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日本再生へのビジョン  1  イエス・松陰、そして大西瀧治郎

来週の「龍馬伝」では吉田松陰が登場します。

 この吉田松陰という人物にイエスの姿を見ることができると思えるのです。

 来週の「龍馬伝」はこの吉田松陰の言葉のひとつひとつが龍馬の心を揺さぶるそうです。
 ちなみにこのシーンは台本9ページあったそうですが、最初から最後までNGなしでイッキに撮影ができたそうです。

 イエスは自分の命を種に例えて語りました。
 また同じように松陰も種に例えました。

『 - 「一粒の麦」、豊かな実を結ぶ -

  そのことを述べる前に、有名なイエスの言葉を考えてみよう。
  イエスはその死を前にして、すなわち十字架刑を前にしてギリシャ人たち(ユダヤ人からすれば異邦人)が自分を訪ねてきたとき、新しい時代の到来を感知したのである。

 その時代の節目で次のように述べた。
 「わたしが栄光を受けるその時が来た。
  まことにまことにあなたがたに告げる。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままである。しかし、もし死ねば、豊かな実を結ぶことになる」(「ヨハネ福音書」12・23・24)

 イエスは十字架刑を持って「自分が栄光を受けるその時」と述べた。それは旧約聖書の預言であり、その預言を成就させることによって、世界の多くの人々がどれほど大きな変化を遂げるかを知っていたことを示しているのである。
 しかもイエスはその十字架刑を「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」と述べている。
 麦でも何でも、種が死ななければ次の命が出てくることはない。しかも、一粒の麦が死ねば、やがて多くの実を実らせるという自然の摂理から学ぶことができる。
 イエスは十字架刑を決して犬死であるとは思っていなかった。なお多くの人々に新しい人生が始まることのきっかけになると信じていたのである。
 その意味で。このイエスの言葉は不思議である。そして、不思議な法則であることが分かるのである。
 イエスはその有名な言葉のあとすぐに次のような言葉を述べている。
 「自分の命を愛する者はそれを失い、この世でその命を憎む者はそれを保って永遠の命に至る」(12・25)
 このことはイエスのように死を選ばなければならなかった過去の偉人たち、すべてにおいて当てはまることである。
 例えば吉田松陰。彼は意志半ばにして武蔵の野、すなわち江戸において刑死せざるを得なかったのである。
 だからといって彼は絶望していたのではない。彼は自らの意志を次の世代に委ねたのである。
 吉田松陰はその刑死を前にして、小伝馬町の牢獄で遺書・留魂録を書いている。わずかな紙、わずかな光の中で全身全霊を込めてその遺書は書かれたのだった。
 罪人としての自分が書いた遺書は、役人たちによって葬り去られるだろうと考えていた。
 それゆえに、遺書を二通書いておくならば、少なくとも一通は残ると考えたのである。
 吉田松陰は美しい字で、美しい文章を書いた人物である。しかし、この留魂録の原文を見るとき、非常に不便な中で書き留めていったことが分かる。それでもその遺書の題字のごとく、自らの魂を留め置いていったのである。
 
 そのことが後の幕末から明治維新にかけての彼の弟子たち、長州の藩士たちに大きなエネルギーを与えることになったのである。
 吉田松陰が刑死しても、その意志は受け継がれていったわけである。

 「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

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 吉田松陰の死は貴重であり、そのエネルギーは新しい時代を作る起爆剤となった。そして、今日においてもその意志は受け継がれているのである。
 また西郷隆盛においてもしかりだろう。
 彼は反逆者として鹿児島・城山で自刃したのではなかった。彼には彼の思想、そして彼のビジョンがあった。そして、彼はそれを途中で停止せざるを得なかった。
 しかし、自らの願いは将来必ず成就すると信じていたのである。
 西郷隆盛は理性の人である。そして、なお先を見通すことのできる人物だった。

