日本の不思議

龍馬伝から思うこと 4

(ココログのパスワードを忘れてしまって更新する事ができなかったのですが、復活することができました。以下の日記は7月初めに書いたものです。)

NHKの大河ドラマ「龍馬伝」も第3部に突入する時期になったようです。普段テレビはあまり観ることはないのですが、この「龍馬伝」だけは毎週楽しみにしている唯一のテレビ番組であります。

 久しぶりにこのタイトルで日記を書きたくなりました。
 というのは本当に終末期が訪れそうな雰囲気が漂い始めたからであります。


 以前の日記でアルバート・パイクという人物の残した手紙を紹介させていただきましたが、それを再度掲載します。

 『 世界を統一するためには今後三回の世界大戦が必要であろう。1回目はロシアを倒すために、2回目はドイツを倒すために、3回目はシオニストとイスラム教徒がお互いに滅し合い、いずれ世界の国々もこの戦争に巻き込まれていく。それが最終戦争に結びつくであろう。

 第一次世界大戦では、ツァーリズムのロシアを破壊し、広大な地をイルミナティのエージェントの直接の支配化に置くために仕組まれることになる。そして、ロシアはイルミナティの目的を世界に促進させるための「お化け役」として利用されるであろう。

 第二次世界大戦は、「ドイツの国家主義者」と「政治的シオニスト」の間の圧倒的な意見の相違を操作の上に実現されることになる。その結果、ロシアの支配領域の拡大と、パレスチナにイスラエル国家の建設がなされることになる」

 第三次世界大戦はイルミナティのエージェントが作り出す政治的シオニストと、イスラム指導者たちの対立を利用して引き起こされなければならない。戦争は、イスラムと政治的シオニズム(=イスラエル国家)が互いに破壊し合うように仕向けなければならない。その間、他の国々は再びこの問題で分裂し、物理的、道徳的、精神的、経済的に完全に疲弊するまで戦わざる得なくなる。このようにして各国は、ようやく公にされた悪魔礼拝者の教義を受け入れざるを得なくなる 』
 (ジューゼッベ・マッツイニーへ宛てた1871年8月15日付けのアルバート・パイクの手紙)

 先月、京都大学でシュロモー・サンドという人物が講演を行ったことを聞きました。
 今、この人物が著した「ユダヤ人の起源」という書籍が世界で注目されており、15ヵ国で翻訳され、欧米では衝撃のベストセラーになっております。

 その書籍の表紙には「聖書時代から現代まで、世界の常識を根底から覆す歴史的大作」と書かれております。


 シュロモー・サンドはイスラエルのテルアビブ大学歴史学教授で、アシュケナジー・ユダヤ人。彼はイスラエルにおいて政治、経済などを動かしているユダヤ人と称する人々は、本当のユダヤ人ではなく、カザール人でユダヤ教に改宗した人々であることをユダヤ人の側でありながら、その事実を明確に書籍をもって証明されてしまったのです。

 さらに彼は、本当のユダヤ人とはイスラエルによって虐殺され、追放され、苦しめられているパレスチナ人そのものであることをも証明されてしまったのです。

 かつてPLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長が「私たちのPLOの中に、多くの本当のユダヤ人がいる」と述べたことがありましたが、それを本来のユダヤ人ではないアシュケナジー・ユダヤ人であるイスラエルの大学教授がそのことを詳細な資料で事実を明らかにしたのであります。

 この本は現在15ヵ国で翻訳されているようですが、それを多くのアラブ人の人たちが見たならばどのような影響をアラブの人々に与えしまうのか。それが今後注目されることになってくると思われるのです。

 ちなみにシュロモー氏はユダヤ人のAD70年におけるローマによるユダヤ人の国外追放を否定するのかという質問に対して次のように答えました。

 「ユダヤ人はユダヤ人追放を誰もが事実として信じている。しかし、それを記した歴史書は一冊もない。ユダヤ考古学の研究者に質問したことがある。すると彼は「追放ではなく、破壊に伴う移民である」と言ったことがある。しかし、大量の移民が出たことを示す事実はない。本の中で「追放の発明」と書いたのはそのような意味である」

 そしてさらに「パレスチナ人こそがユダヤの地にいた人々の始祖、すなわち本当のユダヤ人である」と書かれていることを指摘されて、次のようにも述べられました。

 「シオニズム(19世紀以来のユダヤ人国家建設運動)の歴史家たちは、7世紀のイスラム征服でユダヤ人は追放されたと唱えている。しかし、アラブ人がエルサレムのユダヤの民を追放した証拠はまったくない。農民は簡単には土地から離れない。アラブ人がエルサレムを占領し、彼らの宗教を受け入れれば、税を免除したのである。そのことを多くの農民たちが受け入れたのである。追放がなかったとすれば、ヨルダン川西岸にいるハマスの活動家たちのほうが、私たちよりも古代のユダヤの民の子孫である可能性はずっと高い」
 
 また、このようなことはイスラエルのユダヤ人には受け入れられない意見であることに「パレスチナにいるアラブ人は、かつてのユダヤの子孫ではないかと考えたのは私が初めてではなく、初期のシオニズム運動の指導者たちも同じように考えていた」と述べられ、「特に1948年のイスラエル独立で、初代首相となったベングリオンは、若い頃からパレスチナのアラブ人は、ユダヤ人の血を継ぐ者たちだから、共に国を作ることができると自らの本に書いていた。ところが彼は独立宣言では、イスラエルは追放されたユダヤの国であることを否定したアラブ人と共に国を作るという考えを排除した」と補足しました。

 このように彼は今までユダヤ人が決して公にしなかった事実を次々に暴露していったのです。
 
 これはまさに驚くべき出来事、そして最も驚くべき出来事はアラビア語に翻訳されているという事実であります。
 イスラエルと戦うアラブ諸国のイスラム教徒が、この本に触れたときいったいどんな反応を見せるのでありましょうか。なかでもイスラエルによって痛めつけられ、殺され、追放されてきたパレスチナ人が、実は本当のユダヤ人の子孫であったと知ったとき、彼らはどのような反応を示し、どのような行動に移すのでしょうか。
 あと数ヶ月の後に、アラビア語の翻訳本の登場が予定されているのであります。

 
 このような今まで考えられない出来事が起きはじめ、そしてアルバート・パイクの手紙に書かれた内容。それは何を物語るのでしょうか。
 この手紙が書かれたのは1871年、日本で言えば明治4年の頃であります。こんな時から彼らの計画は密かに進められていることも分かるのです。

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」。
 小生は土佐特有の上士と下士の差別を見ていると、イスラエルにおける今日のユダヤ人とアラブ人の待遇と全く同じような感覚になってしまいます。
 そして単なるドラマではあるのですが、幕末期という時代背景の真っ只中で虐げられながらも「藩」ではなく「日本」という思想を持った龍馬の生き方に強い憧れを感じるのです。
 
 それこそ「大和心」といいますか、ドラマを通して本来の日本人として決して失ってはならないものを示してくれているのではないでしょうか。

 思えば最近、大東亜戦争の真実はアジア諸国からの金塊の強奪であったという衝撃の事実が判明しました。
 しかし、それは日本がかつての日清・日露戦争において多大な借金を背負わされ、そのために彼らからの要望を受け入れざるを得なかったからです。
 そのときの「大和心」は特攻によって示されたのではないでしょうか。多くの人々は彼らの運命を悲劇的に捉えますが、その捉え方は間違っているのではないでしょうか。
 彼らも幕末の時代に、大いなるロマン、そして大和心を礎にして自らの命を昇華させた志士たちと同じあったと考えるのです。
 ですから特攻隊の部隊名が本居宣長の歌から命名されたのでしょう。
 
 ・・・「 此の程に思ひ定めし出立はけふきくこそ嬉しかりける 」

 上の句は吉田松陰が江戸で斬首刑を受ける直前に書かれたものでありました。

  また彼は「 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂 」という句も残されています。そして留魂録で彼は語りました。

 「今日死を決するの安心は四時の循環に於いて得る所であり、蓋し彼の禾稼を見るに、春種し、夏苗し、秋苅り、冬蔵す。秋冬に至れば人皆其の歳功の成るを悦び、酒を造り醴を為り、村野歓声あり。未だ曽て西成に臨んで歳功の終わるを哀しむものを聞かず。吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば惜しむべきに似たり。然れども義卿の身を以て云へば、是れ亦秀実の時なり、何ぞ必ずしも哀しまん。何となれば人寿は定りなり、禾稼必ず四時を経る如き非ず。十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。二十は自ら二十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十、百は自ら五十、百の四時あり。十歳を以て短しとするはけい蛄をして霊椿たらしめんと欲するなり。百歳を以て長しとするは霊椿をしてけい蛄たらしめんと欲するなり。斉しく命に達せずとす。義卿三十、四時巳に備わる、亦秀で亦実る。其の秕たるとその粟たると吾が知る所に非ず。若し同志の士其の微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ぢざるなり。同志其れ是れを考思せよ。」
(吉田松陰遺書 1859年)

 このようにどのような年齢で死を迎えようと人は、自らの四季を巡ってきたと述べられたのです。
 そして彼らは日本を想い、日本を愛して、その人生に大いなるロマンを感じ、ビジョンを持って生きたのでしょう。
 まさしくそれが本来の日本人の姿であったと思われます。




 先日、サッカーワールドカップで日本は大いに湧いていました。
 ・・・しかし、サッカー選手の立場であればその気持ちはよく分かりますが、サポーターと呼ばれる人たちも一緒になって一喜一憂されている光景を見ると、もの悲しさを感じます。便利快適、上っ面の平和、そして食糧が自国のみで賄えなくとも、何とも感じない現代人、小生もその一人ではありますが、それが現代人の姿なのです。
 右翼とか左翼とか、そんな狭義のことではなくて、本来の日本人とは・・・。
 そんなことを考えると幕末の時代や、戦時中に生きた方々のほうがどんなに幸せであったろうかと小生は思ってしまうのです。

