における高度経済成長はあり得なかったかもしれないのである。
 しかし、よく考えてみれば、これもまたあの岩倉具視使節団が敷いたレールでしかなかったのである。
 経済を強くすることがそのまま日本国民の幸せになる、工業力を付けることがそのまま日本を先進国にさせる・・・このような考えが先行し、そこには美意識というものは一切なかったのである。

 一九六六年(昭和四十一年)を過ぎる頃から高度成長の結果が日本列島全体を覆うようになった。公害の発生である。水俣病、イタイイタイ病、四日市公害問題、各都市での自動車排気ガスや工場からの煤煙・・・。

 やがて美しかった瀬戸内海は汚濁の運河となり、大阪湾も死の海となっていった。
 このようなことは日本各地で見られるようになった。その上、日本人の身体の中からその結果が生じてきたのである。
 農薬が使われ、化学肥料が使われ、さらには公害の結果として、それまでなかった病気が多くの日本人の身体を蝕むようになった。
 今日、日本国家で最も多くの出費がなされているのは他でもない医療関係費である。すでに三十兆円に手が届こうとしている。
 今日ほど、いわゆる科学が進歩した時代はない。同時に医療が進歩した時代はないだろう。
 しかし、今日ほど多くの日本人が病に冒された時もなかったのである。
 新たなる問題もやがて出てくるかもしれないが、その起点が今から百三十年前の岩倉具視一行が敷いたレールであると言っても過言ではないだろう。

 今ここで日本は新たなる国家ビジョンを描かなければならない。
 小泉政権は必死になってデフレ政策を講じようとしている。不良債権の処理、株式市場対策、中小企業対策、そして財政・税制問題である。
 しかし、よく考えてみればこれらはかつての路線の延長線上に過ぎないのである。

 では新しい国家ビジョンとは何なのか。
 やはり百三十年前に私たちの心を戻さなければならない。

 すでに当時のイギリスに完全なるモデルがあった。都市は確かに便利に作られていた。そこでは工業が起き、多くの建造物が造られ、時代の先端を行った運河も切り開かれていた。
 しかし、同時にイギリスの郊外は絵のように美しかったのである。その美しさは今も変わることなく、いっそう磨きがかけられている。
 工業とともに、庭園国家がそのビジョンとなるべきなのである。

 - かつての日本は「庭園国家」 -

 日本があたかも世界の工場であるかのように、より安いモノをより多く作り、世界にばらまくことがこれから日本の進むべき道ではない。

 より安いモノをより多く世界にばらまけば、対日貿易摩擦が起きたように、世界各国との間に貿易摩擦が起きることは目に見えている。しかもいつまでも日本が世界の工場であり得るはずはない。中国に代表されるように、多くの国々が日本の後を追い続けている。


 日本人口一億二千万人の生活に必要な分だけ使わせていただいて、その中の余った部分を海外に輸出すればよい。
 石油などエネルギーを輸入しなければならないだろう。しかし、日本国家のある部分を庭園国家として育てていくならば、新しいエネルギーの開発にも臨まなければならないのである。

 日本列島の周りには素晴らしい海が広がっている。黒潮も流れている。そして、エネルギーを生み出すであろう良き風が日本列島の上に吹いている。
 ここに新たなるエネルギーのヒントが控えているように思える。


 日本を新たに庭園国家にする・・・明治の初め、日本を見たイギリス人たちの感動の言葉は、今から思えば皮肉のように聞こえてくるのだろうか。

 「 私はイングランド、スコットランド、アイルランド、スイス、イタリアの湖という湖のほとんどすべてを訪れているが、ここはそれらのどこよりも素晴らしく。それら全部の最も良いところだけとって集めて一つにしたほどに美しい。奇妙な形をした山や丘陵のいくつもの集合は、どれも藪や茂みや樹木に豊かに覆われて、光輝く緑の絨毯のような空隙地と調和を保ち、それらのたたずまいが間を縫って走る狭い水路や湾や入江をあまりにも魅力的に見せ、もっと奥を見たいという誘惑に耐えるのは容易ではなかった。我々は余りにも豊かな自然の恵み、次々に移り変わって終わることを知らない景観の美しさに呆然としてしまった 」(トマス・クック)

 「『岸辺に寄する波風は 疲れ果てしか、絶えだえに うめくが如く泣くばかり 平穏の日ぞ、 遂に来たれり』

 平穏以上の日であった。天国の朝かと思う日であった。紺色の空はあくまでも雲一つなく、青い海はダイヤモンドのように輝き、美しい小さな湾の黄金色の砂浜は、多くの輝く微笑を浮かべているかのようにきらきらしていた。

 四十マイル離れた向こう側には、噴火湾の南西端を示す駒ヶ岳の桃色の頂上が柔い青霞の中にそびえ立っていた。すがすがしいそよ風が吹き、山は黄褐色に色づき、森は黄金色にきらめき、あちらこちらに真っ赤な色が散っていて、深まりゆく秋の紅葉の先駆となっていた。一日が美しく幕を開けたように、美しく日は閉じた。

 私は刻一刻と過ぎゆく時間をどんなに引き止めたいと思ったことだろう。私は自然の美しさを満喫した」(イザベラ・バード)