 - 大西瀧治郎中将の自刃 -

大西瀧治郎中将という人物をご存じだろうか。
 彼は昭和二十年(一九四五年)八月十六日未明、自刃した。
 八月十六日といえば、終戦の翌日である。しかも、終戦の日が暮れて、新しい日が訪れるまでに彼は自らの腹を掻き切ったのである。
 八月十六日午前四時四十五分に、彼は軍令部次長官舎で、まさに武士の作法通り、肚を十文字に掻き切り、かえす刀をもって首と胸を突き刺した。
 急報によって海軍次官が軍医を連れて駆けつけてきたが、大西中将は近寄る軍医を手で制し、「生きるようにしてくれるな」と言い、介錯をも拒んだのだった。そして「これで、私が送り出した部下たちとの約束を果たすことができる・・・」と、大量出血の中で激痛に耐えること実に十五時間余り、しかも笑みをたたえつつ午後六時に絶命したのであった。

 彼が約束を果たすことができるとは、何を指しているのだろうか。
 大西中将こそがあの特攻戦法を生み出さざるを得なかった人物である。
 一人一人の特攻隊員が飛び立っていくとき、彼は「自分も必ず後で行く」と言い続けた。
 そして、彼は終戦の日の後、その約束を自刃によって果たしたのである。
 十五時間にも及ぶ大量出血の中の激痛、しかし彼はそれを耐えると言うよりも、特攻隊員として死を遂げていった者たちの苦しみを自分の身をもって味わい続けたのだろう。
 大西瀧治郎中将の副官は門司親徳氏だった。彼はその回想録の中で、次のように述べている。
 「大西長官が、いつ体当たり攻撃を決意したのか私にはわからない。ただ私が確実に思ったことは、もし長官自身が若かったら、自分が真っ先に体当たりをやったのではないかということであった。台湾沖航空戦で、多数の消耗を目のあたりに見た上、フィリピンに着任してみたら、使用できる飛行機が三、四十機しかない・・・」
 このようにして特攻攻撃は実行に移された。それを編み出し、若い隊員たちを送り出す大西中将の心中はいかばかりだったろうか。
 今日、多くの日本人は特攻隊員たちが犬死をしたと思っている。ある者たちは大西中将を外道の指揮をとった人物であると軽蔑している。
 しかし、彼は特攻をやらなければならなかった。まさに戦術にない「統率の外道」であることを誰よりも知っていながら、なお特攻戦法を取らなければならなかったのである。
 特攻によって日本はアメリカに勝たないまでも負けない、その精神が続く限り日本は亡国にならない・・・。

 大西中将のいわゆる特攻精神は「身を殺して仁をなす、わが身を捨て、公を助ける」ということだったのであろうが、彼はその言葉を吐きつつも、最後まで最高指揮官として孤独であり続けた。
 大西中将はその副官の門司氏に「わが声価は棺を覆うて定まらず、百年のち、また知己ならん」と語って、その特攻そのものについて一言も弁明することなく、自刃を選んだのだった。

  - 戦わずして亡国となるのか -

しかし、この大西中将が考えていたこと、あたかも「召命」のごとくに感じたことは何だろうか。おそらく先ほどのイエスの言葉と同じことではないだろうか。
 彼自らはこの戦争の開戦のときから、この戦争ではアメリカに勝利することはとてもできないと感じていたのである。真珠湾攻撃のとき、彼は真っ向からその作戦に反対していた。
 しかし、戦争は開始されてしまった。
 軍人として、また指揮官として、その戦争が始まった限りは勝つ戦争をしなければならない。頭では負けることが分かっている。しかし、日本のために勝つ戦争を実行しなければならなかったのである。
 大西中将はこのような矛盾の中で、自らの職務を全うしなければならなかったのである。
 彼が多くの軍人たちに訓示した言葉が残っている。
 「・・・今まで我が軍には局地戦において降伏というものがなかった。戦争の全局においてもまた同様である。局地戦では全員玉砕であるが、戦争全体としては、日本人の五分の一が戦死する以前に、敵の方が先に参ることは受け合いだ。米英を敵とするこの戦争が、極めて困難なもので、特質的に勝算のないものであることは、開戦前から分かったのであって、現状は予想よりも数段我に有利なのである」
 
 そうであると分かっていながら、困難な戦いが始まってしまった。勝ち負けを度外視して、彼は戦いに挑んでいった。

 「・・・敵の圧迫に屈従して戦わずして精神的に亡国となるか、或いは三千年の歴史と共に亡びることを覚悟して、戦って活路を見出すかの岐路に立ったのである。ところで、後者を選んで死中に活を見出す捨身の策に出たのである」
 