 「龍馬伝」はそのような日本人の本来の心を伝えているようです。



 いよいよ、彼らは第三次世界大戦という最終戦争の準備に入ってきたようです。シュロモー氏の書籍はその一つでありますが、イランへの制裁の強化、そして5月に起きたイスラエルによるトルコ人の殺害などなど。

 残念なことに日本人には聖書的な発想がありません。また、彼らの存在をトンデモ話と笑い飛ばす人が大半であります。

 しかし、アルバート・パイクという人物が残した手紙。

 この事実がある限り、近い将来最終戦争に突入するときが必ず来ることを前提にしたほうがいいのではないでしょうか。
 もし、幕末や特攻の人たちが今の時代に現れたならば、そのように捉えるのではないでしょうか。
 
 憧れるといいますか、小生も大それたことなど出来なくても、百姓の立場からそのときにお役に立てるような自分になりたいと思っております。
 そんな小さいロマンではありますが、そんなことに憧れるのです。

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本来の日本人 2 (日本の不思議)

19世紀にアルバート・パイクという人物がいました。彼は「黒い教皇」と呼ばれる秘密結社の大御所でありました。

 そして彼が書いた手紙が外部に漏れ、その内容が知られています。

 「・・・第三次世界大戦はイルミナティのエージェントが作り出す政治的シオニストと、イスラム指導者たちの対立を利用して引き起こされなければならない。戦争は、イスラムと政治的シオニズム(=イスラエル国家)が互いに破壊し合うように仕向けなければならない。その間、他の国々は再びこの問題で分裂し、物理的、道徳的、精神的、経済的に完全に疲弊するまで戦わざる得なくなる。このようにして各国は、ようやく公にされた悪魔礼拝者の教義を受け入れざるを得なくなる」
 (ジューゼッベ・マッツイニーへ宛てた1871年8月15日付けのアルバート・パイクの手紙)

 上の内容は彼の手紙の一部です。
 そしてこの手紙の中には第一次世界大戦でロシアを破壊し、第二次世界大戦で、ドイツの国家主義者を利用してシオニズムを煽り、イスラエル国家を樹立させる計画も述べられていたのです。

 そして第三次世界大戦で再建したイスラエル国家とイスラム国家を破壊させる。また、その戦争は最初から核兵器を使うとも書かれてあるそうなのです。

 この手紙が書かれたのは1871年8月、日本でいえば1868年が明治時代の始まりなので、まだ世界大戦というものが全く考えられない時代に彼は述べていたことになるのであります。
 そしてイスラエル国家の再建は1948年5月ですから、このときイスラエル国家など影も形もない頃でした。

 そして、このシナリオが書かれてから約150年という歳月を要しても最後の世界大戦は未だ起きてはいないのですが、このように彼らの戦略は気が遠くなるほどの長年月を要して進められてきたことが窺えるのです。
 そしてその原点となっているのは「イエス憎し」。それは2000年前に遡るのでしょう。



 話を元に戻しますと、日本も彼らの戦略により、陥れられてしまいました。そして多額の借金を背負わされて彼らの僕となったのでしょう。
 そして大東亜戦争という大義の裏で、金塊の略奪が始まるのです。

 敗戦が濃厚となった頃、日本は特攻隊を編成します。それはこの戦争に負けないための起死回生の作戦でありました。しかし、それと同時にこの作戦は日本が本来の日本であるための最後の秘策であったのです。

 特攻隊の生みの親である大西瀧治郎中将は、この戦争に反対でした。 しかし、戦争を始めた以上は負けることはできなかった。この特攻隊の生き様というものを世界に見せて、これ以上無意味な戦争を続けないために、互角の戦いに挑んだのです。

 しかし1945年8月15日、日本は白旗を挙げました。

 そして彼は翌16日、彼が若者を送り出すときに告げていたことを自ら実行されたのでした。
  「私も行く」・・・壮絶な最後であったそうです。


 ・・・しかし、天皇の名の下に日本が奪った金塊でも、その所有権は日本にはありません。
 それは世界の大財閥、ロスチャイルドのものなのでしょう。
 それが幕末から先の戦争に至るまでの彼らの日本という国に対する戦略であったともいえるのでしょう。
 しかし、世界の富を握るロスチャイルドにも、ひとつの懸念があるようです。・・・それは日本に同胞がいること。
 これが脳裏には、ちらついているのです。

 そのひとつの証しというべきものが、その直系である女性歌手が親日家であるという事実であります。彼女は日本を愛しているし、それが許された女性でした。

 旧約聖書に貫かれた法則、それは同胞は祝福しなければならないのです。
 それが今後、どのような形で現れるのか。彼らもこの日本の不思議とでもいうべき事柄が気がかりで仕方がないのであります。

 それが神道で告げられている「一厘の仕組み」なのでしょうか?

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多民族国家日本 4 (お上にとって危険な作家)

松本清張氏は小説ばかりではなく多くのジャンルを手掛けたが、その中で最も有名なのは「日本の黒い霧」である。
 彼のように小説家にして、現実的な事件、それも政治的な要素を含んだものを明らかにした人物はいないであろう。

 この点を小説家・杉浦明平氏は、次のように述べている。

 「・・・ところで、敗戦後の日本の権力をにぎっていたのは、いうまでもなく、ワンマンの聞こえ高かった吉田茂でも、わが優秀で不死身の官僚組織でもなく、マッカーサー将軍を総司令官とするアメリカ占領軍であった。
 『ゼロの焦点』では占領政治の落としていった悲劇がテーマとして取扱われていて、かつてやむなく売春婦におちたことのある女性をあわれ深く描いているとはいうものの、あの混乱と雑踏と変転をきわめた世界の政治図絵は、とうてい推理小説の狭い枠に納めきれるものではない。
 推理小説どころか、文学の世界全体として、まだそのような巨大な壁画は描かれていないし、描かれるかもしれぬといううわさもまだ耳にしたことがない。
 ということは、あの占領地下の日本に目くるめくように次々に継起した様々な雑多な大事件を、たれか作家がよくとらえ、よく消化して、自己の文字として吐き出すには、まだまだ相当に長い年月の経過を必要とするのだろう。いやそれどころか、どの重大事件についても、わたしたちはどれだけ真実を知っているのか。」

 「そういう意味で、松本清張の『日本の黒い霧』シリーズは、これら一連の怪事件の中にアメリカ占領軍の政策の変動やその謀略を導入したことで、画期的な意味をもっている。もちろんそれだけですべてが一挙に明らかになるというわけではなくとも、曖味模糊、もやもやとしていたことがらの輪郭がほぼ明らかになり、世の中には一般庶民の日常生活の常識では考えられないようなひどいことが起こりうることを教えた。
 また、政治は、政策や選挙だけでなく、外国の黒い力によって左右されるし、公平に治安を守るべき警察や検察庁もまたその力に動かされることが絶無ではないということも教えてくれた。」
 
 「・・・それどころか、米軍が占領をやめて引揚げたが、占領軍の友であり、しばしばその手先をつとめた日本の為政者や治安当局はその謀略のやりかたを学んだのではなかろうか。
 デッチ上げも日本人特有の繊巧さにアメリカ的科学性を加えたのではなかろうか。その徴候がかすかに見えないではない。
 『征服者のダイヤモンド』の末尾で、アメリカに押収された巨大な額のダイヤが現在も謀略の資金になっていてアメリカの謀略がどの辺で、いかなるかたちで行われているか、事件がおこってからでなければわからないと心配しているけれど、資金だけではなく、やりかたを日本の当局が身につけた以上、けちくさいかたちであろうが、いつでも奇怪な事件がおこるおそれがある・・・いやなことだが黒い霧は晴れ渡っていない」

 ここでいう「日本の黒い霧」とは何か。
 松本清張氏は何を取り上げたのか。下山国鉄総裁謀殺事件、白鳥事件、帝銀事件、松川事件、謀略朝鮮戦争、そしてレッド・パージなどであった。

 
 松本清張氏が死去した時、小説家・森村誠一氏は、その追悼文を次のように書いた。
 「作品の質量、影響力もさることながら、清張氏の偉大さはその姿勢にあるとおもう。氏は常に反体制的な姿勢を貫いてきた。作家は体質的に反権力であらねばならない。国民作家として、これほど偉大な貢献をしながら、お上からこれほど無視された作家も少ないだろう。
権力の庇護を受け、お上に迎合した御用作家の御用作品ほどつまらない作品はない。
 面白い小説は本質的に危険性を孕む。つまり氏はお上にとって危険な作家であったのである。お上から顕彰されないことが氏の栄光であり、作家としての本来の姿勢を貫き通したことを意味している。
 清張氏の作品の本質は、時代を投影し、人生と密着し、人間の謎の根源に肉薄し、我々日本人とその国のもつ弱味を焙り出してしまった。だからこそ危険な作家なのであり、その危険性こそ読者が求めていたものであった。」
 ちなみにこの論文は「サンデー毎日」に掲載された。そしてその題は「お上にとって危険な作家だった、松本清張氏」である。


 哲学者・鶴見俊輔氏も「半生の記」を解説して、次のように述べている。
 「小説家として最初の作品を世に送った時、彼は四十歳だった。つとめをやめて、小説に専念することにした時、彼は五十歳に近かった。
 修業時代が長かったというのではない。もともと、彼は、文学者になろうとして修業してきた人ではない。小説の懸賞金が必要だという実人生上の動機が、最初の小説を書くいとぐちとなった。その後百冊に余る著作も小説の名人と人から言われることを必ずしも目的としていないように見える。
 推理小説という様式をえらんだことからも来ているのだろうが、彼の作品は、専門の作家になってからも、彼が自分の人生を生きてゆく必要の中からうまれたものであり、また彼をとりまく社会の問題ととりくむ努力の中から生まれたものである。
 この意味で、彼は、明治以後の小説家の中でめずらしい人ではないかと思う。
 彼は、くりかえし、自分には、文学者たちとの親しい交友がないと書いている。文士生活二十余年の今日も、そうかどうかは、私にはわからないが、もしそうだとすれば、それは、彼の作品にひそんでいる特有のまなざしに由来しているように思える。」