 これは北海道の噴火湾を見た感想である。今日でもこの噴火湾は非常に美しい。しかし、そこでどのようにして漁業を営むかが考えられている。日本人がこのイギリス人のように、その美しさに心が奪われるほどになるのはいつのことなのだろうか。

- 今こそ美意識の教育を -

日本人がその美意識を高められ、その自然の美しさに心を奪われるようになるならば、日本国家のあり方、経済のあり方、生活のあり方、教育のあり方・・・等に大きな変化が起きることは間違いないのである。

 なぜ日本人はその美意識を失ってしまったのだろうか。

 はるか昔から日本人は俳句を作り、なお昔から短歌を作ってきた。
 今日、日本人はその俳句や短歌をはるか昔のもののように考えている。
 俳句などは右脳を働かせる最高の芸術品なのである。
 右脳は直感力、美意識、情緒・・・などを受け持つ部分である。

 かつての日本人はその右脳が非常に発達していた。それゆえに、江戸時代が鎖国の時代であろうとも、その中から生まれた芸術品は、世界のいかなるものとも比較することができないほどに素晴らしく芸術性の高いものだったのである。

 誰もが知っているあの芭蕉の俳句。
 「古池や 蛙飛び込む 水の音」

 もしこの俳句を単に英語で翻訳するならば、何の意味もないものになってしまう。
 多くの欧米人たちはこのようなものは芸術ではないと抗議するに違いないだろう。
 しかし日本語でしかも右脳で感じるとき、それが素晴らしい芸術の極致、また俳句の極みであることに気が付くのである。
 蛙が古い池に飛び込んだ、その音が素晴らしいのである。またそれ以上に静けさを強く感じることができるのである。

 今からわずか六十年ほど前、日本の多くの若者は兵士として戦場に赴いていった。
 そのとき彼らは辞世の句を詠んだ。
 特に特攻隊員が作った辞世の句には非常に美しく、素晴らしいものが多い。
 なぜ彼らは死に臨んで、そのような美しい辞世の句を作ることができたのだろうか。彼らはそのような教育を受けていたのである。
 このことは非常に重要なことを表している。

 今日でも日本人が、それも学校教育の時代に、より多くの時間で古典を教えられ、俳句や短歌を作ることを教えられ続けるならば、あるいはかつて作られたそれらを暗記する教育を与えられたならば、自然に対する感覚が全く異なってくるのである。
 日本全体がどれほど美しい芸術作品そのものであるかを発見するのである。
 しかし、第二次世界大戦が終結し、GHQ(連合軍総司令部)が日本にやって来て、その教育方針を定めたとき、これらを教えさせないようにしてしまった。

 残念なことに、その瞬間から日本人は自らの歴史、自らの芸術の美しさを感じることができなくなってしまったのである。
 民族がその歴史を失うとき、民族は漂流すると言われている。
 そのことを知っていたGHQのメンバーは、まさに日本において、しかも憎しみを込めて学校教育を変貌させてしまったのである。

 - 日本人よ、美と感動を -

 いまや日本人は美しい国にいながら、その美しさが分からない。さらに、その美しさをいわゆる生活の便利さのためという口実で崩壊させていくことに、何の咎めも感じることができなくなってしまったのである。
 丘が切り開かれていく。そのとき建設会社は美しい雑木を一本も残すことなく切り倒していくのである。
 そして、あたかも将棋盤のような住宅地を作っていく。確かに見晴らしはよいかもしれない。しかし、そこには自然という不思議なメカニズムの中で作られた美は失われてゆくのである。

 人間が優先され、人間の考えによって作られていく・・・・そこには本当の美はない。

 そのような所で生活する日本人たち、なかでもそこで生まれ育った子どもたちは、自然そのものの美しさに触れることができなくなってしまう。
 かつては都会でも自然の美しさというものがあった。道は土だったし、海には海水浴場があった。川ではウナギの稚魚まで上っていく光景を見ることができたのである。
 しかし、今日の都会はどうだろうか。車が優先され、アスファルトが敷き詰められている。確かに公園はある。しかし、それは作られたものであって、自然の草は生えていない。
 都会の公園では蛇などを見ることはできないのである。

 私たち日本人は余りにも間違ったコースを歩き続けた。百三十年間、今日に至るまで何の疑いもなくその道を歩いてきたのである。
 それは先祖たちが築いた歴史との決別であったことも知らなかったのである。
 日本人は何と単純な意識を持たされたことだろうか。テレビを見、あの小さな画面の中に映し出されるものが本当の自然であるかのような錯覚を持つようになった。
 自然は破壊され、都会はいよいよ荒廃したものとなり果てていく。
 このまま日本は崩壊の道を辿るべきなのだろうか。決してそうではない。日本は新しいビジョンを持って蘇生しなければならないのである。

 新しい政治家たちはこの新しいビジョンによって日本を作り直すべきだろう。
 今までのようないわゆる国民総生産を生み出す必要はない。生活レベルがダウンしてもよい。
 この日本を美しく保つならば、衣食住は満たされるはずである。
 今日、多くの日本人は海外旅行をする。年を取った多くの人たちは結局、「やっぱり日本が良かった」という感想を述べるだけである。
 それならば、よりいっそう美しい日本を作り、そのための教育課程を作ればよいのである。

 では、新しい日本建設のエネルギーはどこから出てくるのだろうか。

 それは偉人たちが残していったエネルギーによってである。

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