 では、彼は捨て身の策というのをどのように考えていたのだろうか。それは決して何とかなるだろうという漠然としたものではなかった。いかなる筋道において勝つかの見当はついていると述べたのである。

 「・・・純然たる武力戦による、海の上で勝つ見込みは殆ど無いが、長期持久戦による思想戦に於いて勝たんとするものであって、武力戦はその手段に過ぎないのである。
 即ち、時と場所とを選ばず、成るべく多く敵を殺し、彼をして戦争の悲惨を満喫せしめ、一方国民生活を困難にして、何時までやっても埒のあかぬ悲惨な戦争を、何が為に続けるかとの疑問を生ぜしめる。この点、米国は我が国と違って明確な戦争目的を持たないのであって、その結果は、政府に対する不平不満となり、厭戦思想となるのである。
 彼米国が、日本を早く片付けねばならぬと焦っている原因は、実に此処にあるのである」

 彼は百の戦いにおいて日本が九十九敗北したとしても、最後の一戦でアメリカを叩けるならば、引き分けに持ち込むことができると考えていたのである。


 - 何を語るか、中将の「遺書」 -

責任ある軍人の立場として、特攻作戦を実行に移さなければならない立場として、このような見望を持っていた。しかし、戦いは日本敗北に終わってしまった。
 八月十五日、あの終戦が発令される直前まで御前会議が行われていた。はたして連合国側が差し出しているポツダム宣言を受諾するべきかどうか、日本の国体はその後、どうなるのか・・・多くの議論が行われていた。しかし、大西中将は戦いを始めた限り、最後まで戦いを勝利に導かなければならないとしてポツダム宣言受諾に頑として反対し続けていたのである。
 最後の一戦において勝利する。そうすることで日本は生き残ることができると信じていたのである。
 しかし、そのようにはならず、彼の意見は退けられたのである。
 というのは大西中将は、中将なるがゆえにこの御前会議の席に連なることはできなかった。彼は海軍大臣の下に仕え、海軍大臣に自らの意見を言い続けていたが彼の意見は退けられたのである。
 彼は自刃を遂げる前、遺書を残している。
 今日、靖国神社の資料館にその遺書が保存されている。見学者はそれを目にすることができる。
 誰もがその遺書を見るとき感動させられる。なぜならば、もう数十分もすれば自刃を遂げる人物でありながら、その筆先が全く動揺していないからである。
 何という落ち着いた確信に満ちた字・・・。

 彼は昭和十九年(一九四四年)十月二十五日、初めて特攻機が飛び立ったその時から特攻隊員と共に死を覚悟していたのであろう。
 やはり、副官であった門司氏はその点を次のように述べている。

 「翌日、大西長官が自刃された旨の無電が入った。私は悲愴な思いも、悲惨な感じもしなかった。むしろ、長官は死んだというより、充分に生きたのだという印象を強く受けた」
 
 大西中将の遺書は次のとおりである。

 『 特攻隊の英霊に曰す   善く戦いたり深謝す 

   最後の勝利を信じつつ  肉弾として散華せり

   然れ共其の信念は    遂に達成し得ざるに到れり

   吾死を以て旧部下の   英霊と其の遺族に謝せんとす

   次に一般青壮年に告ぐ  我が死にして軽挙は

   利敵行為なる思い    聖旨に副い奉り

   自重忍苦するの誠とも  ならば幸なり

   隠忍すとも日本人たるの 矜持を失う勿れ

   諸子は国の宝なり    平時に処し猶克く

   特攻精神を堅持し    日本民族の福祉と

   世界人類平和の為    最善を尽くせよ 』

 この遺書を読むと、誰もが彼が日本の再生を信じていたことを知るのである。
 いま日本国家はデフレ・スパイラルである・・・。
 しかし、日本は苦しさの中、なお次の新しいビジョンを生み出すチャンスをつかもうとしている。
 ここにイエスの「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ一粒のままである。しかし死ねば多くの実を結ぶことになる」という言葉を思うとき、どれほど多くの人々がこの日本再生を信じて、自らの命を捧げていったことだろうか。
 特攻隊員約四千名はまさにそうだった。若い命のすべてを未来の日本のために捧げていったのである。
 それは決して無駄な死ではなかった。彼らの多くは日本の再生を信じていたのである。  』

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