 「彼は、家がまずしいために、小学校以上の学校に行けなかった。給仕をしているころ、もとの同級生が中学校の制服を着て歩いているのに出会うと、思わず物陰に入ってやりすごしたと書いている。印刷工となり、新聞社の広告部員になってからも、学歴のないことはくりかえし彼を上役の人々からへだてて、下積みの人間の中にかくれさせた。
 こうして彼は、後年の彼の小説のカメラ・アングルとなる黒い視点を下積みの仲間と共有することとなり、文学者としての彼のまなざしをこの期間に獲得する。
 だが、学歴なくして自分の才能に確信をもつ人のいくらかがするように、自分の過去をいつわろうとは決してしなかった・・・。
 学歴のないことについてたえず劣等感を感じながらも、彼が、いつもしっかりと立って、学歴にものをいわせる人びとの間でくらしていった力は、何によるものだろうか。」(「松本清張全集」第34巻・解説)

 

 旧約聖書に「血は命である」という言葉がある。
 血こそその人の性格を作り、人格を作り、命を支えるというのである。
 これを医学的な面で述べることもできるであろうが、血統という場合、思想までも受け継いでいるかのごとくに思われる。
 松本清張氏は亡くなった。しかし、彼は血を呼び醒ましたのである。
 古代ユダヤの思いを噴き出させたのである。
 松本清張氏は単なる小説家ではない。「見えざる手」によって支えられ、かつ用いられた人物であった。
 このような視点で日本の過去、そして日本の将来を探ることができる。

 日本のゆくえには何が待っているのであろうか。

(以上、情報誌「エノク」1999年11月号より)



 以上、長くなりましたが、10年前に日本の国家の成り立ちやその構造に触れられた宇野正美氏の論文を紹介しました。
 それから2年後、ニューヨークで起きた911によって世界の流れは急展開となり、今や米国は衰退させられいよいよ舞台はクライマックスに向うようです。
 そのような時代を知る意味において、これらの知らされることのない情報を知ることは、これからさらに展開される日本及び世界の動きに対しての心構えになるものではないかと思いました。
 そして最近、宇野氏は司馬遼太郎氏の事柄に触れられました。
 NHKは体制派と反体制派に分かれていると聞いたことがありますが、その中で来年の大河ドラマで坂本龍馬が取り上げられたということに今の時代に不思議な思いを抱かせてくれます。
 独りよがりかもしれませんが、これは古代ユダヤ人のいる日本においての覚醒の起爆剤になるようにも思います。
 
 そのようなことから、今回の日記を紹介させていただきました。

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多民族国家日本 3 (松本清張、そのエネルギー) 

世界最高権力集団による世界支配も一時期で終わってしまうものと推測される。では、日本で次に何が出てくるのであろうか。


 私たちはその予兆を、小説家・松本清張氏に見ることができる。

 松本清張氏も田中角栄氏と同じように高等小学校卒である。しかし、そのエネルギーたるや、大きな影響を日本人に与えた。両者はいったい何なのであろうか。ひと言葉で言えば血の叫びといっても過言ではないであろう。
 松本清張氏が小説を書き始めたのは四十歳である。それも小説のための小説ではなく、懸賞小説に応募したのである。「西郷札」」がそれであった。
 本格的に文筆家として世に出たのは五十歳を過ぎてからである。そして八十二歳で亡くなるまで彼は猛烈に筆を執った。
 
 松本清張氏の書いたものは推理小説だけではなく、時代小説、歴史小説、自伝、私小説、さらには考古学・古代史のジャンルにも広がっているのである。
 松本清張氏のことを評して、文芸評論家の秋山駿氏は次のように述べた。
 「いったい、頭の内部はどうなっているのかと思う。むろん、どこかの作家だって、短編やエッセイを数えればそんなことをしているかもしれない。しかし、清張のはそれと違う。彼は、恐るべきエネルギーと持続によって、そのジャンルにおいて作品を創造し続けたのである。これは異常といっていいものである。」
 「『昭和三十四年(1959年)五十歳。執筆量の限界をためそうと、積極的に仕事をしたが、その結果腱鞘炎にかかり、やむなく速記に頼ることとなった・・・。このとき連載だけでも七本という驚くべき仕事量。
 昭和三十六年(1961年)五十二歳。杉並区高井戸に自宅を新築し転居。この年度より直木賞選考委員となる・・・。実に十一本の新連載を含む二十五の作品を発表した』
 私などにはとても人間業とは思われない。こんな活動が二十年も、三十年も持続する。だから、清張全集も、第一期があり、続けて第二期があり、今回が第三期で、私の解説するこの巻が第六十六刊目である。こんな作家は、日本の近代文学史上類例がないのではないかと思う。私はささやかな文芸批評ではないかと思う・・・。
 なんというエネルギー! だが、エネルギーはただ放っておけば、作家を量産に奔走させ、乱作を強いる。清張文学はどうか?
 私は五年間、この巻に収められている『草の径』を読んで、思わず感嘆、書評を書いた。
 その文体には、日本近代文学の純乎たる正統の血脈が宿っていた。そして、文章に密度があった。密度こそが作家精神の緊張とたるみを測る尺度である。」

 さらに秋山氏は次のようにも述べる。
 「なんという自分の見出したテーマの持続性、何という執拗な探求!
 まさに、『途方もない』作家であった、という他はない。」
 (以上、文藝春秋版「松本清張全集」第六十六巻・解説)

 
 松本清張とは何だったのであろうか。
 以前、彼がヤジロウの血を受け継ぐものであるということをある人から教えられたことがある。
 ヤジロウとは何か。そのことを当誌1999年8月号に詳しく述べた。哲学者・和辻哲郎著「鎖国」にヤジロウのことが次のごとく述べられている。

 「ザビエルに日本伝道の意図を起させたのは、鹿児島人ヤジロウである・・・。ザビエルはこの一人の日本人を通じて、日本民族に対する強い信頼と希望を抱くに至った。
 その意味でヤジロウは十六世紀後半の代表者、日本民族の突端の役目を務めたのである。
 しかし、日本の歴史はこの重大な役目を務めたヤジロウについて何一つ記録していないのである。」

 だからと言って、ヤジロウのことは歴史の彼方に忘れられているのであろうか。
 そうではない。
 実は、ヤジロウが生きていた頃には、ザビエルに代表されるように多くのキリシタンがヨーロッパから日本にやって来ていた。そして彼らの記録が残っている。
 それらの記録を綴り合わせば、ヤジロウなる人物は政治的にも、経済的にも、軍事的にも強力な指導者であったことが分かる。
 そのままでいけば、徳川幕府にとっては目の上のこぶ。叩き潰さなければならない存在だったのであろう。

 ヤジロウは今日では海賊と言われている倭寇を率いていたのである。それゆえに、朝鮮半島、中国、さらにはフィリピンから今日の東南アジア諸国にまで、大きな影響力をもっていた。
 「黄金の日々」と言われるのは、単に商売人が、単に航海士たちがこれらの地域で活躍していたのではなく、指導者がいたのである。
 
 その指導者の名をやヤジロウといった。

 そのヤジロウについては、キリシタンが詳しくローマ法王庁への報告書で述べている。
 ヤジロウの子孫の流れが西郷隆盛たちである。彼らは古代ユダヤの直系、島津氏の配下にして、甲突川の東、すなわち下加治屋町に集結していたのである。
 それこそ長きにわたって、狭い下加治屋町でその血は受け継がれてきたのである。そして、日本が最大の国難、幕末・維新、日清戦争、そして日露戦争の時に、これらヤジロウの子孫が日本を救う活躍をしたのである。
 当時の日本の政治、経済、軍事の指導者たちはすべて、この狭い下加治屋町から出たのである。

 日本のエスタブリッシュメントたちは、ある時は彼らをコントロールし、ある時は彼らに反発したこともあった。幕末・維新のとき、彼らは自分たちの配下の下級公卿を西郷たちに貸し与えたこともあった。
 所詮、日本のエスタブリッシュメントたちは巧みな方法で彼らを操っていたのである。
 大久保利通は完全に彼らに妥協し、新しい明治以後の日本の近代国家建設の青写真を敷いた。しかし、西郷隆盛は死に至るまでヤジロウの子孫であること、その流れとその叫びに忠実に従っていったのである。
 その後も、意識する、しないにかかわらず、二つの流れが日本歴史の中に流れているのである。
 そのことは、はるか大化の改新から今日に至るまで変わっていないことなのである。

 おそらく、松本清張氏は自分がヤジロウの子孫であることに気が付いていなかったかもしれない。しかし、松本清張氏のすべてを追った人物がそのことを指摘したのである。現に、松本清張氏の業績はヤジロウのそれであり、あたかもヤジロウの血がそのままエネルギーとなって、松本清張氏を動かしたかのごとくである。
 松本清張氏の小説の代表作の一つが「砂の器」であろう。
 そこには一人の天才的青年ピアニストが出てくる。しかし、彼に暗い過去がある。そして、彼はその過去を消すために、自分に非常に親切にしてくれた元巡査を殺害するのである。
 これは映画にもなった。映画「砂の器」はすばらしい出来映えであった。もはやあのような映画は作れないとのことである。
 この「砂の器」に限らず、「ゼロの焦点」「点と線」・・・松本清張氏が書いたあらゆるものに一貫したテーマがある。それは「今あなたがたは権力を握り、今あなたがたは多くの財産を持っている。しかし過去はどうであろうか。あなたがたによってどれほど多くの人々が犠牲になり、不幸に陥れられたことであろうか。あなたがたの今ある幸せは、多くの人々の不幸の上に築かれているのである。今ここですべてを明らかにしよう」ということである。

 彼は「人間」を描くために、推理小説という手段を使った。彼のありとあらゆる手段はこのようなテーマによって貫かれているのである。
 まさに日本歴史が無視したヤジロウの叫びそのものではないか。

 もし、ヤジロウという人物に焦点を当てて、今から五百年ほど前の歴史を書き直すならば、日本歴史は全く異なったものとなる。しかし、日本のエスタブリッシュメントにとっては不都合なために、ヤジロウは今も無視され続けているのである。

 明治六年(1873年)、西郷隆盛の「征韓論」なるものがある。
 西郷隆盛はこの戦いに敗れて下野し、鹿児島に帰った。そして明治十年(1877年)、西南の役勃発に至るのである。
 はたして西郷隆盛は征韓論を唱えたのであろうか。誰もが疑問を抱く。
 実は西郷隆盛は自分が血を受け継いでいる人物、すなわちヤジロウの功績を調べるために韓国に行こうとしたのである。
 先にも述べたように、ヤジロウは朝鮮半島全域から中国、そして東南アジア諸国にまでその勢力を張っていたのである。
 西郷隆盛はまず初めに韓国を訪問し、ヤジロウの痕跡を見つけることでそれをアジア全体に広げようとしたのである。「大東亜共栄圏」の本当の意味はここにあったのである。

 ヤジロウの時代、アジアは一つにまとめられていた。この結果を復活させることによって、欧米列強の植民地政策に対抗することができると読んでいたのである。
 しかし、大久保利通たちはこれを阻止し、西郷隆盛の征韓論なるものをねつ造して、彼の願いを無視してしまったのである。
 この意味でも西郷隆盛はすべてのことを知っていたということになる。西郷隆盛の死後、彼の書いたものや多くの手紙類はおそらく焼却されたものと推察される。

つづく

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多民族国家日本・その構造を探る 2

被支配階級として押さえつけられていた者たちがある時は技術で、ある時は財力で、エスタブリッシュメントたちに限りない影響を与えていった。
 エスタブリッシュメントたちはそれを恐れ、先にも述べたように第二次世界大戦敗北という、どさくさの中でそのライバルを叩き落していったのである。
 そして今日の経済構造ができた。

 「フォーリン・アフェアーズ」誌から引用する。
『 マッカーサーは即座に、軍部と内務省を解体したが、そうすることで、結局は大蔵省が埋めることになる権力の真空地帯を作り出してしまったのである。マッカーサーのもう一つの目的だった日本経済の改革もまた、大蔵省に有利に働いた。経済改革の中核的手段は、米国における反独占キャンペーン同様に、日本経済を支配してきた大規模な特殊会社である財閥を解体することだった。財閥の主たる富裕な一族は、大蔵省による経済政策の立案にとっては厄介な存在だったため、この改革もまた大蔵省に有利に機能した。』

 財閥解体とは常に善であると、私たちは学校の教科書で教えられてきた。しかし、次の文を読めば、大蔵省がいかにその敵である財閥をマッカーサーの権威を利用して潰していったかが分かるのである。
 日本人に教えられていない真相がここに述べられているのである。
 
 『米国側の財閥に対する反発は、戦争が終結する前から広く知られており、先を読むことに長けていた大蔵省は、マッカーサーが日本の土を踏んだときには、財閥解体に備えてすでに準備を整えていた。日本が降伏してまだ間もない時期に、大蔵省は財閥解体に対処しようと、彼ら特有の緻密な周到さをもって、昼夜兼行で大量の銀行券を印刷する計画に秘密裏に着手した。なんと彼らは、この計画のために、複数の大手印刷工場さえも押さえていたのである』
 『その後、大蔵省は最後の一撃を加える。彼らは、膨大な量の銀行券を市場に流通させ、周到にハイパー・インフレを引き起こしたのである。その結果、その後の四年間において、円の購買力は95パーセントも低下し、財閥一族が受け取っていた国債も紙切れ同然と化してしまった。』

 この「フォーリン・アフェアーズ」誌は大蔵省の勝利によって財閥が骨抜きにされた要因を述べている。
 そのことを権力闘争と述べているほどである。
 財閥の力が落ちるとともに一部の大手銀行や保険会社は大蔵省の支配下に入っていった。
 『大蔵省は、米国では、連邦準備制度理事会、財務省、連邦預金保険公社(FDIC)、会計検査院、証券取引委員会がそれぞれに分散して担当している領域のすべてを、一手に自らの管轄領域としている。さらに、大蔵省は、その外局である国税庁を通じて日本の税システムも管理している。』

 この機関誌は大蔵省がこの国税庁をも握ることで、どれほどうまく日本の政治家及び経済を動かしているかを述べる。
 『というのも、彼らは、既存の規制を選択的に強制することで、すでに日本社会を支配しているからである。日本の規制は厳密に書かれているが、一方ではその執行はきわめて柔軟に行われる。これを通じて、官僚たちは、ダブル・スタンダードを維持できるのである。彼らはある種の脱税に対しては大目に見るのだが、一方で、彼らがペナルティを与えたいと思う相手には、厳格な税基準を適用する。』

 財閥ではないが、田中角栄氏はエスタブリッシュメントたちにとって本当に恐るべき人物であったに違いない。
 それこそ、田中氏は小学校卒であったのに、東大法学部で固めたような大蔵省に手を突っ込み、大蔵省に異議を唱え、大蔵省を自分の配下に置こうとしたほどなのである。
 ついに、この田中氏もいわゆる金脈暴露によって崩壊させられていく。「文藝春秋」に書かれた立花隆氏の論文がそのスタートであった。
 それらの材料はどこから出たのであろうか。おそらくこの「フォーリン・アフェアーズ」誌が正しいのであれば、大蔵省が雑誌社にそのデータを流し、田中金脈を時至れりとして国民の前に暴露したのであろう。
 
 大蔵省による、すなわちエスタブリッシュメントたちによる、財閥への大いなる一撃は次のように述べられている。
 『さらに大蔵省は、財閥一族の資産の90パーセントをも取り上げるような残酷な富裕税を課した。米国人の目の前で、大蔵省は歴史的とも言える権力闘争を演じてみせたのである。混乱が過ぎ去った後には、産業の支配権はほとんど痛みを伴うこともなく、資本家階級から一部の大手銀行、保険会社へと移動し、そして、彼らは大蔵省によって管理されていたのである。』

 
 では、万全ともいえる日本のエスタブリッシュメントたちの支配、弥生人以後受け継がれ確立しているかに見えるその支配権が今や、いかなる危機、いかなる苦悩に直面しているのであろうか。
 彼らに大いなる敵が現れたのである。それが世界最高権力集団である。

 世界最高権力集団、すなわちヨーロッパにそのヘッドを持ち、全世界を統治しようとする者たちは今や日本にも強力な圧力を加えてきているのである。
 読者諸氏はご存知の通り、この世界最高権力集団はもともとはヨーロッパの王家グループである。彼らが表に出て、その権威があまりにも大いなるがゆえに、多くの権力集団や利益集団がそれにくっついてきているのである。
 アメリカからの流れもある。ロックフェラーのCFR(外交問題評議会)であり、TC(三極委員会)であり、モルガン財閥もそうである。
 ヨーロッパの財閥もそこに連なる。すなわちビルダーバーグである。
 今日、この世界最高権力集団は非常に強力である。政治力、経済力、軍事力・・・、そしてスーパー・コンピューターをその掌中に収めている。

 彼らはかつて世界各地に植民地を持った。それこそが自分たちに都合のいい秩序であったと信じているのである。彼らは愚かにもサタンに従いながら、自分たちこそが神から世界を支配する権限を与えられていると思っているのである。
 この世界最高権力集団は各国家、各民族に強烈なトラブルを与えている。それゆえに「民族は民族に、国は国に敵対する」というイエスの預言通りのトラブルが世界的な規模で起きているのである。
 その波は日本のエスタブリッシュメントたちにも押し寄せている。

 「文藝春秋」(1999年9月特別号)での小沢一郎氏の言葉は、そのことを端的に表している。
 「これはグローバリゼーションの問題でもある。この流れに反感をもつ人達の中には、[グローバリゼーションとはアングロ・サクソン原理の国際化である]と言って批判する人がいる。
 しかし、そんなことを言っても、どうしようもない。世界はそれに基づいて動いているのだから、きちんと対応して克服するしかないのである。」
 さらに、小沢一郎氏は次のようにも述べる。
 「新世紀を迎えようとする日本が平和を維持し、生き残っていくためには、国際社会との協調を図らなければならない。そのためには、国連を中心としたあらゆる活動に積極的に参加していく以外に道はない。その意味で私は、日本が率先して国連常備軍の構想を提案すべきだと思う。兵器・技術の発達により、もはや昔の主権国家論は通用しなくなった。個別的自衛権や集団的自衛権だけで、自国の平和を守ることは不可能である。集団安全保障の概念、すなわち地球規模の警察力によって秩序を維持するしかない。自衛権は歴史的使命を終えて、これから縮小することになる。そして日本は国連常備軍に人的支援と経済力を提供すべきである。」

 では誰が世界政府を支配するのか、誰が国連常備軍なるものをコントロールするのか・・・。
 この点がもっとも重要であるのに、小沢一郎氏は述べていない。知っているのか、知らずにただこれを書いたのか。
 はっきり言えることは今や、小沢一郎氏が述べているような時代なのである。それゆえに日本のエスタブリッシュメントたちは大化の改新以来、最大の世界的規模での試練に直面していることになる。
 日本でもそうであるように世界各国で、この世界最高権力集団との戦い、そして国家間、また民族間の争いが頻発していくものと思われる。


 つづく

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多民族国家日本・その構造を探る 1

 ここで、日本という国家について述べる。
 日本という場合、すべてが平等に運営されているかのごとく見えるが、実はそうではなく二重構造になっている。

 支配階級(エスタブリッシュメント)と被支配階級に分けられている。
 もちろん、建前上は日本は民主主義なるがゆえに、すべてが平等であるかのごとくに思える。しかし、私たちが日頃生活している中でいろいろな問題に突き当たる時、この国にははっきり支配階級なるものが存在していることが体験的に分かるのである。

 そのことは、645年の大和朝廷の統一、大化の改新の時から変わっていないのである。
 はじめ日本にやって来た人々のことを縄文人という。しかし、彼らは単一ではなかった。
 いろいろな地域からいろいろな民族がやって来ていたのである。それゆえに縄文時代の日本は文字通り多民族国家だったのである。
 シベリア、蒙古、朝鮮、中国、ポリネシア、ミクロネシア、東南アジア・・・そして古代ユダヤ人も来ていたのである。

 以前、当誌で述べたように古代ユダヤ人たち、すなわちアブラハム、イサク、ヤコブの血を受けた者たちが三度にわたってこの日本にやって来ていた。
 従って、古代ユダヤの子孫は今日も日本に存在しているわけである。
 日本で混血が進んだのはそれほど古い時代ではなかった。明確にそれが始まったのは明治以後、さらには第二次世界大戦後と考えればよいであろう。
 特に、縄文時代には各民族がそれぞれの地域で話していたのである。当時、人口も少なかったがゆえに各民族は干渉し合うことなく、平和の内に生活することができていたのである。
 これらの縄文人よりももっと早く日本にやって来た者は、もちろんメソポタミアから来たシュメール人である。
 
 一般に縄文土器と言われる土器は日本ばかりか世界中にある。すべてが共通しているのである。それゆえに日本から縄文土器が世界に広がったかのごとくに言う人があるが、そうではない。
 シュメール人こそが日本にも来、その他の地域にも渡って行ったのである。
 従って縄文人、すなわち原日本人の中にはこのシュメール人たちもいたのである。

 その後、(今から約二千年ほど前)、弥生人がやって来た。それは大量に来、かつ彼らは二つの物、一つは武器である鉄器、もう一つは稲作を携えていたのである。
 弥生人たちはどこから来たのであろうか。中国・揚子江流域である。すなわち華中と言われる地域からである。

 今日、華中から二千年前の墓が発掘され、多くの骨が出ている。日本においても弥生人と言われる人々の骨がぞくぞくと出てきている。そして「ミトコンドリアDNA」の分析を行った結果、両者は完全に一致していることが裏付けられるのである。
 いわば、弥生人たちは華中から日本に進駐軍としてやって来たのである。
 彼らの手には強力な武器として鉄器が握られていた。しかし、縄文人たちは、そのような当時の優れた武器を持っていなかった。
 弥生人たちは縄文人たちを次から次へと征服していった。そして完全に服従した者に自分たちに屈服した印として稲作を奨励したのである。
 佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、当時の弥生人たちが進駐するための砦として築いていたものであろう。
 このようにして、進駐軍はとしての弥生人たちはやがて日本を次第に一つにまとめていく。
 しかし、完全に縄文人たちが、すなわち多くの民族がすぐにそれに従ったわけではなかった。両者の間になおも戦いがあったであろう。
 しかし、日本国家が一つにまとめられる時がやって来た。これが大和朝廷の統一なのである。

 弥生人たち(華中から来た中国人)は自分たちの力だけで縄文人を従わせることはできない。そこで縄文人たちが作っていた多くの部族国家の中で最も有力なものに目をつけたのである。そしてそのトップ、すなわち首長を国家の首長として位置付けたのである。
 このようにして天皇という立場が築かれた。
 進駐軍である弥生人たちは、巧みなるかな天皇の名においてすべての政治を行なっていったのである。
 今日に至るまでも天皇が直接に政治に携わることはできない。それでいてすべては天皇の名によって推し進められているのである。

 このようにして645年大和朝廷の統一、すなわち大化の改新以降、日本の国家体制は変化していないことが分かるのである。
 
 しかし、時々変化も起きる。

 例えば、平安時代末期には国家の支配階級はゆるんだ、すなわち、京都にいたエスタブリッシュメントたちは自分たちが全国に荘園を持っていたといえども、その荘園を常に巡回していたわけではなかった。中央政治がゆるめば当然、地方もゆるんでいったのである。
 そして、うっ積した地方での不満はついに爆発し、平将門の乱というものが起きたのである。
 決して平将門は一人ではなかっただろう。多くの不満を持った者たちが平将門の乱に乗じて次から次へと乱を起していったものと思われる。
 狼狽した京都のエスタブリッシュメントたちが優秀な軍を送るといっても、被支配階級を使っての軍を遣わして、やっとの思いで平将門の乱を鎮めたのである。
 しかしすでに歪みができ、地割れができていた。
 そして1192年、武家政権の成立となるのである。
 頼朝が鎌倉に幕府を作っても、なお強力な京都の政権は存在していたのである。二つの政権、もっと正確に言えば、京都があっての鎌倉幕府であったことが分かるのである。
 やがて南北朝時代があり、戦国時代に突入していく。
 もし、あの戦国時代がなかったならば、信長はそれまでの古き秩序を破壊することができなかったであろうし、秀吉は政権を握ることはできなかったであろう・・・と言われるが、まさにその通りである。
 被支配階級であった者が地盤変化とともに頭角を現すことができたのである。
 もちろん、京都を中心としたエスタブリッシュメントはこの戦国時代をもっとも恐れ、もっとも動揺したであろう。しかし彼らとても、どうすることもできなかったのである。
 信長、秀吉と続いて家康が江戸に幕府を作る。だからといって、この時も京都の政権が消滅したわけではなかった。

 やがて幕末から明治維新に至る。
 薩摩、長州といえども、やはり天皇を中心としてでき上がっているエスタブリッシュメントたちの政権を崩壊させることはできなかった。それをある時は利用し、ある時はそれに乗せられて、近代日本の建設に入っていったのであった。
 だからといって、エスタブリッシュメントたちは自分たち独自の政治権力を忘れていたのではない。彼らは、常に時あらば自分たちの大和政権を前面に出したいと願っていたのである。
 明治以後、彼らの前に現れた二つの敵がある。すなわち被支配階級にして、その敵となったグループがある。その一つが軍部であり、もう一つが財閥なのである。
 軍隊が強くなればなるほど、エスタブリッシュメントたちは恐れた。
 第二次世界大戦敗北とともに軍部が崩壊することで、エスタブリッシュメントたちは安堵したことであろう。

 もちろん、彼らはそのことのために盛んにアメリカや民主主義という言葉を利用したであろうが、いずれにしろ自分たちを粉砕する被支配階級による軍部は消滅したのであった。
 そえゆえに今に至るまで、マスコミをはじめ学界などで常に軍部は悪である。軍閥が第二次世界大戦へ日本を突入させた・・・、などという論理を展開させる。そして、国民はそれを信じているのである。

 財閥はどうであろうか。
 財閥の代表と言えば三井である。三井は今日の三重県、当時の伊勢・津からスタートした。伊勢商人という言葉があったように、三井の前身も伊勢商人として江戸に出、越後屋を開いたのである。

 越後屋は非常に賢いやり方で商売を成功させ、多くの富を蓄積していった。
 越後屋に限らず、商売によって成功していった被支配階級が多く出たのである。これに大名たちが借金をしなければならなくなっていった。
 江戸時代中期はそれこそ商品経済、貨幣経済が非常な勢いで発展していったのである。
 同じことが幕末においてもそのまま続いた。
 それゆえに明治以降、財閥を作るグループは明治維新以降も財力を持って生き残ることができた。そればかりか近代工業が起こるとともに商売ばかりではなく金融、あらゆる製造業、そして政商としての成功を遂げていったのである。
 しかしエスタブリッシュメントにとってはいかなる時にも、財閥が目の上のこぶであったことには変わりがなかった。


 CFR(ロックフェラー主宰の外交問題評議会)の機関誌「フォーリン・アフェアーズ」はそのことを非常に詳しく述べていたのである。日本人が知らない日本の構造を明確に述べていた。

 ロックフェラーは世界最高権力集団とつながっている。彼らは日本国民が知らない日本の構造を知り抜いていることになる。

 ちなみにこの「フォーリン・アフェアーズ」誌は1995年に発行され、重要文献として取り扱われたのである。

 そして、これを作成した人物はおそらく今日においても、京都でその任務に就いていることであろう。もちろん彼はアングロ・サクソン系である。
 彼の貴重なレポートの中で「大蔵省」(現財務省)という役所が当然出てくる。大蔵省こそが日本のエスタブリッシュメントたちの重要な金庫番なのである。645年の大化の改新以降、まず作られたのが大蔵省であっただろうし、明治維新以降、明治二年にまず作られたのも大蔵省であり、日本銀行であった。

 国家の母体となる明治憲法や帝国議会などは、それより数十年も後に作られているのである。
 それに対して、財閥は被支配階級のものである。従って大蔵省と財閥はどれほど対立し、かつ大蔵省が第二次世界大戦敗北という未曾有の日本国家の動揺の時に、いかに財閥を叩き潰していったかがこの機関誌で述べられているのである。

 この論文は貴重にして驚異のものであると考えるべきであろう。
 三井は明確に古代ユダヤ直系であった。それもイエスをキリストと信ずる古代ユダヤの直系であったのである。
 彼らの先祖は三位一体の神、すなわち父なる神、子なる神、聖霊を明確に信じていた。
 今日のユダヤ教がもっとも目のかたきとするのはこの三位一体の信仰である。すなわち自分たちが十字架につけたイエスが救世主であったということに対して、彼らは最大限の憎悪をするのである。
 しかし、日本に来た古代ユダヤの直系はこの三位一体の神を信じていたのである。すなわち、イエスを十字架につけはしたが、それは救世主であり、かつイエスは復活したと信じていたのである。

 その信仰はずっと受け継がれていた。そして江戸時代の半ば、宗門人別改帳が強い時代に、三井はこれら古代ユダヤの拠点のひとつであった京都、太秦に三本柱の鳥居を作ったのである。享保年間のことであった。
Mimeguri31_2
 
(東京・向島 もとは三井本家にあったもの)
2014051_2
(京都・太秦)
  この写真を見ることによって分かるように、彼らは明確に三位一体の神を信じていることを示したのである。
 各鳥居の角度は60度、すなわちどの方向から祈っても、あるいは礼拝しても三方向は一つであることを暗示しているのである。
 毛利家の家紋は三つの丸の下に太い一という字を書く。これこそまさに、三位一体の信仰を表したものなのである。
 三菱は財閥を形成するが、岩崎弥太郎はもともと土佐の人物であった。彼は進駐軍としての山内家の家来の子孫ではなく、四国の覇者・長曾我部の家来の子孫だったのである。
 長曾我部もまた古代ユダヤの直系であった。
 住友と言えば、四国の別子銅山を誰もが思い出す。固い銅鉱石からなぜ銅だけを取り出すことができたのか。このような技術は弥生人に支配された後の日本人の中にはない。すなわち、稲作をする民族には考えつかないことなのである。
 聞くところによると、住友財閥の先祖は蘇我氏にして銅の鋳造技術を持っていたとのことである。おそらく古代ユダヤの直系であろう。

 
 つづく

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古代ユダヤと司馬遼太郎 2

 「 いま一度、日本を洗濯致し申し候」・・・。

 これは龍馬の有名な言葉のひとつでありますが、ある方は坂本龍馬を縦糸にし、古代ユダヤを横糸にして紡いでいくと、やがて坂本龍馬の夢見た世界が訪れると、述べられました。

 そして前回、その一部を紹介させていただきました。

 その続きを紹介します。

 『司馬遼太郎自身、「歴史探訪」で次のように述べたことがあった。
  「私は、『竜馬がゆく』という小説を書いて、最後の回を書き終わった時に、はっと気がついたことがあるんです。ああそうか、と思った。それは書かなければわからないことなので、小説というものは不思議なものです。書く時にわかっていないことが、書いてからわかることがあるんです。
 坂本龍馬にとっては明治維新を革命としたなら、革命というものは片手間だったということ -  他の革命家たちは西郷隆盛でも桂小五郎でも、火の粉の中では革命そのものを達成すべくやっているのに、龍馬にとってはそれは片手間な仕事だった、ということがわかった感じなんですね。それは長崎海援隊の視点で考えればわかります。」

 まさに龍馬には大きな夢があった。海援隊として世界に出て行き、そして世界的貿易をすることであった。もし世界の海に1万隻の船を浮かべるならば、日本の領土が1万増えるという考え方だったのである。
 そのためには政治的に無力となった徳川幕府を倒さなければならない・・・これが坂本龍馬が幕末に始動した背景とそのエネルギーの根源だったのである。

 龍馬は浪人の身であったが、薩摩と長州を動かして、いわゆる「薩長秘密同盟」を結ばしめたのである。
 当時、薩摩には米が不足していた。その米を長州から出させる。一方、長州は幕府の敵とされ、軍艦などを外国から買うことができなかった。それゆえに龍馬は海援隊を使って薩摩の名によって長州に外国から軍艦を購入してやったのである。
 お互い敵であった薩摩と長州が、経済的な結びつきによって、まさに奇蹟的な同盟を結んだのである。
 この薩長秘密同盟が成立した時、徳川幕府は崩壊したと考えてもよいであろう。
 やがて龍馬は大政奉還を成し遂げて行く。自らは浪人なるがゆえに、そのアイデアがどれほど素晴らしいものであっても、大政奉還の建白書を提出することはできない。それゆえに土佐藩の家老であった後藤象二郎に託して、土佐藩主を動かしめたのである。
 まさにこの大政奉還もまた幕末における大いなる奇蹟と言っても過言ではないであろう。

 薩長秘密同盟、そして大政奉還・・・新しい時代が目の前に近づいていたのである。その中で先に述べた坂本龍馬暗殺事件が発生した。

 龍馬が暗殺されたわずか2週間後に「王政復古の大号令」が出されたのであった。
 龍馬は海援隊をして世界の貿易を行う・・・その夢は同じ土佐藩の岩崎弥太郎において成就することになった。この岩崎が「三菱財閥」を作ることになったのである。

 来年2010年、NHK大河ドラマ「龍馬伝」は、龍馬とこの岩崎弥太郎を1年間にわたって取り上げるのである。
 ついでながら同じNHKが、まもなく11月29日から約3年間をかけて司馬遼太郎の「坂の上の雲」を放映するのである。
 龍馬の夢を追い、一方においては生まれてまもない日本が、ロシアとの戦いにおいて勝利する夢が描かれていく。
 
 上昇気流に乗るという言葉があるが、いよいよマスコミをして日本において同じような上昇気流が起きることになる。

 さらに龍馬にはもうひとつの夢があった。それは北海道開拓である。ロシアに対する防衛、そして北海道における農業地を切り開くことだったのである。
 龍馬が暗殺され、そして明治維新の後、龍馬の親戚たちは続々として、あたかもその龍馬の言葉に従うかのごとく北海道へと渡って行った。

 
 司馬遼太郎が坂本龍馬以外に、最も力を入れた人物は高田屋嘉兵衛であった。彼は兵庫県淡路島に生まれ、まだ鎖国の時代にあった日本をして、ロシアとの外交政策を実行していったのである。もちろん高田屋嘉兵衛は日本での商人であったが、ある事件をきっかけにしてロシアとの外交交渉に当たらざるを得なかったのである。
 その小説が「菜の花の沖」である。
 司馬遼太郎はこの二つ、「竜馬がゆく」と「菜の花の沖」に持てるすべての力を費やしたのである。
 彼はその他、眠っていた多くの日本の英雄を次々に復活させるかのごとくに小説を書いていった。
 小説であるがゆえに、そこに描かれたのは歴史的事実と異なっているかもしれない。そうであるからこそ、そこに司馬遼太郎の夢とそのエネルギーが表れていたのである。

 彼は結果的に古代ユダヤの復活を多くの日本人に伝えていたのである。
 今日、多くの日本人は本を読まなくなってきている。毎年、本を読む読者層が減ってきているのである。
 その中でも断トツで、最も多くの人々が読み続けているのが司馬遼太郎の著作集である。

 世界は大きな変化を遂げる。その中において日本の最大の秘密は、古代ユダヤの血統が日本に生き続けているということである。
 司馬遼太郎の先祖は播磨の国、三木城の近くに住んだ武士である。三木といえば篭城戦で歴史に名を残した。
 彼の祖父、福田惣八は元々は三木姓だった。そして彼は明治になって大阪に出て来て、餅屋になっていたのである。かつて三木城が落ちてから、司馬遼太郎の先祖たちは兵庫県飾磨郡広という村で逃げ延び、他の城兵と共に湿地帯を開いて部落を造ったのであった。播州ではほとんどの家に落城後、逃げ落ちる時の恐怖噺が伝えられていて、話題の少ない農村では、まるできのうの事件のように語り継がれてきたのである。
 そしておそらく有史以来、播州の住民が体験した最大の事件が三木城落城だったのである。
 徳川中期には赤穂浅野家の騒ぎがあったが、規模の大きさにおいては比べることができないのである。
 
 徳川家康に遣わされた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の軍によって三木城は包囲された。数年間にわたる包囲である。そして三木城城主は別所長治であった。
 その時、長治は21歳の青年であった。戦国武士にしては珍しく古武士のような美意識を持っていた。戦国最後の名門の子であったからに相違ない。例え新興勢力の下風に立つとはいえ、大軍の先鋒を務めるということに武門の名誉を感じ続けたのである。
 一国の運命を単なる美意識にかけたというのも、乱世に類のない話といえるであろう。
 三木城は次第に孤城になっていったが、頼みにしていた毛利方の援軍は遂に来なかった。老獪な毛利は織田軍との大決戦に備えて、兵力の消耗を避けたのであろう。別所家は毛利のために大汗をかき、織田軍と戦いながら毛利の援軍を得ず、先の見込みもなく、何のために戦っているのかわからない状態になったが、それでも戦い続けたのである。
 驚くべきことにこの年は戦いに暮れ、翌年もその翌年も戦いが続いた。
 まさに狂気のごとき戦いであった。兵糧が尽き、草木を食い、壁を食い、遂に軍馬を食ったが、なお怯むことはなかったのである。長治の持つ貴族的な高雅さが、惨烈な篭城戦にあってよく部下を統率したのであった。

 そして遂に落城の時が来た。
 長治は孤城の士卒をことごとく本丸の広間に集め、長い戦いの労をいたわると共に、永訣の辞を述べ、翌日、庭に紅梅の咲く30畳の客殿に白綾の布団を引き、妻、波多野氏、男子2人、女子1人の子、そして実の弟夫妻と共に自害して果てた。
 その辞世は「いまはただうらみもあらじ諸人の命にかはる我身と思へば」であった。
 三木篭城の狂気ともいえる高潮した精神が、江戸期に入ってもなおこの地に息づき、浅野長矩の潔癖な狂気を生むと共に、その家臣団の中から赤穂浪士を生んだ。いずれも自分の美意識に殉ずるために家を捨て、身を滅ぼしていった。現に赤穂浪士の中には、三木城の篭城した者たちの子孫が幾人か混じっていたのである。
 三木の狂気が元禄に入って再び赤穂に現われたと言えなくもなかった。

 この別所氏も長治の妻を送った波多野氏(丹波・篠山)も古代ユダヤの子孫であった。
 まさに波多野氏は中国の秦氏の子孫である。
 当然、三木城において別所長治を支えた多くの人々の中に、古代ユダヤの子孫たちがいたであろう。それが三木城篭城となり、そして破れ、やがて散らされて行った人々の中には、その血液が生き続けていったのである。

 司馬遼太郎の文学は、そしてその血液はかくのごとく保たれ、かくのごとく姿を現わしたのである。

 来るべき2010年、世界は大動乱に入る。そのような時期に、日本においてもまたマスコミや様々なことを通して、古代ユダヤの復活を見ることができるのであろう。』(紹介終わり)

 古代ユダヤ・・・。

 そのような内容に触れたことで、 彼らは次の時代へ向かう時まで、日本の中で温存されたきたかのように感じております。

 そして、これから彼らは復活する。

 そんな予感がしてくるのです。

 司馬氏に対してこんな話を聞きました。  生前、彼をよく知るある人が、「もっと住みやすい場所に移られたらどうですか?」と進言されたことがあったそうなのです。
 
 未開放部落と呼ばれるところ。その地が彼の活動拠点であったそうです。
 
 

 この国で使われる漢字の中に「犠牲」という文字が存在します。

 漢字は中国から伝えられたものでありますが、この意味をよくよく考えてみるならば、これは誠に不思議なことで、中国や日本の文化をたどってもその文字が意味する事柄はどこにも見当たらないのであります。

  牛、羊、そして我。

 牛や羊が我の身代わり。「犠牲」の意味はそれを表した文字だと思われます。
 
 そして旧約聖書レビ記にそれは詳しく書かれていることから、聖書的な影響を受けた文字だと言えるのです。

 最後に坂本龍馬についてはフリーメーソンによって利用された人物、あるいはフリーメーソンだったという説が知られているようです。
 そして、それは説というよりもフリーメーソンとの接触があったことは紛れもない事実だったことが、裏付けられているようです。

 しかし、その事実はたとえ明確であったとしても、龍馬ははたしてフリーメーソンに利用されていたのでしょうか。

 もし、利用されていたのであれば、龍馬は何ゆえ暗殺されて、犯人が今も不明のままなのでしょうか。
 しかし、龍馬が彼らを利用した立場にあったとして、さらにはその事実に彼らが気付いたとしたら、彼らは一体どのような対処をするのでしょうか。

 どちらにしても真意を知ることは難しいことではありますが、別の見方をしたときに、見えない影の存在がぼやけているように感じたのです。

 

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古代ユダヤと司馬遼太郎 1

明日は坂本龍馬の生誕日、そして命日です。

・・・まずは、ある方からいただいたお手紙を紹介させていただきます。

『龍馬は慶応3年(1867年)11月15日に京都河原町通りの近江屋で殺された。それは突然に起きた死であった。

  その日11月15日の夕刻、京都郊外の白川土佐藩邸にいた中岡慎太郎は、河原町土佐藩邸近くの書店「菊屋」を訪れた。そこにかつて慎太郎は下宿していたことがあった。そして菊屋の息子・峰吉を可愛がっていた。

 慎太郎はこの峰吉に書状を渡して、その返事を近江屋に届けるようにと伝えた。近江屋は坂本龍馬の下宿先であった。そこで慎太郎は土佐藩士・宮川助五郎の件を龍馬と相談する予定だったのである。前年の9月、新撰組に捕縛された宮川が、今日にも釈放されようとしていたためである。

 その後、慎太郎は付近に下宿する土佐藩士・谷千城を訪ねたが不在であったので、午後6時頃に近江屋に着いた。いずれも藩邸からほど近い場所であった。
 龍馬はこの2、3日前まで近江屋主人・新助の計らいにより土蔵に潜んでいたが、風邪を引いたことなどから母屋2階の8畳の間に移っていた。2階では彼の付き人である藤吉が同居していた。
 用を済ませた峰吉は午後7時頃に近江屋へやって来る。そこへ土佐藩下横目・岡本健三郎も立ち寄っていた。
 
 雑談の後、空腹を覚えた龍馬が「軍鶏(しゃも)鍋を食べたい」と言った。そして買い物を引き受けた峰吉が出かけるのを機に、岡本も近江屋を退去した。

 2階に残ったのは西8畳の間の龍馬と慎太郎、そして東8畳の間の藤吉の3人であった。
 岡本と別れた峰吉は近くの鳥新に行くが、あいにく品切れ中であった。新たに軍鶏を潰すため20~30分ほど待たされた。惨劇はその間に起きた。

 近江屋を訪れた数人の武士が、十津川郷士の名刺を出して龍馬への面会を求めた。それを取り次いだ藤吉が階段を2階へ上がって行く。藤吉の後ろに3人の武士が従った。そして藤吉は階段を上がりきったところを背後から切りつけられたのである。
 その倒れる音を聞いた龍馬は、店先で誰かがふざけていると思ったのであろう、「ほたえな(騒ぐな)」と叱った。行燈が点いた西8畳の間で、龍馬と慎太郎は火鉢を挟みながら座っていた。
 その瞬間である。二人の者が部屋に乱入し、ひとりが「こなくそ」(四国の方言、この野郎という意味)と発しながら、手前にいた慎太郎の後頭部を斬った。と同時にもうひとりは、床の間を背にする龍馬の前額を横に斬った。
 
 慎太郎は大刀を屏風の後ろに、龍馬は床の間に置いていた。慎太郎は小刀で応戦するが、手と足を切り刻まれて意識を失った。
 もう右手首は皮一枚を残すだけとなっていた。
 一方、龍馬は大刀を取ろうと振り向いたところを袈裟懸け(けさがけ)にされる。それでも立ち上がろうとするが、またもや額を斬られた。脳しょうが流れ出すほどの重傷を負った。

 襲撃者に臀部を刺された慎太郎は痛みのあまり意識を取り戻すが、そのまま死んだふりをしていると、誰かが「もうよい、もうよい」と言い、襲撃者たちは引き揚げて行った。

 ほどなくして意識を回復した龍馬は、「残念」と口にしながら「慎太、慎太。どうした、手は利くのか」と尋ねる。「手は利く」と慎太郎は応じた。
 すると龍馬は行燈を片手に隣の東8畳の間まで這って行き、明かり取りの手すりから「新助、医者を呼べ」と階下の主人に声をかけた。

 しかしながらそこで龍馬は力が尽き、「慎太、俺は脳をやられたからもう駄目だ」とつぶやきながら倒れた。
 慎太郎も明かり取りとは反対側の物干しへと這い出て、近江屋の者を呼ぶが応答がない。やむなく彼は隣家の屋根まで這い伝って行ったがそこで再び意識を失ってしまう。

 中岡慎太郎はこの襲撃の後、2日間生きることができた。そして中岡慎太郎の証言によって、龍馬が襲われた状況が正確に伝えられている。
 龍馬たちの前に斬られた家来の藤吉は、龍馬襲撃の翌日に息を引き取った。

 司馬遼太郎著「竜馬がゆく」で、その暗殺の事件が次のように綴られている。

 「龍馬は自分で這い、隣室を這い進み、階段の口まで行った。
  『新助、医者を呼べ』
 と階下に声をかけたが、その声はすでに力が失せ下まで届かない。龍馬は欄干をつかみ座り直した。
 中岡も這って龍馬の側に来た。
 龍馬は外科医のような冷静さで自分の頭を押さえ、それから流れる体液を手の掌につけて眺めている。白い脳しょうが混じっていた。

 龍馬は突如、中岡を見て笑った。澄んだ太虚のように明るい笑顔が、中岡の網膜に広がった。
 『慎の字、俺は脳をやられている。もう、イカヌ』
 それが龍馬の最後の言葉になった。言い終わると最後の息をつき、倒れ、なんの未練もなげにその霊は天に向って駆け上った。

 天に意思がある。
 としか、この若者の場合、思えない。
 天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上に下し、その使命が終わった時、惜しげもなく天へ召し返した。
 この夜、京の夜は雨気が満ち、星がない。
 しかし、時代は旋回している。若者はこの歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押し開けた。」

 
 司馬遼太郎は坂本龍馬が好きであった。多くの資料を長きにわたって集め、そして満を持するかのごとくにしてその小説を書いたのである。
 それ以前、多くの日本人は坂本龍馬について知らなかったし、坂本龍馬は有名でもなかった。
 しかし、「竜馬が行く」の結果、多くの人々が坂本龍馬というまさに幕末の快男児を知るところとなったのである。

 司馬遼太郎自身、坂本龍馬について次のごとくに書いている。
 
 「坂本龍馬は維新史の奇蹟、と言われる。
  確かに、そうであろう。同時代に活躍したいわゆる英雄、豪傑どもはその時代的制約によっていくらかの類型に分けることができる。型破りと言われる長州の高杉晋作でさえ、それは性格であって、思想までは型破りではなかった。
 龍馬だけが型破りである。
 この型は、幕末維新に生きた幾千人の志士たちの中でひとりも類例を見ない。日本史が坂本龍馬を持ったことはそれ自体が奇蹟であった。なぜなら天がこの奇蹟的人物を恵まなかったならば、歴史はあるいは変わっていたのではないか。
 私は年少の頃からそういうことを考えていた。新聞記者の頃、少しずつ資料を集め始めた」(「竜馬がゆく」あとがきより)   』


つづく

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石の不思議を考える

大本教に「石がもの言う時が来る」という言葉があるそうです。

 小生はこの意味が何なのかは存じませんが、ことわざにも「石の物言う世の中」というのがあるそうです。
 その意味は、秘密が漏れやすいことのたとえで、物を言うはずのない石が物をいうほど、世の中では秘密が漏れやすいという意から、そのような言葉ができたそうです。

 石がものを言う・・・。
 そういえば、私たちはお墓参りに行くと、お墓の前で手を合わせ、ご先祖様と会話します。そのときにご先祖様が墓石に降りてこられるのでしょう。そして、日々の感謝を報告するのですが、単純にその様子を考えると、私たちは石と会話をしていることになるのです。

また、言霊的な見地から捉えると、石は医師や意志という言葉にも、何かしらの接点があるような気もするのです。

 それで最初に「石=医師」という観点から考えてみました。
 まず、日本は火山列島と呼ばれることから、全国各地には温泉があります。
 温泉は湯治場と言われるように、今で言えば病院のような役目を備えた場所でした。
 そして、温泉は鉱泉が湧くところで、鉱泉は治療成分がある水のことをいいます。鉱泉とは石の影響を受けた水。このようにやはり、「石は医師」でもあるようです。

次に「石=意志」を考えました。
今度は、それを聖書に記された事柄から、紹介したいと思います。

旧約出エジプト記には、祭司が身に付ける胸当てには必ず石をはめ込むように、以下の内容で記されています。
 『15 あなたはさばきの胸当てを、巧みな細工で作る。それをエポデの細工と同じように作らなければならない。すなわち、金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で作らなければならない。

16 それは、四角形で、二重にし、長さは一あたり、幅は一あたりとしなければならない。

17 その中に、宝石をはめ込み、宝石を四列にする。すなわち、第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。

18 第二列はトルコ玉、サファイヤ、ダイヤモンド。

19 第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶、

20 第四列は緑柱石、しまめのう、碧玉。これらを金のわくにはめ込まなければならない。

21 この宝石はイスラエルの子らの名によるもので、彼らの名にしたがい十二個でなければならない。十二部族のために、その印の彫り物が一つの名につき一つずつ、なければならない。』
(出エジプト記28章15-21)

以上が、石にまつわる部分ですが、この宝石がユダヤ12部族の名になるといわれていますので、各々の石についての部族名や石の効能などを以下に説明致します。

第一列
赤めのう(レッドアゲート)   ルベン族  勇気と行動力を身につけ、失敗や不幸にも負けず前進することを助ける。

トパーズ           シメオン族  問題解決を助け、芸術に関係している人に有用。消化を助け食欲不振に対処する。

エメラルド             レビ族  人生の不幸を克服する強い性格をもたらす。肝臓の解毒効果、リウマチと糖尿病の症状をやわらげる。記憶力の強化、表現力を助ける。

第二列
トルコ玉(ターコイズ)       ユダ族  内面の平静さをもたらし、創造的な表現を助ける。

サファイア           ゼブルン族  繁栄をもたらしあらゆる種類の恵みを引き寄せる。血管疾患に対処する。

ダイヤモンド         イッサカル族  勇敢さ、無敵性、不屈性をもたらす・創造力や創作力を刺激し、心の明晰性、悟りを助ける。

第三列
ヒヤシンス石(ジルコン)      ダン族  病気や怪我から身を守り、雷の被害から守る。良い眠りを誘う力があるため、旅の安全に使われた。

めのう(アゲート)        アセル族  血液を浄化し、解熱解毒の作用。精神安定的な働きをする。安眠効果あり。

第四列
緑柱石(アクアマリン・ベリル) ナフタリ族  心を鎮め、物事を正しく認識させ、知性を研ぎ澄まし混乱を解決する。未完結の事項に結論をもたらす能力がある。船乗りたちはお守りとしてこの石を携行。

しまめのう(オニキス)      ヨセフ族  忍耐力と精神力を高め、目標実現をサポートする。

碧玉(ジャスパー)     ベニヤミン族  正しい判断、行動力と勇気、情熱を引き出す。自分を変え、美しく輝きたい人に力を与える。


以上が、12の石についての説明ですが、これらのことから石には人間の肉体や精神に対して、何かしらの手助けをしてくれる、そんな事柄について、ふれられていることを知ったのです。

また、後の時代へ語り継ぐような意味合いで、石に文字が刻まれる石碑というものを考えると、「石は意思を伝達する」という、手段で利用されていたことが分かります。

有名なところではモーセが神と交わした十戒は石板でありました。
さらに、旧約ヨシュア記には以下のように記されていました。

『22 それでヨシュアは民に言った。「あなたがたは、主を選んで、主に仕えるという、自分自身の証人である。」すると彼らは、「私たちは証人です」と言った。

23 「今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」

24 民はヨシュアに言った。「私たちは私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」

25 それでヨシュアは、その日、民と契約を結び、シェケムで、おきてと定めを定めた。

26 ヨシュアは、これらのことばを神の律法の書にしるし、大きな石を取って、主の聖所にある樫の木の下に、それを立てた。

27 そして、ヨシュアはすべての民に言った。「見よ。この石は、私たちに証拠となる。この石は、主が私たちに語られたすべてのことばを聞いたからである。あなたがたが自分の神を否むことがないように、この石は、あなたがたに証拠となる。」

28 こうしてヨシュアは、民をそれぞれ自分の相続地に送り出した。』
(ヨシュア記24章22-28)

ちなみにヨシュアはモーセの弟子でありました。彼はここで「石は聞いている」とも語られました。

このように、石というものを考えてみると、それは「不思議な性質を持たされた物質」のような感覚にとらわれてしまうのです。

さらに旧約サムエル記第一は、石に対して感謝の意が記されてもいるのです。

『12 そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と言った。』
(サムエル記第一7章12)

この部分のエベンは「石」、エゼルは「助ける」という意味で、「石に助けられた」と解釈できます。

それで、今度は日本的な意味合いでの「石」を考えると、「勾玉」という言葉が浮かんできます。
勾玉は古代の日本における装身具の一つであります。
その形は陰陽太極図の形をしており、、「魔を避け、幸運が授かる物」として、今日風にいうならばパワーストーンというものになると思われます。

地名に「玉造」とあるところは、「勾玉」が作られていたことを示すことから、その名が残されたようです。
そして、皇室に伝えられる八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、その中では代表的なものであり、日本の三種の神器のひとつとして伝えられているものです。

このような「石」にまつわる事柄にふれてみると、やはり石は「医師」であり、その中には「意志又は意思」が秘められているような思いにかられてしまうのです。

それを科学的な言葉で言い換えるなら、ある種のエネルギーを発している「波動」というものになるのでしょうか。
そしてミクロ的には原子の世界を表しており、マクロ的には宇宙を表すことにもなります。

やはり、過去の歴史や聖書的な観点から考えてまいりますと、石は単なる物質ではなく、そこには深い意味が込められた、見えない何かがあるようです。このような捉え方を発展させれば、「石がもの言う時が来る」という意味も、見えてくるのではないでしょうか。

小生は、日本に古代ユダヤ人が来ていることに、興味を持っておりますが、今回は「石」というテーマから捉えてみても、そのような感じを受けました。

古代ヘブライ語では造物主のことを「ヤハゥエ」と呼ぶそうです。しかし、発音的にはそれは「ヤウエ」と聞こえるそうです。
そして神への叫びは「ヤーサカ」となり、まさに八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は「ヤサカにのまがたま」となりますし、「ヤサカ」は「弥栄」とか「八坂」という日本における神道で用いる言葉に共通したものにもなります。

以上のような事柄は、最近「勾玉」にまつわるお話を聞いたことから、お伝えさせていただきました。
そして、次の時代というものを予感させる今の時代におきましては、この「石」の持つ不思議な力に、人は純粋な「意思又は意志」を持って、見直す必要性があることに小生は気付かされたので御座います。

最後に話は変わりますが、丁度、こんな話を気にしていたときに、ある方からとても素晴らしいご縁を頂きました。
誠に不思議な思いであり、その出来事を通じまして、このような日記を書きました。
その方のご好意に感謝を申し上げます。
誠にありがとうございました。

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安心立命

まずはじめに突拍子もないことをお伝えします。

 それは人工地震がこの日本で再度起されるという情報です。

 詳しくは以下をご覧下さい。
 
 http://goldentamatama.blog84.fc2.com/blog-entry-424.html

 小生もこのような情報にはたいへん興味をもっています。
 それで以前は情報を知るたび、紹介していた一人でもありました。

 でも岡田茂吉氏の論文を拝見するたび、その考えが次第に変化してきたのです。
 また、聖書を見てもそうであります。

 そして結論を先に申しますと、天に通じているのであれば何処にいても心配ない。そのような答えに繋がったのです。
  

 マタイの24章によれば、世の終わりのはじめには地震やききんが方々で起きると告げられています。
 そしてイエスはエルサレムの神殿に偽救世主が立ったとき、そのときユダヤにいる人は山へ逃げろと告げました。ユダヤとは今のイスラエルのことであると思われます。

 そしてイエスはこうも言いました。これは世界に向けて告げられたものだと思われます。

 『もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。』

 選ばれた者のために・・・。

 またヨハネの黙示録、ここではイエスは以下のように告げています。
 黙示録はイエスがヨハネに見せた夢が記録されたものであります。

 『ヨハネの黙示録 7章

 1 この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押さえ、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。

 2 また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。

 3 「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」

 4 それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。

 5 ユダの部族で印を押された者が一万二千人、ルベンの部族で一万二千人、ガドの部族で一万二千人、

 6 アセルの部族で一万二千人、ナフタリの部族で一万二千人、マナセの部族で一万二千人、

 7 シメオンの部族で一万二千人、レビの部族で一万二千人、イッサカルの部族で一万二千人、

 8 ゼブルンの部族で一万二千人、ヨセフの部族で一万二千人、ベニヤミンの部族で一万二千人、印を押された者がいた。』

 ・・・これはどのような意味となるのか、実はこれが日本から登場する選ばれた者たちであるのです。

 7章の2の部分 『生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。』

 そして3の部分 『私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。』

 そして4の部分 『それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。』


 現在のイスラエルには十二部族のユダヤ人は存在しません。
 ところが黙示録7章を見るとイスラエルの子孫のあらゆる部族が印を押されると書かれています。
 はたしてそんな国はどこにあるのか?

 ・・・それが日本であるのです。
 7章の2に日の出るほうから上って来た。と書かれていますが、これが日本を表しています。
 そして12部族の古代ユダヤ人が日本人として存在する。
 それを紹介すると非常に長くなりますので、以前の日記をご覧下さい。
 http://plaza.rakuten.co.jp/tsuitemasu/diary/200703120000/

 そして7章の3を見ると彼らがいるから日本は守られる。それが『地にも海にも木にも害を与えてはいけない。』になると思われます。
 はっきり”地にも”と書かれています。

 そして彼らに印が押される。

 さらに興味深いことは7章の5から始まる12部族の紹介です。
 実はこの部族の中で含まれていない部族がいます。
 それはダン族。
 何故かというと彼らは黒いユダヤ人と言われたユダヤ人であったからです。
 ですから日本に黒人の人はいない。

 すると13部族になるではないかと言われますが、ヨセフの部族が二つ分かれていてヨセフの部族はマナセ族とエフライム族。
 ここにはマナセとヨセフ(エフライム)と書かれていて、一つが二つになったためダン族が含まれていないのです。
 

 次に岡田茂吉氏にうつります。
 岡田氏はエホバの大神からその使命を直接賜ったそうです。
 まさしくエホバとは造物主、モーセが神と契約した創造主であるのです。

 それで岡田氏は昭和25年と27年に「安心立命」という論文を発表されているのですが、どうしても救世教の方たちに向けた論文に思われてしまうようです。
 
 しかし宗教と言う概念を持たずに見ると、黙示録に繋がるような、そんな捉え方が出来るのではないでしょうか。

 興味がある方は以下のサイトで検索されて見てください。
 (直接その論文にリンクするやり方を知らないので、このような形をとらせていただきます。)

 http://www.rattail.org/
 (タイトルは何れも”安心立命”なので、50音順で検索されると簡単です。)

 実はある方から、トップに貼り付けた某サイトの記事を質問されて今回の日記を書きました。
 小生はそのように思っております。

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